江島神社◆境内散歩(その1)◆~江の島道から江ノ島へ~江の島弁天橋・聖天島

江島神社◆境内散歩(その1)◆~江の島道から江ノ島へ~江の島弁天橋・聖天島

藤沢市江ノ島にある江島神社は、辺津宮(へつみや)・中津宮(なかつみや)・奥津宮(おくつみや)の三社からなります。御祭神(「江島大神」と総称される)は、天照大御神と須佐之男命の誓約により誕生した所謂「宗像三女神」で、 辺津宮(下之宮)では「田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)」、中津宮(上之宮)では「市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)」、奥津宮(本宮御旅所)では「多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)」をお祀りしています。
 また江島神社は、江戸期までは「金亀山江島院与願寺」と呼ばれていた仏教寺院でしたが、明治の神仏分離令に際して仏教系の諸施設を廃して「江島神社」となり、三社の各別当を務めていた三坊「岩本坊(本宮別当)」「上之坊(上之宮別当 )」「下之坊(下之宮別当 )」も、宗教的ポジションを捨てて、その経済的基盤であった「宿坊」経営に軸足を移し、各々「岩本楼(岩本坊)」「金亀楼(上之坊)※現在は廃業」「惠比壽屋 (下之坊)」に生まれ変わりました。
 「江ノ島」と言えば、古より今日に至るまで、日本三大弁財天(安芸・厳島、近江・竹生島、江の島)の一つに数えられるほど「弁天様」のイメージが強烈ですが、明治の神仏分離令に際して仏教色の強い「弁財天」を前面に押し出すことを避け、本地仏「弁財天」の垂迹神「市寸島比賣命 」を含む三姉妹神を島内三社に配し、各社のネーミングを宗像大社風に改めることにより、俗世との折り合いを付けた訳です。
 「神」と「仏」と「俗」が相互に折り合いを付け、不思議な一体感を醸し出しつつ長きにわたり栄え続ける江ノ島の姿を、ステロタイプの宗教論だけで語り尽くすことは困難です。「生身(なまみ)」の神仏が折り重なり縺れ合いながら「俗世」にのたうつ時空がここにあります。

◆宗像三女神
天照大御神と須佐之男命の「誓約(うけひ)」の結果、天照大御神の口から吐き出された三女神で、宗像大社の三社にて祀られています。沖津宮には「田心姫神(たごりひめ)」、中津宮には「湍津姫神(たぎつひめ)」、辺津宮には「市杵島姫神(いちきしまひめ)」が各々鎮座され、有史前より朝鮮半島との表玄関であった玄界灘の海上交通を守護なさっています。

◆江ノ島三坊
「江島大神」「江島明神」として神仏一体の神様が祀られていた江戸時代以前、三社を管理する別当を務めていた三坊「岩本坊(本宮別当)」「上ノ坊(上之宮別当 )」「下ノ坊(下之宮別当 )」を指します。何れも元は、鎌倉市・手広の鎖大師・青蓮寺(真言宗)の末寺で、各社の開創と同時に成立した訳ではありませんが、14世紀中ごろには「江島別当」との呼称が文献上現れてきます。
◎岩本坊(本宮別当)
本宮の正確な成立年は不明ですが、慈覚大師・円仁が弘仁年中(810年~823年)に本宮社壇に神像を収めた事績をもって中興(実質的な開創)としています。岩本坊は源頼朝の時代には、既に「江の島岩屋」と呼ばれていた「江島本宮」を管理する別当寺であり、江戸期からは本宮御旅所を「中之坊(現・奥津宮)」として管理するなど島内で大きな力を持っていました。また慶安二年(1649年)には仁和寺より直末寺の認可を得て「岩本院」を称し、名実ともに江ノ島全山の総別当となりました。
◎上之坊(上之宮別当)
上之宮(現・中津宮)は、慈覚大師が仁寿三年(853年)に江島東島山頂に興した社壇をその始めとしています。上之坊は、他の二坊と異なり妻帯肉食を禁じ、仏教の本分「清僧」を守っていましたが、後継問題で揉めることが多く、早くから岩本坊の介入を許し、幾度か抵抗を試みつつも実質的にその支配下にありました。
◎下之坊(下之宮別当)
下之宮(現・辺津宮)は、慈悲上人(聖天上人)良真が建永元年(1206年)に源実朝の命により開創しました。北条時政以来、鎌倉北条氏より特に庇護を受けていたほか、江戸期元禄年間には将軍・徳川綱吉側近の惣検校・杉山和一が三重塔を建立するなど下之宮の発展に尽力し岩本坊とも互角に渡り合った時期もありました。

