江島神社◆境内散歩(その4)◆~中津宮(なかつみや)~中津宮広場(旧金亀楼跡)・水琴窟(奘瞭停)

江島神社◆境内散歩(その4)◆~中津宮(なかつみや)~中津宮広場(旧金亀楼跡)・水琴窟(奘瞭停)

仁寿三年(853年)に江ノ島を訪れた慈覚大師・円仁は、窟屋に籠り三十七日の修法の末に十五童子を引き連れた弁財天女の来迎を得て、心見した弁財天女の姿を像に刻み国司に願い社壇を設けて安置しましたが、これが江島神社「中津宮」の前身「上之宮」の開創とされています。現在の社殿は、江戸期・元禄二年(1690年)に建立されたもので、その朱色も鮮やかな権現造には、江ノ島三社の中でもひと際目立つ存在感があります。中津宮の現在の御祭神は、宗像三女神のうちの一柱・市寸島比賣命 (いちきしまひめのみこと)で、本地・弁財天の垂迹神とされており、古来の弁財天信仰と明治期以降の御祭神・宗像三女神の結び目にあたる神様です。その御名は「島に居付く姫」又は「斎く(いつく)島」の意で、厳島(いつくしま) 神社の社名とルーツは同じです。

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東町(漁師町)から中津宮へ

江ノ島大橋を渡り、青銅門に向かって左手に広がる東町は、昔は漁師町(猟師町)と呼ばれ、東浜の漁民の居住地でした。賑やかな仲見世通りと違ってあまり知られてはいないのですが、実は東町にある江島神社車祓所の西側の道から中津宮広場まで直接通じる裏道があります。

東西に通じる東町の通りには小振りではありますが飲食店が並んでいます。

「頂上へ行く道」の看板を頼りに細道を通って中津宮下の崖に進みます。

急な階段で、ぐんぐん崖を上って行きます。

階段を上りきると「江の島神道墓苑」があります。

さらに進むと、右手に「児玉神社」前を経由して辺津宮の朱の大鳥居前に下る石段が見えてきます。

さらに進むと、中津宮広場のトイレに向かって左手あたりに出てきます。江ノ島ヨットハーバー付近から中津宮に行くにはこのルートが最短です。下の写真は、中津宮広場ですが、右手奥に見えるのがトイレです。裏道を通って上ってきますと正面の柵のあたりから中津宮広場に入ってくることになります。中津宮広場は、かつての上之宮別当・上之坊の跡地でした。上之坊には、弁財天のほか、愛染明王・地蔵尊も祀られていたそうですが、明治6年に最後の別当職壬生(みぶ)大膳が、還俗し壬生重延に名を改め、その歴史を終えました。

中津宮広場(旧・金亀楼跡地)

辺津宮から中津宮に向かう参道にある青銅鳥居を潜り辺津宮を出て中津宮広場に入りますと、右手に「猿田彦大神」と刻まれた庚申塔があります。これは天保三年(1832年)に建てられたもので、碑文を書いた阿部石年は藤沢在の儒者でお墓は鵠沼の万福寺にあるそうです。

そのすぐ右手には「和洋御料理」「金亀楼別館」と刻まれた石柱があります。

かつて上之宮(中津宮)の別当を務めていた旧・上之坊の宿坊は明治以降は長く旅館「金亀楼」本館として営業を続けていました。

藤沢市文書館提供
藤沢市文書館提供

現在、亀が飼われている小さな池の周囲は、金亀楼の日本庭園の一部でした。

なお、先ほどの石柱にある「金亀楼別館」は、ここではなく現在の江の島大師・最福寺別院の場所にありました。とても見晴らしの良い旅館で、人気があったそうです。「江の島シーキャンドル」から見下ろすと、右手の鉄筋コンクリートの大振りな建物の場所がそれです。

