江島神社◆境内散歩(その6)◆~岩屋本宮~稚児ヶ淵・龍池窟~

江島神社◆境内散歩(その6)◆~岩屋本宮~稚児ヶ淵・龍池窟~

 江島神社に伝わる『江島縁起』には、まず 欽明天皇が、その十三年(552年)に「宮」を島南の竜穴(岩屋のこと)にお建てになり、さらに「役小角(えんのおづぬ)」が修行場として御窟を開いたと記されています。その後も奈良・平安・鎌倉 と続く江ノ島の長い歴史の中で「泰澄」「道智」「空海」「安然」「日蓮」「蘭渓道隆」といった名僧たちが、夫々に、岩屋に籠り行を修しました。
 弁財天をお祀りする宗教施設としての岩屋本宮 (窟屋)は、弘法大師・空海が、弘仁五年(814年)に 7日間の参篭の後、弁財天女の来迎を得て、その姿を五指ほどの小さな像に刻み金窟(岩屋本宮)に安置したのが始まりと云われています。江戸期に岩本院(その名も「岩」屋「本」宮から来ています)が、島内で絶大な力を振るうことができたのも、別当寺として岩屋本宮を差配する権能を保持していたからに他なりません。

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岩屋道の石鳥居

 奥津宮から稚児が淵に向って進みますと、占いの海賞堂を過ぎたところに、模様が彫られた特徴的な石の鳥居が見えてきます。

 鳥居の表面に彫られているのは「違い角丸」紋です。鳥居の右の台石に「も」、左の台石に「組」と彫られていることからも分かるように、この鳥居の施主は銀座界隈の消防を担っていた江戸町火消「も組」ですが、「も組」の「纏頭」や半纏の背にある「分銅銀」と、半纏全体に描かれた「◇(釘抜き)」型を組み合わせてデザインしたようです。

 柱の刻文を見ますと向かって右側の柱には「嘉永四辛亥年四月大安日」とあり、左側の柱には「大正十四乙丑年二月修理」とあります。嘉永四年に建立されたこの鳥居ですが、関東大震災の折に倒壊したため、大正十四年に修理されました。

反対側から振り返るとこんな感じ。

 鳥居の脇には、折損した旧左柱を利用して、修理に際しての施主の皆さんのお名前が刻まれた記念碑が建てられています。肩書に「組頭」「組頭副」「小頭」「小頭副」とあるように、江戸町火消「も組」の流れを汲む明治・大正期の消防組の方々です。

高木蒼梧の句碑

 こちらは、大正・昭和に活躍した俳人・高木蒼梧の句碑で「夏富士や 晩籟神を 鎮しむる」とあります。前年の文部大臣賞受賞を記念して、昭和36年(1961年)に江島神社宮司の相原直八郎氏により建てられました。

 こちらの銘板は、高木蒼梧が没した後の昭和46年に、俳人の鈴木芳如らによるものです。

御神燈

こちらの燈籠は、文政十年(1827年)に、藤沢の山本城豊という方が建てたもので「神の灯に きませ 五月の郭公」の句が刻まれています。

稚児が淵へ

 ここから階段下の石碑群まで、昔は「壺焼茶屋」「腰掛茶屋」と呼ばれていた磯料理のお店が三軒続きます。岩屋に向かう前の休憩と腹ごしらえを兼ねて、富士山、伊豆半島、伊豆諸島の絶景が楽しめます。

魚見亭

まずは一番見晴らしの良い「魚見亭」

富士見亭

階段途中の富士見亭。窓越しですが、富士山も見えます。

南側のテラスからは太平洋がはるか遠く水平線まで見渡せます。

下は、ここで江の島丼をいただいた時の写真です。ビールが飲めれば、サザエの壺焼、焼き蛤など、磯のつまみを楽しめるのですが、つい車で来てしまいますので・・・。

見晴亭

一番下にあるのが見晴亭です。

龍燈松跡の石碑群

 昔は、見晴亭前から石段を下りたこのあたりに、毎年正月になると龍が現れて龍火を点じたという「龍燈の松」がありました(明治時代まであったようです)。下の絵葉書の右上方あたりがこの場所です。昭和初期には枯れていたそうですので、ここ写っている松が「龍燈の松」そのものかどうかは不明ですが、当時の風景がイメージできます。

