都幾山・慈光寺◆坂東三十三観音霊場(第九番)参拝◆
- 2025.06.11
- 坂東三十三観音霊場参拝

坂東三十三観音霊場・第九番札所の慈光寺は、正式には都幾山・一乗法華院・慈光寺といい、鎌倉期の有力御家人・比企能員(ひき よしかず)でも知られる埼玉県比企郡の西部・ときがわ町の山中にあります。
寺伝「都幾山慈光寺実録」によると、その歴史は天武天皇の二年(673年)に興福寺の慈訓(じきん)が、都幾山に登り、その光り輝く場所(現在の観音堂)に千手観音を安置したことに遡ります(実際に慈訓が活動した時期より大分前となりますが・・・そういうことです)。
実質的には、宝亀元年(770年)の釈道忠(広恵菩薩)による開山が、慈光寺の歴史の始まりとされます。釈道忠は、唐招提寺を開山した唐からの渡来僧・鑑真和上の「持戒第一」と呼ばれるほどの高弟で、東国を巡錫する中、この地に一尺六丈の釈迦如来像を安置し、修学の道場を開きました。都から遠い坂東で活躍した道忠の事績は詳らかではありませんが、上野国・緑野寺(みどのでら・現在の浄法寺)の開基としても知られています。
さらに延暦二年(783年)には、伝教大師により天台密教が伝えられ、貞観年間(859年~877年)には勅願所となり清和天皇より「一乗法華院」の勅額が下賜されるなど、天台宗別院として関東の天台宗寺院の中心として確固たる地位を築きました。
鎌倉期には全盛期を迎え、慈光寺坂途中に今も残る青石塔婆群付近から立ち並ぶ僧坊は七十五坊を数えましたが、戦国期に太田道灌の焼き討ちに遭って以降、次第に衰え明治期には宝樹坊・井上坊を残すだけとなりました。それでも天正十九年(1591年)には徳川家康より寺領百石の朱印状を得、寛永四年(1627年)には東叡山寛永寺の末寺に組み入れられることで徳川家の厚い保護を受けるなど、女人禁制の観音霊場として長く信仰を集め現在に至ります。
なお慈光寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒慈光寺へ
- 1. 慈光寺の魅力
- 2. 境内図
- 3. 女人堂
- 4. 青石塔婆 ( あおいしとうば )
- 5. 女人道・慈光寺七井へ
- 6. 慈光寺案内図
- 7. 寺号碑
- 8. 山門
- 9. 納経所
- 10. 阿弥陀堂(本堂)
- 11. 多羅葉樹
- 12. 時の鐘
- 13. 金蓮蔵(宝物殿)
- 14. 般若心経の道
- 15. 隅寺心経(すみでらしんぎょう)
- 16. 紺紙金字一字宝塔心経(こんしきんじいちじほうとうしんぎょう)・唐招提寺蔵
- 17. 般若心経堂
- 18. 如意輪観音像
- 19. 申八梵王(さるはちぼんのう)
- 20. 弘長二年弥陀一尊種子板碑
- 21. 観音堂前の石段
- 22. 手水舎
- 23. 観音堂
- 24. 観音堂脇寺務所
- 25. 宝篋印塔
- 26. 観音堂脇石仏群
- 27. 鐘楼堂
- 28. 青石破体心経碑
- 29. オオアラセイトウ(諸葛菜)
- 30. 釈迦堂跡
- 31. 開山堂
- 32. 霊山院(りょうぜんいん)
- 33. 正法寺(しょうぼうじ)
- 34. 全長寺
- 35. 萩日吉神社
慈光寺の魅力
◎鎌倉初期には七十五坊を擁し、名実ともに中世・関東天台宗寺院の頂点に立つ「天台別院」の格式
◎「久能寺経」「平家納経」と並ぶ鎌倉初期の三大装飾経の一つ「慈光寺経」装飾法華経(そうしょくほけきょう)
◎かつての仁王像、観音堂の白馬像などを巡る数多くの説話を生み出す重厚な歴史
境内図

