江島神社◆境内散歩(その5)◆~奥津宮(龍宮・源頼朝寄進鳥居)~サムエルコッキング苑・江の島大師~

江島神社◆境内散歩(その5)◆~奥津宮(龍宮・源頼朝寄進鳥居)~サムエルコッキング苑・江の島大師~

明治の神仏分離令以降、奥津宮と呼ばれるようになったこのお社ですが、弁財天を主祭神としていた江戸期までは、台風や「御掃除波」と呼ばれる夏季の激浪の影響で岩屋の水位が上がりやすい時期に、岩屋本宮(現在の「江の島岩屋」)の岩屋本尊を安置することから本宮御旅所と呼ばれていました。「新篇相模國風土記」によれば4月初巳の日に本宮より遷座し、10月初亥の日に還御していたそうです。 そうした背景から奥津宮そのものには、辺津宮・中津宮に伝わるような数多の伝説に彩られた創建神話がある訳ではありませんが、江戸初期・1600年代には現在の原形が整っていたようです。本宮御旅所の別当は岩屋本宮を仕切り江ノ島内で最も大きな力を持っていた岩本院が務めていたことから、江戸中期には権現造の立派な社殿を構え、江ノ島随一の華麗さを誇っておりました。しかし残念ながら焼失してしまい、現在の本殿及び拝殿はその後に建立されたものとなっています。明治の神仏分離令以降のご祭神は宗像三女神のうちの一柱「多紀理比賣命」で、玄界灘のただ中に浮かぶ沖ノ島の宗像大社・沖津宮に祀られているように、同じく波の荒い磯に面した江の島岩屋所縁の奥津宮のイメージにぴったりの神様です。

下道~奥津宮への近道~

江島神社に参拝する場合、瑞心門をくぐる大石段を経て辺津宮→中津宮→奥津宮→岩屋本宮と進むのが一般的ですが、何度もお参りされている方が奥津宮や岩屋本宮を直接目指す場合や、裏磯で釣りを楽しむ方には、このルートがお勧めです。朱の大鳥居を潜って右に曲がり御幸橋下の切通しの坂道(下坂又は女坂と呼ばれています)を上っていきます。

江戸期までは上の写真の授与所のあたりに仁王門があり、金亀山与願寺と称していた頃の江島神社の参道入口となっていました。大正6年(1917年)に現在の瑞心門をくぐる大石段ができた後、切通しとなるまでは、御幸橋の高さまで石段があったようです。

江戸期には上の切通しはなく、御幸橋の高さまで地面があって、御幸橋の場所で左に曲がり福石に続く表参道でした。次の写真は福石のある側から御幸橋を見下ろしたカットです。正面が江ノ島市民の家で、江戸期には三重塔がそびえており、その向かって左側には閻魔堂がありました。現在の随身門に続く大石段が出来て表参道のルートが変わったのは、大正六年(1917年)のことです。

御幸橋を潜って少し先に進むと右側が西浦霊園となっており、江戸中期の辺津宮に全盛期をもたらした杉山検校の墓地があります。

さらに進むと「下道」の石標があり、海を挟んだ向こう側に片瀬海岸が広がります。

右に進めば奥宮方面。左の道を上がれば辺津宮社務所裏を通ってサムエルコッキング苑に続きます(私は行ったことがないのですが、おそらくサムエルコッキング苑には入場できません) 。

道なりに進むと、「山街」の中村屋羊羹店前に出ます。「山街」は現在のサムエル・コッキング苑から石段を下りて奥津宮に至る参道の両脇に立ち並ぶ店舗を中心とした集落の呼び名です。

振り返るとこんな感じ。写真中央左手の石碑に「木食上人・阿弥陀如来古蹟」「東京大師八十八霊場講」「当霊場従是壹丁餘」とあります。今来た「下道」左手の崖下に「木食上人行場」の石標が立つ窟屋があるそうですが、今は通行できません。なおここで云う「木食上人」は、木食行を修する真言宗の僧と思われますが、安土桃山時代に高野山再興に力を尽くした「木食応其」を指すかどうか明らかではありません。ただ「木食応其」は岩本院当主の間宮家と同じ近江佐々木氏の出であることから、全国を行脚して多くの寺院を造営する中で 弘法大師ゆかりの江ノ島に立ち寄った可能性がない訳ではありません。