今は六基の石碑が並んでいます。

龍燈松碑

 この石碑は、文化六年(1809年)に、江戸・深川新地の遊郭・五明楼の喜兵衛が建てたものです。よろず芸事の神様とされる江島弁財天は、新吉原・深川新地といったあたりの遊郭の人々からも篤く信仰されていました。

龍燈松碑

(伝)白菊の石塔

 刻文は風化して全く読み取れませんが、足元に線香皿や蝋燭立の穴があるところから、墓石であることは間違いなさそうです。かつてこの付近に「稚児が淵」の名の由来となった稚児・白菊の石塔があったと伝えられており、この石がそれではないかと云われています。

(伝)白菊の石塔

服部南郭詩碑

 こちらは、江戸中期の儒学者で詩人の服部南郭の詩碑です。南郭没後・かなり年数を経た文化二年(1805年)に舞岡相長保という人が建てたもので、書家・源美徳の筆による 「石壁」と題された七言絶句が刻まれています。この詩は、南郭が江ノ島を訪れ舞岡相長保の外祖父にあたる方の家に宿泊した折に、岩に墨で書き下ろされたものだそうです。

 風濤石岸闘鳴雷
 直撼楼台萬丈廻
 被髪釣鼈滄海客
 三山到処蹴波開

 京都の商家に生まれた南郭は、若くして徳川綱吉の寵臣・柳沢吉保に仕え、綱吉のブレーン・荻生徂徠の門下となりました。詩文に秀で、殊に盛唐詩に通じ、江戸中期に一時代を画す存在として、多くの門弟を輩出しました。 また文人画家としても知られています。

佐羽淡齊詩碑

 佐羽淡斉は上野国・桐生で絹商人として財を成しました。同時に漢詩を嗜み、翠屏吟社を設立するなど多くの詩人を支援するとともに、各地の名所旧跡への百詩碑建立を目指し、文政五年(1808年)に、ここ江ノ島にその最初の一つを建てました。なお現在の碑は、昭和11年(1936年)に淡斉・四世の孫が再建したもので、オリジナルではありません。 この碑には、次の七言律詩が刻まれています。

  瓊砂一路截波通 孤嶼崚梨屹海中
  潮浸龍王宮裏月 花香天女廟前風
  客樓斫膾絲々白 神洞燒燈穗々紅
  幾入蓬雙諳秘跡 不須幽討倩仙童

佐羽淡齊詩碑

松尾芭蕉句碑

 京都独楽庵芷山とその組合中が、寛政九年(1797年)に建てたもので、台座正面の右手に「潮墳」とあることから「潮墳の碑」と呼ばれています。
 地元江ノ島の俳人・柏園丈水の筆で 「疑ふな 潮の花も 浦の春」とありますが、この句は元禄二年(1689年)に、芭蕉が「伊勢・二見ヶ浦の図(いろいろな画家が描いていますので誰のもかは不明です)」を見て詠んだものです。

松尾芭蕉句碑

八雲庵遊江嶋詩碑

八雲庵遊江嶋詩碑は、宝暦二年(1752年)に建てられたもので、臥龍軒一梁の書で「遊江嶋」との漢詩が刻まれています。八雲庵及び臥龍軒一梁という方の事績はよくわかりませんでした。

八雲庵遊江嶋詩碑

稚児が淵

 「稚児が淵」の名は、次のような伝説から生まれました。
 旧鶴岡八幡宮寺・鶴岡二十五坊の一つ相承院頓覚坊の稚児であった白菊は、江ノ島に詣でた折に建長寺塔頭・廣徳院(現存しません)の自休蔵主から見染められ、思いが綴られた手紙を幾度も受け取りました。
 しかし、自休の恋慕の思いを受け入れることができず世間的にも追い詰められた白菊は、ついにこの崖から身を投げてしまいました。その時扇子に記して、渡し守に委ねた辞世が、次の二首です。