江島道見取絵図 (江戸期・寛政年間)

江の島道

江の島道は、旧東海道より藤沢・遊行寺付近で枝分かれし、現在の国道467号線に沿って江の島に伸びる約4kmの街道で、江戸時代には江島詣の参拝客で大変賑わいました。

途中、江戸時代に建てられた道標がいくつも点在しています。こちらの道標は、湘南モノレール・湘南江の島駅裏の、龍口寺への近道への分岐点にある道標で、三面に「従是右江嶋道」「左龍口道」「願主 江戸糀町」と彫られており、藤沢市指定文化財「江の島弁財天道標」の一つに登録されています。

こちらの道標は、西行戻り松の道標と云われており、江島神社・辺津宮に大いに貢献した杉山検校が寄進した道標の一つです。正面に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られており、江の島弁財天への道をたどるすべての人の現世・来世での安穏・極楽を祈念するものとなっています。また、この道標の背面には「西行のもとり松」と刻まれています。西行法師がこの道標の背後にある松(何度か植え替えられていますが)のところで出会った童の返歌に驚いてもと来た道を引き返したという伝説に由来します。

湘南モノレール・湘南江の島駅

江ノ島に向かう主要な公共交通機関は三つあります。第一に湘南モノレール・湘南江の島駅 、第二に江ノ電・江ノ島駅、第三に小田急・片瀬江ノ島駅ですが、こちらは、JR大船駅で乗り換え便利な湘南モノレールの終点・湘南江の島駅 です。

こちらは、湘南モノレール・湘南江の島駅の斜向かいにある魚料理の「舟善」です。立方体の小さめのシャリの三面を覆うようにネタが巻き付いた10巻(くらい?)の寿司を一文字に並べて盛り付けた「地魚一文字鮨」が名物で、子供が小さいころ時々利用してました。

江ノ電・江ノ島駅

「舟善」を過ぎて南に行くと江ノ電の踏切が見え、その先が洲鼻通り、すぐ左手が江ノ電・江ノ島駅となっています。江ノ電の登記上の本社はここにあります。

洲鼻通り

このまま、洲鼻通りを江ノ島に向かってみます。今は、江ノ電・江ノ島駅のすぐ横がタリーズコーヒーです。

洲鼻通り付近の略図はこんな感じ。

洲鼻通りは、直線ではなく上下左右に畝るように続きます。

こちらは、戦前から江ノ島の写真をたくさん残していらっしゃる「片瀬写真館」です。

早朝のためシャッターが閉まっていますが、こちらは明治45年創業の老舗・玉屋さんです。昔、名物の「海苔ようかん」を買ったことがあります。

洲鼻通りにも道標があります。
 こちらの道標は、洲鼻通りでの工事中に地下から掘り出されたもので、西行戻り松の道標と同じく杉山検校が寄進した道標の一つです。他の道標と同じく、正面に「ゑのしま道」、右側面に「一切衆生」、左側面に「二世安楽」と彫られています。

こちらは最近の道標です。すぐ先が江ノ島大橋。右に曲がると川を渡って小田急・片瀬江ノ島駅です。

国道134号線を潜る地下道で、江ノ島に渡る歩道・江の島弁天橋に続きます。

小田急・片瀬江ノ島駅

昨年・令和2年(2020年)に建て替わった駅舎です。竜宮城を模したものか・・・評価の分かれるデザインですが目立つのは確かです。上海の南京東路あたりにならぶ原色塗装の中華料理店を思い出します。