サムエル・コッキング苑方面に向くとこんな感じ。

サムエル・コッキング苑

 サムエル・コッキング苑は、江ノ島電鉄が運営するシーキャンドル(江の島展望灯台)の完成に続いて、平成15年(2003年)にオープンした藤沢市の公園施設です。

もともとこの場所は、江ノ島島内で数少ない平地で比較的塩害を受けにくいことから、江ノ島の各社寺でのお供物(もちろん僧侶・神主らの食材も)を栽培する「供御菜園」がありました。明治13年(1880年)にアイルランド人貿易商のサムエル・コッキングが、3800坪にわたる「供御菜園」の土地を買い取り、当時のお金で200万円もの巨額を投じて東洋的要素を取り入れたイギリス式の植物園を整備しました。

特に明治21年(1881年)頃に建てられた温室はボイラー室を備えた先進的な設備で、熱帯産のスイレンやオオオニバスなども栽培されていました。この温室跡は平成14年(2002年)に発掘され、現在サムエル・コッキング苑内に保存展示されています。

◆サムエル・コッキング
明治期に日本で大成功を収めた貿易商です。アイルランド出身でオーストラリアで育ちひと旗上げようと来日、明治4年に横浜居留地にコッキング商会を設立し、日本を拠点に商売を広げていきました。明治中期のコレラ流行時のフェノール(石炭酸)の輸入で財産築いて、江島神社より旧・供御菜園を買い取り別荘を築き、石鹸の製造でさらなる成功を収めたのちに温室を整備しています。晩年は、取引先の英国内の銀行の倒産により事業は傾いてしまいましたが、そのまま留まり大正期に日本で亡くなっています。

サムエル・コッキングが没した大正3年(1914年)以降は、所有者は転々としましたが、第二次大戦後の昭和23年(1948年)に藤沢市の所有となって、江の島植物園として公開され長らく親しまれてきました。その間、昭和26年(1951年)には二子玉川の読売遊園より落下傘塔(第二次大戦前は陸軍の落下傘部隊訓練施設でした)が移築され江ノ電が管理する「江の島灯台」となり、昭和の戦後世代が見慣れた江の島の風景が整いました。その後、平成15年(2003年)には「江の島シーキャンドル」がオープンし、老朽化した「江の島灯台」は残念ながら解体されてしまいました。下の写真は、シーキャンドルがほぼ完成した後、 旧・江の島灯台が解体される前に撮影されたものです。


江ノ電サイトにリンク

現在の「江の島シーキャンドル」 はこんな感じ。

シーキャンドルから江の島大橋方面
シーキャンドルから「山二つ」方面

こちらは、昆明広場です。昆明出身の作曲家「聶耳(ニエアル)」が 鵠沼海岸で水死したことを悼んで、昭和29年(1954年)に記念碑 が建てられたのがきっかけで昭和56年(1981年)に藤沢市と昆明市は友好都市となりました。そうした流れもあって平成14年(2002年)にサムエルコッキング苑内に昆明広場が設けられました。

昆明のお国自慢がくだくだと・・・。

こちらの銅像は「吉祥孔雀」と呼ばれています。金文字で「吉祥永駐」ですし・・・日本進駐後を見越してのマーキング?

こちらは昆明広場の中心に建つ中華様式の四阿(あずまや)「騁碧亭(ていへきてい)」です。内外ともに華やかな造りで、とにかく目立ちます。

こちらは、蕎麦打ち体験もできる蕎麦屋さん「松本館」です。

松本館の脇にあるのが、長野県特産の山辺石でできた「海と山の絆」という記念碑で、松本市内にある「双体道祖神」をモチーフとしています。藤沢市と長野県松本市の姉妹都市提携40周年記念に建てられました。

亀ヶ岡広場

中津宮からエスカー三区を降りたところから道をはさんで向かい側が亀ヶ岡広場で、バラ園や展望台があります。展望台はなかなかの絶景で、サムエルコッキング苑に入場してシーキャンドルに登らなくても、どこまでも続く大海原を楽しめます。売店もあるので夏場はソフトクリームで一休みできます。