  白菊の しのぶの里の 人問はば  思い入江の 島とこたえよ
  憂きことを 思い入江の 島かげに すつる命は 波の下草

 行方の知れない白菊の後を追って江の島にたどりつき、その最後を知った自休和尚は、残された扇子を見るや自らも次の一首を残して後を追いました。

  白菊の 花の情けの 深き海に ともに入江の 島ぞ嬉しき

◆もうひとつの白菊伝説
白菊の出身地である福島市には白菊の遺髪を埋めたとされる「稚児塚」があり、江ノ島に伝わるものとはニュアンスの異なる次のような伝説が残されています。
『福島・泰慶寺の稚児であった白菊は、建長寺修行僧として逗留していた慈休蔵司の「鎌倉に来たときは自分を訊ねてくるように」との言葉だけを頼りに鎌倉に出たところ、「慈休蔵司は死んだ」という誤った話を聞かされて希望を失い、辞世を残し「稚児が淵」に身を投げてしまいました。それを聞いた慈休蔵司は白菊を厚く弔ったとのことです。』
こちらの伝説では、舞台が江ノ島で白菊が辞世を残すあたりは同じですが、慈休蔵司が白菊に恋したわけではありませんし、ましてや後を追ったわけでもなく、大分ニュアンスが違ったものとなっています。

こちらは、かつて使用されていた「龍燈」で、もともとは江ノ島沖で嵐に遭遇した人が龍燈松の灯りに救われたお礼にと江戸期に建立したものですが、明治32年頃に大波に押し流されてしまいました。現在の燈籠は昭和2年に建て替えられたコンクリート製のものです。

龍燈

こちらは、龍燈あたりから見下ろした「大平(おおだいら)」と呼ばれる磯です。

大平(おおだいら)

三天岩付近

稚児が淵から第一岩屋に向かう途中、岩に囲まれたような場所があります。この右手の岩の塊が「三天岩」と呼ばれる場所で、かつては三つの岩塊が屹立しており、頂上にしめ縄が渡されていたそうです。

こちらは、安藤広重の浮世絵「六十余州名所図会」の中の「相模江之嶋岩屋ノ口」です。三天岩には、しめ縄が渡されています。

大分風化も進んでいますが、三天岩を海側から見るとこんな感じ。左端に「龍燈」が見えます。

岩屋橋

こちらの赤い橋が、岩屋へ続く「岩屋橋」です。岩壁に沿ってカーブを描いて岩屋に向かいます。左の岩肌に階段が刻まれていますが、こちらが旧道です。この先に木の桟橋が掛けられていました。

昔は「不親知」と呼ばれていた難所も、岩屋橋のおかげで難なく通過できます。

昔は、このような木の桟橋がかけられていました。

こちらは安藤広重の「相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図」です。江戸期には桟橋もなく、岩場を歩いて進んでいたようです。左手に屹立した岩が三天岩です。

第一岩屋入口

こちらが、現在の第一岩屋入口です。昔は、第一岩屋の正面から入っていましたが、現在は第一岩屋の横腹に隧道が開けられ、いきなり内部に入れるようになっています。この入口は昭和46年から長らく閉鎖され、岩屋内へは入れなかったのですが、管理が江島神社から藤沢市に移管された後、平成5年より入洞が再開されました。

右手の平らな磯が「魚板岩」で、以前は岩屋入口右横から下に降りることができました(右手の赤い鉄扉の先に階段があります)。現在の階段は、平成29年(2017年)の台風21号の被害の後に付けられたものです。

岩屋の配置はこのようになっており、入口からまず第一岩屋に入り、続いて第二岩屋を回るコースとなります。

魚板岩から見た第一岩屋の正面はこんな感じ。左端の赤い橋が「岩屋橋」で、横手から第一岩屋内に続く隧道入口が見えます。中央から右手に伸びる橋は第一岩屋から第二岩屋へ続く「神橋」です。

関東大震災で隆起した後、昭和初期の岩屋の正面で、岩屋の形状は今とあまり変わりません。この頃は今の隧道とは別の大正期に掘削された隧道(奥宮隧道)を通り一旦第一岩屋正面の桟橋に出て、桟橋横の御窟番詰所で入場料を支払って正面から岩屋に降りていきました(隧道の出口が右上に見えます)。中央に見える一丁櫓の渡し舟が停泊しているあたりは「天の舞」と呼ばれている場所です。現在の渡船・弁天丸は江の島弁天橋の途中から出航していますが、この写真の頃は、岩本楼裏手の西浦港から出ていました。