こちら「マイアミ貝新」は、仕入れルートがきちんとしてないと食べられないおいしい生シラス丼が名物で、時々利用してます。藤沢市がマイアミ市と姉妹都市であることから、江ノ島海岸を「東洋のマイアミ」と称していた頃のネーミングだそうです。

こちらは「新江ノ島水族館」です。旧江ノ島水族館の頃、イルカショーを見に行ったことがありましたが長らく中には入っていません。

江ノ島に渡る橋は2本あり、右手が歩道の「弁天橋」、左手が車道の「江ノ島大橋」です。

江の島弁天橋の袂の銘板によると、明治24年(1891年)に、木製の橋が架けられ「江の島桟橋」と呼ばれていました。その後「渡橋料」を取られていた時期もありましたが、昭和32年(1957年)に現在の鉄筋コンクリートの橋が架けられました。 なお隣に並行して走る車道の江ノ島大橋は、昭和37年(1962年)に開通しています。

江の島弁天橋を先に進むと平成13年(2001年)に江島神社御鎮座千四百五十年を記念して造立された大きな石燈籠 「龍燈」があり、さらにその先の橋の途中に遊覧船べんてん丸の船着場があります。べんてん丸に乗ると、西島の稚児ケ淵までわずか10~15分ほどで行けますので、お急ぎの観光にはとても便利です。

橋を渡った向こうには、海鮮料理の「貝作」と、老舗旅館「ゑびすや(恵比寿屋)」の看板が目に入ります。

江ノ島大橋の東側は、浅瀬になっており、独特の波形が描かれます。

左右から波が寄せてくる様子が写ってます。

干潮時には、歩いて渡れる砂州(陸繋砂州)が浮かび上がります。これをトンボロ現象と云います。なお、こうした現象は建保四年(1216年) 正月15日より見られるようになり、三浦義村が検分に訪れたとの記録があります。江島縁起によれば欽明天皇十三年(西暦552年)に江島が忽然と海中より姿を現したと記述されていたり、近くは関東大震災の隆起に見られるように、江島周辺では長い歴史の中で隆起・沈降が何度も繰り返されて来たようです。

湘南港近辺

こちらが1964年の東京オリンピックに際して整備された「オリンピック記念公園」です。

こちらは、江ノ島なぎさ駐車場です。江ノ島に車で行く多くの観光客がお世話になります。

こちらは中津宮から下る途中で撮影した江ノ島ヨットハーバーです。

やっと江島神社の端っこにたどり着きました。こちらは車祓い所です。

こちらは2020年東京オリンピックのセーリング会場跡です。江ノ島で飲んだ東京オリンピックオリジナルのコーラ缶の厚みと同じくらい印象の薄い大会でした。

こちらが、聖天島公園です。かつて天王祭の担ぎ手の禊場だったところで、江島天王祭では今も東浦祭典が行われる大切な場所となっています。

この小さい丘が、聖天島です。二つの岩の形が歓喜天の姿(象の形)に似ているためこのように名付けられました。元久元年(1204年)に中国・宋に渡り慶仁禅師の教えを受けた慈悲上人(聖天上人)良真は、この場所にあった霊窟に千日間参篭し天女が現れたのを見て、辺津宮を開いたと云います。良真は鶴岡八幡宮寺の倶僧であり、鎌倉期から室町中期にかけては、辺津宮を中心に鶴岡八幡宮寺が江ノ島に大きな影響力を持っていました。「鶴岡八幡宮供僧次第」によれば 応永二三年(1416年)の千南坊紹賢以来、鎌倉鶴岡八幡宮寺の千南院が江島明神の別当職を世襲していました。

もともと、水天島・白狐岩とも呼ばれていた聖天島は、その名の通り独立した水中の巨岩でしたが、関東大震災の変動で陸続きとなり、昭和39年(1964年)の東京オリンピックに際しては、ヨット競技会場整備のため周囲を埋め立てられ現在の姿となりました。

最後までご覧いただきありがとうございました。このシリーズでは、これから数回に分けて、神・仏・俗の三者が混淆した江島神社独特の濃厚な宗教世界をご紹介いたします。