江の島大師(最福寺別院)

こちらは通称「江の島大師」で知られる高野山真言宗最福寺・関東別院 です。平成5年(1993年)、山街の旅館「江の島館(金亀楼別館)」跡地に「三無事件」「朝鮮総連ビル落札問題」などに登場する怪僧・池口恵観師が創建なさいました。弘仁五年(814年)の弘法大師・空海の金窟参篭による岩屋本宮創建神話にまで遡れるように、現在の江島神社の前身である金亀山与願寺は真言宗の寺院で、江戸期にその中心的存在であった岩本院は仁和寺の末寺として真言宗御室派に属していました。地元・猟師町の住民が守ってきた延命寺を除けば、江の島には、明治の神仏分離令以来長らく仏教的な施設は存在していませんでしたので、最福寺関東別院の創建は画期的なことではありました。

◆二つの最福寺
少しややこしいのですが鹿児島県に「最福寺」は二つあります。一つは「江の島大師」の本山にあたる「宗教法人最福寺」で高野山真言宗に属しています。こちらは鹿児島市紫原にある文部科学大臣所轄単位宗教法人で池口恵観師が創建した「波切り不動最福寺」を前身としており、現在の代表者は池口雄紹師です。これとは別に鹿児島市平川には鹿児島県知事所轄の都道府県知事所轄単位包括宗教法人「総本山烏帽子山最福寺」があります。こちらは平安時代に創建された真言密教系の単立寺院で、昭和40年代以降に池口恵観師により中興されました。現管主は池口恵観師のご子息の池口豪泉師です。池口恵観師が高野山真言宗の大僧正・大阿闍梨として活動する際は前者の立場を取っていらっしゃるようです。

真っ赤な阿吽の仁王像です。

こちらは、モダンな鉄筋コンクリートの御本堂です。

ストゥーパを意識したのか丸い屋根には双輪が立っています。

壁面はヘレニズム様の列柱が取り囲んでいます。

入口には、日本らしく江島大師の提灯が並びます。中に祀られているご本尊は、大きな不動明王像で、赤不動と呼ばれています。

福島漁村の句碑

こちらは、「江の島館(金亀楼別館)」の主人で、俳人の福島漁村の句碑です。
「貝がらも 桜の名あり 島の春」とあります。「江の島館(金亀楼別館)」 は漁村の死後も営業を続けていましたが、昭和39年(1964年)に閉館となりました。

山二つ方面へ向かいます。

一遍上人の島井戸

こちらは、時宗の宗祖・一遍上人が飲料水に困った島民を助けるべく堀当てた井戸です。一遍上人は弘安五年(1282年)に鎌倉入りを阻まれ片瀬で踊念仏を修しましたが、その際江の島に立ち寄ったのかもしれません。江島神社には「一遍成就水」との上人直筆の扁額が残されています。

山二つ

江の島には、奥津宮に向かう途中、南側が大きくくびれて入り江が切れ込んでいる場所があります。南に広がる太平洋の方向を見るとその視界に両側の山がせり出してくることから「山二つ」と呼ばれています。

中央に伸びている細長い平らな岩礁は「長磯」と呼ばれ釣りの名所として知られています。

「山二つ」を磯の方から見上げるとこんな感じ。表磯に遊びに行ったときに、ヨットハーバー東側の「湘南大堤防」方面から「釜の口」を掠めて磯伝いに進んで撮影しました。上の写真の場所から下りるルートもありますが危険なのでやめたほうがいいです。

上の写真の緑に覆われた斜面から想像できるように、もともとはこの場所にも岩屋(海蝕洞)があったのですが、浸食が進んで崩れたため、こうした地形となったそうです。

群猿奉賽像庚申塔

藤沢市重要文化財に指定されている「群猿奉賽像庚申塔(ぐんえんほうさいぞうこうしんとう)」には、四面に神様に芸事を奉納する計三十六体の猿の浮彫があります。向かって右面には御幣を持つ猿が多く描かれていることから、神道系の庚申塔と思いきや、足元には弁財天のお使いの蛇が彫られており、神仏相和す江ノ島らしさが伺える史蹟です。ご祭神は、庚申の日が「申(さる)」の日であることにかけて猿田彦とされるのが一般的ですが、山王権現(大山咋神)のお使いである「神猿(まさる)」とする考え方もあります。もし後者だとすれば、江戸期に、現在の辺津宮の境内に祀られていた山王神社に奉納されたものかも知れません。ちなみに仏教系の庚申塔のご本尊は、青面金剛が一般的です。