大正期に掘削された奥宮隧道は、今も見ることができます。下の写真の中央の岩壁に開けられた隧道口がそれです。岩陰となり分かりにくいのですが、この隧道口の下の水路の右手が第一岩屋の正面洞口になります。右手の隧道口は、第一岩屋から第二岩屋に続く「神橋」の第一岩屋側出口です。

こちらがアップです。

入場料を支払い階段を下りていきますと、トンネルの壁面に、江ノ島にまつわる地理・歴史資料が、写真、浮世絵などを交えて、とても分かりやすく展示されています。

第一岩屋

トンネルの突き当りが第一岩屋となっており、正面の小さな池には、碑がたっています。

岩屋開口部の階段を少し上ったところで振り返って見た第一岩屋は、こんな感じ。

与謝野晶子歌碑

こちらは平成14年(2002年)に建てられた「与謝野晶子歌碑」で、歌集「青海波」に納められている一首「沖つ風 吹けばまたゝく 蝋の灯に  志つく散るなり 江の島の洞」が刻まれています。与謝野晶子には、他にも江ノ島を詠んだ歌が多くあります。

岩屋本宮跡

池に向って左に曲がり、岩屋の奥に進んで行くと、燭台の貸出し所に到着します。こちらが明治の神仏分離令前に岩屋本宮があった場所で、明治期以降は鳥居と拝殿が建てられていました。

昭和初期には下の彩色写真のように、このあたりに鳥居と拝殿があり、拝殿の左手から奥に進むことができました。拝殿前の右手にあった神札授与所では、この頃にも手燭の貸し出しがあったそうです。さらに遡って神仏分離令以前には、この拝殿の場所に岩屋本宮がありました。

お借りした手燭をかざしながら、さらに奥に進んで行きます。

この案内図にあるように、第一岩屋には多くの石仏がいらっしゃいます。

分岐点の石像

第一岩屋が左右に枝分かれする分岐点に座しておられるのが「八臂弁財天坐像」です。弁財天を奉じていた明治の廃仏毀釈以前には、真言密教的な解釈から、この左側の西窟は「金剛界」、右側の東窟は「胎蔵界」とされていました。

こちらが西窟です。

西窟の左壁面の石仏群

西窟の左壁面前に並ぶ石仏群を一番奥からご紹介します。

(右)宝篋印塔身 (左)巳像
巳像三体
竜神像
弁財天坐像
如意輪観音坐像
仏坐像

西窟の右壁面の石仏群

西窟の右壁面前に並ぶ石仏群を一番奥からご紹介します。

(左端)不詳 (中左)不詳
(左)地蔵菩薩立像 (右)大黒天立像
十一面観音立像
千手観音立像
観音菩薩立像
阿弥陀如来坐像
役小角像

西窟の最奥部

こちらは、日蓮上人の寝姿石。

日蓮上人の寝姿石

第一岩屋の西窟の最奥部の現在の姿は、このようになっております。さらに奥に洞窟が見えますが、富士の鳴沢氷穴にある「地獄穴」まで続くと云われております(続いているのは「富岳風穴」とも「富士の人穴(ひとあな)」とも云われています)。言われてみますと風が通ってくるように感じられますので、どこか別の場所と繋がっているのかもしれません。

富士の鳴沢氷穴に続くと云われる洞窟

◆仁田四郎忠常の伝説
仁田四郎忠常(にったしろうただつね)は、一般にあまり知られていなかった歴史上の人物ですが、最近のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」ではその活躍ぶりが随所に描かれ、存在感を示していました。
 勇猛で知られた忠常は、鎌倉初代将軍源頼朝の富士の巻狩りに随行して、手負いの大猪を組討で仕留め、さらに巻狩りの最中に発生した「曽我兄弟の敵討ち」では、工藤祐経を討った曽我兄弟の兄・祐成をその場で成敗しました。
 ここまでは歴史的事実ですが、話には続きがあります。後に二代将軍・源頼家が富士の巻狩りを行った際、頼家に命じられて人ひとりがようやく通れる「富士の人穴」を探索したところ、中で大きな叫び声や泣き声が聞こえて来ました。さらに進むと大きな川が流れており、その向こう岸の光の中に立つ異形の人に出会いました。すると同伴していた家来4名は突然に死んでしまい、ただ一人残された忠常は、頼家から拝領した刀を川に投げ入れて、ようやく人穴から脱出することができたということです。さらに、仁田四郎が、富士の風穴から江ノ島岩屋にぬけてきたとの伝説は、この話をもとに生まれたようです。