女人堂
当初の女人堂は、平安初期に、現在の青石塔婆付近の女人禁制結界付近に建てられました。慈光寺境内が女人禁制であったころ、女性は女人禁制結界の内に入ることはできませんでしたので、代わりに女人堂に参拝いたしました。 参道の登り口の現在の場所には明治三十年(1897年)に移転してきたそうです。
ご本尊は、像高30cmの木造千手観音菩薩立像で、普段は女人堂中央の厨子の中に収められています。またご本尊に向かって左手にある僧形の座像は木造興教大師座像です。興教大師・覚鑁(かくばん)は平安末期の真言宗の僧で新義真言宗の始祖として知られています。
これらの像は、明治三十年(1897年)に女人堂が焼失した後、再建された女人堂に新たに収められたものです。



青石塔婆 ( あおいしとうば )
慈光寺の山門(仁王門)跡地にある弘安七年(1284年)から寛成五年(1464年)にかけて建てられた「青石塔婆 ( あおいしとうば )」は、歴代住職の供養のための板石塔婆及び墓石で、明治初期に山中の僧坊跡から移設されました。現在は、埼玉県指定有形文化財に指定されています。

大きな板碑は高さ275cmもあり、最も古いもので弘安七年(1284年)となります。

女人道・慈光寺七井へ
こちらは青石塔婆群のすぐ迎い側にある女人道で、往古より女人禁制の結界を避けて観音堂に向かうことができました。途中、慈光寺七井のうち星の井、月の井、阿伽の井などをめぐることができるようです。

◆慈光寺七井
慈光寺七井は、女人道とその周辺に配置されており、最盛期には七十五か所存在した僧坊を支えた水インフラでした。以下の七つの井戸で構成されています。
星の井・・・伝教大師最澄が修行中に井戸の水面に明星が来影した。
塔の井・・・頼朝が五重塔を寄進した際に、梶原景時に守護させた。
和田の井・・・厨房の井戸で、慈光寺を大造営の際に頼朝が和田義盛に守護させた。
阿伽の井・・・信濃諏訪大明神がインドの無熱池の水を注いだ。
月の井・・・役行者が祈念すると水面に映える月に蔵王権現が現れた。
丹花の井・・・丹生明神鎮護の井で甘く赤い水が湧く。
独鈷の井・・・伝教大師最澄が開山・釈道忠より授かった独鈷を沈めた。
慈光寺案内図
こちらは、駐車場脇にある境内案内図です。現在の建物だけでなく、かつて存在した建物も記載されていますが、風化が進んで文字が読みづらくなっているのは残念です。

寺号碑
こちらは、平成三年に建立された秩父青石の寺号碑です。右手の敷石は、観音堂に続く「般若心経の道」で、平成の初め頃、整備されました。

山門
こちらの四脚門が慈光寺の山門となります。もともとは青石塔婆群付近にあった仁王門が山門で、その頃は中門の位置付でした。


「慈悲」の扁額が掲げられています。

納経所
山門のすぐ奥の御本堂の一角が、寺号額を掲げた納経所となっています。

阿弥陀堂(本堂)
納経所は、この御本堂・阿弥陀堂に向かって左端になります。阿弥陀堂は向背もなく、もともとは客殿又は庫裏として建てられたもののようです。ご本尊は阿弥陀三尊です。

阿弥陀堂には、扁額が並びます。向かって左から、和心・無量寿・仁義・智慧・琉璃。





多羅葉樹
こちらは、天長年間(794年~864年)に慈覚大師円仁が植えたと伝わる多羅葉樹で、樹高は18mあります。埼玉県の天然記念物に指定されています。

時の鐘
現在も正午と夕刻に撞かれている「時の鐘」は、天明三年(1783年)に武州上小用村・清水武左衛門全盈により製作されたもので、もともとは塔頭・浄土院にあったそうです。「時の鐘」の鐘楼は平成16年(2004年)に再建されました。



金蓮蔵(宝物殿)
こちらは昭和51年(1976年)に建てられた「金蓮蔵」と呼ばれる宝物殿です。拝観を希望する方は、阿弥陀堂で拝観料を収めてから、お寺の方に鍵を開けていただくことになります。私が拝観した時には、恐縮ながらご住職にご対応いただきました。


紙本墨書大般若経
奥書に、貞観十三年(871年)とある関東最古の写経で、国の重要文化財に指定されています。上野国衙に勤める権大目六位下・安部朝臣小水麻呂(あべのあそんおみずまろ) が奉納したもので、もともとは600巻ありましたが散逸し、現在は152巻が残され宝物館に保管されています。