江之島亭

こちらは、富士山の絶景が売りの食堂「江之島亭」です。朝、青銅鳥居から辺津宮・中津宮にお参りし、サムエルコッキング苑を楽しんで歩いてきますと、このあたりでお昼ご飯時となります。

こちらは、有田焼の特大・大皿です。きっと云十万円します。

こちらは、名物「江之島丼」。サザエを玉子でとじてます。

こちらは「まかない丼」です。この日はゲソでした。とろろ芋がいつもついてます。

奥津宮

いよいよ奥津宮です。サムエルコッキング苑やシーキャンドルに寄って、山街で食事など取っていますと中津宮から2時間近くかかります。

常夜灯

奥津宮の入口両脇には、左右一対の「常夜灯」が建てられています。こちらは文化十二年(1815年)に大百味講中によって奉納されたものです。百味講とは、寺社に百味(さまざまな美味・珍味)をお供えする信者の集まりで、国内に数多くありました。 歌舞伎「弁天娘女男白波」では「知らざあ言って聞かせやしょう・・・前をいやあ江之島で、年季勤めの児ケ淵、江戸の百味講の蒔銭を・・・ 」と弁天小僧の口上にも出てきます。石工は片瀬村の「平治良」となっていますが、別の灯篭には「平次郎」の名もあることから、「治良」は「次郎」の当て字のようです。

御手水舎

しばらく進んで石の鳥居が見えてきますと、右手に手水舎があります。この手水舎及び手水鉢は、東京南千手の材木問屋・熊野屋安兵衛の奉納となります。手前の柱2本の礎石には亀の彫刻があります。

こちらの亀の水口は、昭和54年(1979年)に東京在住の青山建作さんより奉納されたものです。

亀甲石

こちらは、鎌倉四名石(他の三つは定かではありませんが・・・)の一つと云われる「亀甲石」です。確かに雨の降ったあとなどは、亀甲模様が浮かび上がります。文化三年(1806年)に弁財天を信仰する弁秀堂という方が金光明最勝王経を書写し奉納するにあたり上に置く石を求めていたところこの石を手に入れて納めたものだそうです。

源頼朝寄進の石鳥居

これが伝・源頼朝寄進の石鳥居で、養和二年(1185年)に奥州平泉の藤原秀衡を調伏するために建てられたものとされています。何せ長い年月がながれておりますので、当初の鳥居がそのまま残っているわけではなさそうです。石造りだったのか木製だったのか、建立された場所が現在と同じであったのかも確証がありません。そもそもこの場所には江戸期に岩屋本宮の御旅所が置かれていたにすぎず、養和二年当時、頼朝が鳥居を寄進するに足る格式を持つ社殿があったとも思えません。また文覚上人が祈祷した場所は岩屋本宮であったことから、源頼朝が寄進した鳥居も岩屋本宮付近に建てられたはずと考えるのが筋でしょう。
なお、現在の鳥居は平成16年(2004年)の台風のあと補修されたものです。

今は銅の沓巻を履いていますが、戦前の写真に沓巻はありませんでした。

奥津宮とある石の扁額が掲げられていますが、創建当初は、奉安殿に展示されている文覚上人筆の「金亀山」の扁額が掲げられていました。

こちらが、文覚上人の筆による金亀山の石額です。額縁は青銅製で「養和二年刻文之三字爲遍」「距文政十年九月六百四十三年」とあります。意訳しますと「養和二年(1182年)の刻文の三文字「金龜山」はそのまま手を付けていません。建立から643年経てた文政十年(1813年)九月にこの形に補修しました。」といったところでしょう。