 かつて明治の神仏分離令までは、大日如来が祀られていました。昭和初期には、この奥の洞窟を隠すように小さい社殿があり、平成5年(1993年)に藤沢市に移管されるまで、左御窟の奥宮として天照皇大神と須佐之男命が祀られていました。

「八臂弁財天坐像」近くまで戻ると、左手に低く短い洞窟「胎内竇(たいないくぐり)」があり、そこをくぐると東窟です。こちらの石窟は、真言密教的解釈では「胎蔵界」とされております。

東窟の左壁面の石仏群

東窟の左壁面前に並ぶ石仏群を一番奥からご紹介します。

不動明王坐像
毘沙門天立像
馬頭観音坐像
愛染明王坐像
不動明王立像

東窟の右壁面の石仏群

東窟の右壁面前に並ぶ石仏群を一番奥からご紹介します。

(奥側)弘法大師坐像
(手前)弘法大師坐像

東窟の最奥部

ここが、江島神社発祥の地とされている右の奥宮で、明治の廃仏毀釈まで千年を超える長きにわたり、弁財天根本の「竇宮(とうきゅう)」とされてきました。明治の神仏分離令以降は、宗像三女神が祀られていましたが、現在は、狛犬の奥の狭い敷地に小さな石祠が並んでいるだけとなっています。

岩屋奥宮

◆北条時政と龍神の伝説
 源頼朝を援けて鎌倉幕府を開き、北条一族繁栄の礎を築いたのが北条時政です。
時政は、鎌倉幕府を打ち立てた後に、江ノ島に三十五日間参篭し、子孫の繁栄を祈願しましたが、その満願の夜の夢枕に赤い袴を身につけた美しい女房が現れ、「あなたの前世は箱根法師で、六十六部の法華経を六十六箇国の霊地に奉納した善根によってこの世に生を受けることができた。あなたの子孫は栄華を誇ることになるが、非道な行いがあれば七代を過ぎずに家は滅びるであろう」と告げ、たちまち二十丈の大蛇となって海に消えてしまいました。
 目が覚めると、時政の手には三枚の鱗が残されていたことから、北条家の家紋を「三つ鱗(ミツウロコ)」と定めたそうです。

「芳年武者无類 遠江守北条時政」筆:月岡芳年

もと来た通路を戻り、第一岩屋の開口部まで階段を上ります。

開口部から、外をみるとこんな感じ。釣り人が立っているところが魚板岩です。写真下部の水路を埋める大きな岩塊群は、第二次大戦後、岩棚が崩壊して落ちて来たものです。

関東大震災で1mほど隆起する前は、このように洞窟内に海水が入り込んでいました。

第二岩屋へ

岩屋の洞口に向って左側の隧道(昭和7年開通)を抜けると第二岩屋へ続く「神橋」に出ます。

上の写真の右下にある丸い岩が「亀石」です。拡大するとこんな感じ。昭和8年に織田観潮画伯がデザインし、片瀬・秋元石材店の中村亀太郎さんが仕上げたそうです。自然破壊云々と神経質な物言いに溢れる昨今とは違い大らかな時代だったのでしょう。

第二岩屋入口近くから第一岩屋の出口方向を振り返るとこんな感じ。

第二岩屋

第二岩屋の入口です。

第二岩屋入口を下から見上げるとこんな感じ。第二岩屋には開口部が2カ所ありまして、向かって左側の洞口から出入りすることになります。下の写真の右端が右側の洞口ですが、下半分が鉄板で塞がれています。なお、両洞窟は内部でつながっています。
 『新編相模国風土記稿』中の岩屋に関する記述には 「龍穴の東に列在して第二・第三の窟を白龍窟と呼び、第四の窟中に龍池あり、第五の窟を飛泉窟と呼び窟中に滝がある」とありますが、ここでいう「龍穴」が第一岩屋、「白龍窟」が第二岩屋を指しています。また「白龍窟」と呼ばれる「第二・第三の窟」が、夫々第二岩屋の左側洞口と右側洞口に相当します。