木造聖僧文殊菩薩坐像
こちらの寄木造の「木造聖僧文殊菩薩坐像」は、仏師・光慶の永仁三年(1295年)の製作です。ヒノキの寄木造で、昔は玉眼がはいっていたそうです。像高は約1mです。

般若心経の道
釈迦堂跡地から続く「般若心経の道」を進むと般若心経堂を経て、観音堂に着きます。秩父青石が敷かれたこの道に沿って般若心経の石碑が八か所置かれています。

隅寺心経(すみでらしんぎょう)
大和国・海龍王寺に伝わる「隅寺心経(すみでらしんぎょう)」の写しです。古来より弘法大師の筆と伝わり崇拝されてまいりましたが、同類の一巻の奥書に「天平勝宝七年(755年)」とあり、弘法大師の生誕日より前となりますので、筆者は別人と思われます。

紺紙金字一字宝塔心経(こんしきんじいちじほうとうしんぎょう)・唐招提寺蔵
こちらは、平安後期の作と思われる唐招提寺所蔵の「紺紙金字一字宝塔心経(こんしきんじいちじほうとうしんぎょう)」の写しです。筆者は不明です。

般若心経堂
般若心経堂は、般若心経にかかる資料が数多く展示されています。


こちらは、伝教大師・最澄の残された墨蹟から「般」「若」「心」「経」「堂」の5文字を拾い組み合わせて作った額です。微妙に筆致が異なりバランスがおかしいのはそのせいです。

こちらは上の額と同じように、三蔵法師・玄奘の残された墨蹟から「般」「若」「心」「経」「堂」の5文字を拾い組み合わせて作った額です。

国宝・慈光寺経等
「慈光寺経」は、元久三年(1206年)に亡くなった大政大臣藤原良経の供養のため後鳥羽上皇の意を汲んだ中宮・宜秋門院ら複数の筆によるもので、「久能寺経」「平家納経」と並び、鎌倉初期の三大装飾経の一つに数えられています。般若心経堂内に展示されている「慈光寺経」の陶器の写しは「授記品」ですが、本堂には「信解品」、女人堂には「提婆品」、塔頭の霊山院には「勧持品」、霊山院の末寺・正法寺には「人記本」、同じく霊山院の末寺・全長寺には「嘱累本」のそれぞれ陶器の写しが展示されています。

下段は、国宝「慈光寺経」の一部で、妙法蓮華経・授記品第六を陶器にしたものです。先頭の仏画の部分は、高麗より伝来した大宝積経巻第三十二の見返絵「三菩薩奏楽散華図」で、現在は京都国立博物館が所蔵しています。

上段は、平安後期に製作された重要文化財「尾張徳川家伝来装飾法華経観世音菩薩普門品」の第二十五を、観音堂の大改修を記念して平成7年(1995年)に陶器にしたものです。

会津八一書「行書心経」
こちらは、般若心経の書を数多く残した歌人・会津八一の「行書心経」の写しです。左下には、八一の号・秋艸道人の落款があります。

紺紙金字一字宝塔心経(こんしきんじいちじほうとうしんぎょう)書・平清盛
こちらは、厳島神社の平家納経の一部「紺紙金字一字宝塔心経(こんしきんじいちじほうとうしんぎょう)」の写しです。仁安二年(1167年)の作品で平清盛の筆によります。

集王羲之書心経(しゅうおうぎししょしんぎょう)
三蔵法師・玄奘による般若心経の漢訳を、王羲之の残された様々な墨蹟(石碑の拓本)から一つ一つの文字を拾って紫紙金字経に仕上げたもので、冒頭の鳳凰の経絵は、正倉院宝物の模写だそうです。

如意輪観音像
ときがわ町内で産出される小戸々石でできたこちらの如意輪観音像は、旧暦7月22日に行われる月待ち行事「二十二夜様」のご本尊で旧塔頭・浄土院にありました。造立は寛政八年(1796年)で、浄土院・浄恵の発願によるものです。

申八梵王(さるはちぼんのう)
猿は、古くから山王権現の使いとして信仰されておりますが、都幾川付近では「申八梵王(さるはちぼんのう)」と呼ばれていたようです。こちらは、地元・雲河原村(現在の都幾川村大字雲河原)産出の「ことど石」を彫刻したもので天明六年(1786年)に建てられました。