金亀山の扁額

東海江島辯財天詞石鳥居記

こちらは、文政六年(1823年)に笠木が折れた源頼朝寄進の石鳥居を文政十年(1827年)に修繕した際に建てられた石碑で、撰文は岩本院法印・賢亮、書は中村景璉(号・仏庵)です。金亀山の扁額の額縁制作はこの石鳥居の修繕と期を一にしていることから、笠木が折れた際に「金亀山」の扁額も落下し、額縁が破損したため現在の青銅製の額縁に変えたのかも知れません。

傍らにある句碑には、藤沢俳句協会初代会長・青木泰夫さんの句「沖へ沖へ水脈太く曳く春霞」が刻まれています。

石鳥居そばの「常夜灯」も百味講寄進によるもので文政十二年(1829年)の 建立です。

力石

江戸期に、日本一の力持ちと云われた武州岩槻三野宮の卯之助が奉納したもので、八十貫(320kg)あります。「奉納 岩槻卯之助持之八拾貫」と彫られています。ちなみに卯之助が奉納した力石は各地に残っており、姫路・魚吹八幡神社、越谷久伊豆神社、三野宮香取神社等が知られています。

山田検校座像

こちらは、箏曲「江の島曲」で知られる山田流琴曲の開祖・山田検校の銅像です。初代の銅像は大正6年(1917年)の百回忌に幸田露伴らによって建てられましたが、第二次大戦で供出されてしまいました。今あるものは、平成16年(2004年)に、元の鋳型を利用して再鋳したものです。

こちらは、初代銅像とともに建てられた顕彰碑です。題字の「宏達」は「宏大で事理に通ずる」という意味だそうです。

拝殿

神符守札所を左に見た正面が「拝殿」で、現在の建物は昭和51年(1976)に新築されたものです。江戸期にはここに仏教様式の「二天門」があったのですが、明治の廃仏毀釈の折に取り壊され。明治6年(1873年)に「二天門」の名残を残して奥に壁のない「唐門」のような外観で先代の「拝殿」が再建され、現在の「拝殿」もその外観を受け継いでいます。なお現在、辺津宮・奉安殿にある土御門天皇の「江島大明神」の勅額は、江戸期には、天保十二年(1841年)に焼け落ちた権現造の「拝殿」に掲げられていたものです。

両脇には、唐獅子が控え、すぐ手前には御神籤の結び所があります。

八方睨みの亀

拝殿の天井には、どの角度から見ても視線が合ってしまう「正面向亀図(通称:八方睨みの亀)」が描かれています。享和三年(1803年)には、この場所にあった「二天門」の天井に酒井抱一の筆によるオリジナルがはめ込まれていたのですが、「二天門」が廃仏毀釈の折に取り壊されてからは、宝物殿に保管されるようになりました。その後、明治六年(1873年)に「二天門 」のあった場所に「拝殿」が再建されますが、その天井に大正十五年(1926年)になって野澤提翠の模写画がはめ込まれました。さらに平成6年(1994年)には、辺津宮・大石段の瑞心門の内壁の唐獅子と同じく日本画家・片岡華陽により復元画が描かれ現在に至っています。

◆酒井抱一
姫路藩主・酒井雅楽頭家に生まれ、兄・忠以の庇護のもと、始めは狩野派を学び20代で浮世絵師の歌川豊春に師事しました。40代になり尾形光琳の画風に感化されてから、その画才を大きく開花させ江戸琳派の創始者となりました。先日、東京国立博物館の国宝展を観覧して参りましたが、そこで偶然に抱一の代表作のひとつ重要文化財「夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)」を直に鑑賞する機会がありました。月光に照らし出される薄暮の夕顔や白百合がにわか雨に打たれ風になびく様子を銀箔上に控えめな色彩で表現したものですが、金箔と異なり、銀箔は時を経るにつれ黒ずんでくることを見越した上での視覚的効果を狙っているように思えます。もともとは有名な光琳の「風神雷神図」が描かれていた屏風の反対面に、19世紀になってから描き加えられたものでしたが、昭和49年(1974年)に両者は分離されて別の屏風に仕立てられ今日に至ります。