右側洞口を内部から見ると、こんな感じ。開口部の下半分に鉄板が見えます。

階段を下って洞内に降りていきます。

左右の岩屋は最奥部で一つになり、途中で三カ所でつながっています。発光ダイオードが点滅し、咆哮がこだまする中、最奥に龍神のオブジェが据えられた安っぽいアトラクション風の仕上げになっていますが、これを見てどなたが喜ぶのでしょうか・・・。

◆五頭龍と弁財天女の伝説
 鎌倉・深沢の湖に住み着いていた五頭龍は天変地異を引き起こしては、人々を苦しめるため、その機嫌を損ねないようにと、人々はやむなく人身御供として子供を差し出していました。現在、江ノ電の駅名にもなっている「腰越」の由来は、五頭龍が子供を食らって深沢の湖に返っていく経路となっていたため「子死越(こしごえ)」と呼ばれていたことにあるそうです
 欽明天皇の十三年(552年)に、大地が鳴動し天から岩が降り注ぐ中、江ノ島が湧出し、続いて十五童子を引き連れて弁財天女が江ノ島に舞い降りました。
 美しい弁財天女に一目惚れした五頭龍は、結婚を申し入れましたが、これまで悪行を重ねてきた五頭龍からの求婚を弁財天女が受け入れるはずもなく、断られてしまいます。

江島神社本「江嶋縁起絵巻」

 諦めきれない五頭龍は、これまでの悪行を悔いて弁財天女に改心を誓い、干ばつの時は雨を降らせ、洪水となればそれを防ぐなど、人々のために尽くすようになりました。
 それを見た弁財天女は、やっと五頭龍からの求婚を受け入れ、二人目出度く結ばれました。それからも人々に尽くした五頭龍は、やがてその頭を江ノ島を望む龍口山に変じて永遠の眠りについたそうです。
 人々の崇敬を集めた五頭龍は、五頭龍大神(ごずりゅうおおかみ)として、今も龍口明神社に祀られています。

右側の岩屋の天井にはとても低い場所があり、長身の方でなくても少し頭を下げて歩く必要があります。

進んだ正面が右側洞口です。

長磯

こちらは釣り場として有名な長磯です。山二つからもよく見える場所ですが、ここには、岩屋本宮側から渡ることができません。というのは、長磯の右手から海水が龍池窟に流れ込み陸路が遮断されているためです。そのため、ここに来るにはヨットハーバー方面から磯をたどって来ることになります。

ヨットハーバー方面から回り込んで撮影した長磯
山二つから見下ろした長磯

龍池窟

龍池窟は、内部まで海水が入り込み波に洗われて、現在も浸食が進んでいる岩屋です。 過去何度か内部探索が行われていますが、見ての通り観光客が立ち入れるような状態ではないため、一般公開はされておらず、外部から撮影することしかできません。

龍池窟の内部は、広狭を繰り返しながら奥まで続いています。明治三十年(1897年)に、40~50mくらいまで探検した江見水蔭によると、内部には「六畳敷」くらいの小さな池があり髑髏が落ちていたそうです。さらにその奥には台石に「承久巳年八月〇〇日」「願主 北條四郎平時〇」と刻まれた「蛇巻石(おそらく蛇身弁財天)」があったそうです。北條四郎と云えば、一般には北条時政を指しますが、承久年間には既に死去しておりますので、一族の別の方が建てたものだと思われます。しかし残念なことに、この探検の際、さらに奥に続く岩屋の入口をこの「蛇巻石」が塞いでいたため爆破してしまい、今は残っていません。
残っていれば市指定文化財クラスの石像だったのではないでしょうか。 なお、せっかく爆破したのですが、先に続く岩屋の通路が爆砕された岩石に埋もれてしまい、それ以上は進めなかったそうです。江島神社の力が衰えていた時期とはいえ、なかなかの荒業ですが、文化財保護という観点が育っていない時代ですので仕方ないことかも知れません(クフ王のピラミッドの内部には爆破口から入っていくわけですし)。

 最後まで、ご覧頂きありがとうございました。普段、湘南地区を代表する景勝地の一つとして訪れることの多い江の島ですが、聖俗絡み合い歴史的変遷を重ねながらもなお繁栄し続けるその在りように、時空を超えて遍在する神仏の力を感じます。