弘長二年弥陀一尊種子板碑
この高さ3mもある大きな青石塔婆は、弘長二年(1262年)に須黒左衛門尉行直が、鎌倉幕府に誅された畠山重忠を供養し建立したものを、平成5年(1993年)に復元したものです。なお、元々の碑面にあった「左衛門尉行直」及び「秩父六良重忠」の文字は、碑が製作されてより後になって刻まれた文字だったそうです。ちなみに慈光寺二十五世の圓耀は、重忠の四男でした。

観音堂前の石段
駐車場を過ぎて少し霊山院方面に進んだあたりから観音堂に続く長い石段で、110段あるそうです。なお、この石段下の平地が往古の観音堂跡地とされています。

手水舎
石段を上がったところにある手水舎です。扁額には「浣漱(かんそう)」とあります。

観音堂
現在の慈光寺観音堂は、江戸期・享和二年(1802年)に再建されたもので、平成9年(1997年)に平成の大修復が行われています。堂内には、ご本尊の十一面千手千眼観世音菩薩像の他、源頼朝を支えた武将・畠山重忠の持仏・十一面観音立像、木造毘沙門天立像、木造不動明王立像、木造不動三尊像などが安置されています。なお元禄期までは、この位置には慈覚堂がありました。
正面

右面


左面

向背下

正面の虹梁上には「大悲閣」の扁額

正面欄間の上には「観音堂」の扁額。下部には、紅白の結縁綱が張られています。

夜荒らしの白馬像(伝・左甚五郎作)
夜な夜なお寺を抜け出して、近くの田畑を荒らしたという伝説のは白馬像です。尻尾を切られて鎖でつながれたといわれておりますが、この像には尻尾があります。あら不思議。つるされた台板代わりの扁額「奉納御寶前」には文政十年(1827年)とあります。


欄間透彫
正面は、奥行きのある立体感が見事な龍の透かし彫りです。

向かって右手は「風神」

向かって左手は「雷神」

賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)
まだまだ色鮮やかなびんずる様です。

内陣
正面の大きな厨子には札所本尊の漆黒の千手観音像が安置されており、毎年4月17日の観音様のご縁日に御開帳となります。

十一面千手千眼観世音菩薩像
こちらが、慈光寺のご本尊「十一面千手千眼観世音菩薩像」です。県の重要文化財に指定されており、真っ黒い艶のあるお姿は、像高は265cmと、見上げるほどの大きさです。平成6年(1994年)に観音堂の修復工事に際して解体修理が行われ、頭部から天文十八年(1549年)に大仏師法眼長慶により造立されたことを示す墨書銘が発見されました。胴体の方は時代が下がり享和二年(1802年)に作られたものです。毎年4月17日及び4月第2日曜日には、本尊開扉護摩が執り行われています。


観音堂脇寺務所

宝篋印塔
こちらは、観音堂脇のスリムな安永六年(1777年)建立の宝篋印塔で、近隣23村により奉納されたものです。

観音堂脇石仏群

鐘楼堂
こちらは国の重要文化財に指定されている寛元三年(1245年)銘の鐘で、高さ150cm、口径は88cmあります。臨済宗・開祖である栄西の弟子・栄朝が願主となって奉納されたもので、製作者は、国宝に指定されている鎌倉・建長寺の梵鐘と同じ大和権守・物部重光です。
現在の鐘楼は、昭和60年(1985年)に釈迦堂と共に焼失した旧鐘楼を、平成2年(1990年)に再建したものです。




青石破体心経碑
こちらは、空海筆の破体文字で書かれた般若心経「破体心経」を青石に彫った「破体心経碑」です。「飛白体」という梵字の筆法を取り入れることで、文章全体の一体感が醸し出されています。