重要文化財「夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)」

奥津宮本殿

現在の本殿には宗像三女神の一柱「多紀理比賣命」が祀られています。本宮御旅所が設けられた当初は、岩本院内の建物を移築した仮屋でしかありませんでしたが、寛永年間に江ノ島随一と謳われた権現造の壮麗な拝殿・幣殿・本殿が建立されました。天保十二年(1841年) に火災で焼失した翌年、天保十三年(1842年) に現在の白木の本殿のみ再建されました。通常の神社の配置に比して拝殿と本殿との間に距離がありますが、これは火災で焼失するまでこの空間から現在の本殿にかけてのスペースに権現造の拝殿・幣殿・本殿が縦列に連なり建っていたためと思われます。いつの日か拝殿・幣殿を再建する時、役に立つことでしょう。

こちらは、徳川慶久公揮毫の「奥津宮」の宮号額です。

龍宮(わだつみのみや)

平成6年(1994年)に、本宮岩屋の直上に建てられた龍宮(わだつみのみや)は、龍神(龍宮大神)を御祭神としており、毎年9月9日には例祭が執り行われています。
なお龍宮鳥居の周囲には、江戸期に「観音堂」、弘法大師をお祀りした「開山堂」、輪王門跡公辯法親王の筆による「求聞持」の扁額が掲げられていた「求聞持堂」などがあったそうです。

龍野ヶ丘自然の森(恋人の丘)

奥津宮から岩屋に向かう左手に入ると、平成8年(1996年)に藤沢市観光協会の発足に伴い整備された「龍野ヶ丘自然の森」があります。第一岩屋から第二岩屋にかけての上部に位置し、とても見晴らしの良い展望台があります。また「龍恋の鐘」という「いかにも」のネーミングに誘われて、カップルがひと組またひと組と先の方に進んでいきます。

10月なのに桜が咲いてました。

龍恋の鐘

こちらが「龍恋の鐘」です。この場所をデザインした建築家の狙い通り、鐘を囲む鉄柵には、数えるのもあほらしいほど・・・もとい数えきれないほどの南京錠がかけられています。

◆江之島縁起の五頭龍
「江之島縁起」にはこんな伝説が記されています。 深沢の沼には五つの頭を持つ龍が住み着いていて、洪水や飢饉を引き起こしたり人間を食べてしまうなど、多くの災厄をもたらすため、村人はやむなく毎年子供の生贄をささげていました。現在の「腰越」の地名も、子供を食べられた村人が逃げていく経路にあたるため「子死越」と呼ばれたことに由来します。 ある日のこと、突如天地が揺れて海中より江ノ島が湧出し、天からは弁財天が姿を変えた天女が舞い降りてきました。その美しい天女に恋した龍は、これまでの悪行を改めるよう天女に諭されて心を入れかえ、天女と結ばれてからは善行を重ね、終には弁財天が祀られる江ノ島の真向いの龍口山に鎮まりました。これが旧・龍口神明社で、現在の龍口寺・山門の西隣の場所です。

曾禰子爵の顕彰碑

「龍恋の鐘」に向かう道を左にそれて森の中を進むと、堂々と佇立する石碑が目の前に現れます。これが 「曾禰子爵の顕彰碑」で、「龍恋の鐘」ができるまでは「龍野ケ岡」と云えばこの石碑がイメージされました。子爵・曾根荒助は、長州出身の政治家で、首相の経歴こそありませんが司法大臣、農商務大臣、大蔵大臣、外務大臣等政権の中枢となる大臣を歴任しました。歴史小説の主人公を務めるような元勲クラスの大物政治家と比べると小粒な印象は否めませんが、日露戦争当時に大蔵大臣の大任を果たし、最後は韓国統監に推されたように実務能力が高く安定感のある政治家だったに違いありません。片瀬に別荘を構えていた縁で、逝去の翌年の明治44年(1911年)に首相・桂太郎の筆による「西湖曾禰君碑」 という縦長の篆刻を掲げた顕彰碑が、ここ龍野ケ丘に建てられました。

最後までご覧いただきありがとうございました。書き始めてみるとかなりの長編になってしまい恐縮です。次回は旧本宮・江の島岩屋をご紹介します。