オオアラセイトウ(諸葛菜)
こちらの紫の花は、オオアラセイトウです。中国・蜀の軍師・諸葛亮の故事にちなんで諸葛菜とも云われるそうです。

釈迦堂跡
昭和60年(1985年)に焼失し基壇のみ残る釈迦堂跡です。

「慈光寺略誌」によれば釈迦堂が最初に建てられたのは大同年間(806~809年)のことですが、火災で失われた釈迦堂は、元禄八年(1695年)に寒林院主・釈見性(しゃくけんしょう)の勧進により建てられた間口八間(14.8m)の大講堂で、像高2.26mの釈迦如来坐像がご本尊でした。また釈迦堂には、かつて仁王門に置かれていた高さ3.5mの大きな仁王像も安置されていましたが、残念ながら共に焼け落ちてしまいました。しかし「元禄八年当院四十世学頭翁鎮釈見性法印」と書かれた鰐口は焼け残り、現在は、ときがわ町の文化財に指定されています。


なお昭和60年(1985年)の火災では、釈迦堂に向かって右に隣接していた二間四方の小さなお堂・蔵王堂も蔵王権現立像と共に失われました。下の写真の左手に見える建物が蔵王堂で、右に見えるのが以前の茅葺の開山堂です。

同じく昭和60年(1985年)に焼失した蔵王権現立像です。ヒノキ造で像高は211cmと、大きなものでした。

開山堂
開山堂は、内部に収められている国の重要文化財の「開山塔」の鞘堂となっています。


開山塔は、天文25年(1556年)に建立されたもので、もともとは開山・釈道忠の墓前に建てられていました。開山塔の屋根は「とち葺」で、高さは5.1mあり、塔頂の相輪は昭和39年(1964年)に復元されたものです。


霊山院(りょうぜんいん)
こちらは慈光寺において長らく禅宗を司る塔頭として歴史を刻んできた霊山院(りょうぜんいん)です。本山の延暦寺が、懐深く天台・念仏・禅宗・密教の「四宗兼学の道場」であるように、平安期には各々の経典は仏教教学上の一つの「学科」として位置付けられており、鎌倉期以降ほどには宗派毎の対立は先鋭化しておりませんでした。開山は、臨済宗・開祖である栄西の弟子で、慈光寺に寛元三年(1245年)銘の鐘を寄進した栄朝で、開山当時慈光寺の住職を務めておりました。当初は世良田長楽寺の末寺の位置付でしたが、後に東叡山寛永寺に属し、文久三年(1863年)に第三十八世となった中興・叔山禅師の流れから明治期には臨済宗妙心寺派の別格本山となりました。塔頭とは言え独立色は強く、慶安二年(1649年)には慈光寺領百石のうち十三石が下賜され、宝聚庵・東朗庵などは配下に組み入れられました。叔山禅師は、明治六年(1873年)に、生きながら棺の蓋を覆い、本堂西方の山腹にて入定なさった方として知られています。

勅使門
こちらは勅使門で、普段は閉じられております。もともとは建久八年(1197年)に建てられたものでしたが、その後再建・改修を繰り返し、現在の銅板葺となったのは平成九年(1997年)のことです。「拈華山(ねんげさん)」の山号額が掲げられています。


本堂
本堂は宝永四年(1707年)に建てられたもので、昭和四十六年(1971年)に改修されています。



正法寺(しょうぼうじ)
こちらは、霊山院の末寺となる巌殿山正法寺(しょうぼうじ)です。開山は良空で、ご本尊は釈迦如来です。霊山院の存在により、この近辺には、臨済宗の寺院が点在しています。


全長寺
こちらも霊山院の末寺となります普門山全長寺で、記録が失われ詳らかではないものの鎌倉中期の1240年頃に創建されたようです。開山は正法寺と同じく良空で、御本尊は薬師如来です。時間が合わずこの時はあきらめましたが、庫裏でカレーを食べさせていただけます。


萩日吉神社
萩日吉神社は、社伝によれば、欽明天皇六年(536年)に蘇我稲目が創建したとなっていますが、実際には平安期に慈光寺が鎮守として近江国・日吉神社を勧請したものです。昔は木曽義仲の父・義賢の領地であったことから、その遺臣七氏による流鏑馬も執り行われていたそうです。



児持杉
児持杉は、別名夫婦杉とも呼ばれ、高さは両方とも40mを超えます。男杉は根回り6.5mで、幹は三本に枝分かれし、女杉は根回り8.9mあり、幹は二十四本に枝分かれしています。



二の鳥居
こちらは明神造の二の鳥居です。

拝殿

最後までご覧いただきありがとうございました。
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