昔の「金亀楼別館・江の島館」の写真が残されており、こんな感じです。「江の島館」は昭和39年(1964年)まで営業していたそうです。

現在の中津宮広場は、四季折々の花が植えられ、ここを訪れる方々の目を楽しませてくれます。

展望台付近からは、江の島ヨットハーバーもこのように見下ろせます。

中津宮社殿へ

中津宮広場から中津宮に上がるには、江の島エスカーの2区を利用するのが楽です。

江の島エスカー2区乗り口
江の島エスカー2区降り口

江の島エスカーを利用せず、参道を進むと正面の坂道がサミュエルコッキング園に直接繋がる坂道になります。

中津宮には右手の「御岩屋道」とある石碑脇の石段を上ることになります。江戸期にはこの石段を少し上ったあたりに「役行者堂」があり、伝・役小角自作の「役の小角」の木像(丈一尺四寸・楠製)が収められていたそうです。現在、この「役の小角」の木像は、奉安殿に所蔵されています(非公開)。

こちらの石碑は酒井雅楽頭の撰による「江島辯才天上之宮之碑」です。

石段の先に見える朱色の建物が中津宮拝殿です。

江戸期には、石段を登りきった場所に「不老門」がありました。「不老門」は、下半分が白漆喰で塗り固められた龍宮造の門で、今の「瑞心門」はこれを模したものです。「不老門」の上層には、現在「辺津宮」の「奉安殿」に収められている「妙音弁財天」が安置されていました。下の石碑は「不老門再建記念碑」ですが、万延元年(1860年)に再建された「不老門」も、今は残っていません。また神仏分離令以前、この付近には鐘楼がありました。

左右にはどっしりとした江戸堺町「中村座」の石灯籠があります。この奥には「江嶋上之宮」と刻まれた手水鉢があり、元禄三年庚午天十一月六日・中西市兵衛喜澄との銘があります。

こちらは、歌舞伎役者の手形で、左側が五代目尾上菊之助、右側が七代目尾上菊五郎のものです。

こちらは、五代目尾上菊之助が「弁天娘女男白波」で弁天小僧を演じて人気を博した「江の島大歌舞伎」の開演に先立ち、献樹された「しだれ梅」です。

その奥には、江戸葺屋町の市村座の丸い石灯籠があります。

こちらは江戸・新肴場の和泉屋甚左衛門が奉納した石灯籠です。

こちらは、中津宮拝殿の向背に吊り下げられている青銅の釣灯篭の奉納を記念して昭和三年に建てられた石碑です。願主は東京・三田の「あるまんす本舗・吉永富久」となっています。

こちらの目立つ春日灯篭には、東京世田谷・伊佐喜代子の銘があります。参道の反対側の春日灯篭と対になっており、そちら側の銘には伊佐精二とありますので、ご夫婦で奉納されたもののようです。右奥に見えるのが中津宮の拝殿です。

中津宮社殿

朱塗りが一段と鮮やかな中津宮の拝殿は、幣殿・本殿と一体となった権現造で
元禄二年に再建されたものです。 現在のご祭神は海上守護の神様である市寸嶋比賣命です。もともとは、開創の慈覚大師自らが刻んだとされる弁財天像をお祀りしていましたが、廃仏毀釈の折、主祭神を改めた際に、その像は行方が分からなくなっています。

両脇には、阿吽二体の狛犬が控えます。

「中津宮」とある社号額は、明治の元勲・松方正義侯爵の揮毫です。

色鮮やかな正面扉は、大きな金具で頑丈に造られています。

唐破風の向拝下の頭貫には、彩色された龍・松・亀などが彫られています。木鼻の象の彫り物も鮮やかです。

拝殿内部の正面には「寚王宮(ほうおうぐう)」と書かれた扁額が掲げられています。揮毫者と思われる金字が向かって左に見えますが「鐵塔正傳大阿闍梨耶老比丘正法金剛」とあるそうです。「鐵塔正傳」がお名前で、「大阿闍梨」以下が称号でしょうか?

社殿内部御簾の左右には、彩色の随身像が置かれています。向かって右が阿形、左が吽形です。

社殿内の彫り物も見事です。

中津宮の社殿の向かって左側から撮影しました。正面が幣殿、右が拝殿、左が本殿です。

こちらは御本殿です。

奥津宮に向かう参道側から見た社殿は、こんな感じ。

こちらは、昭和初期の中津宮拝殿です。拝殿前には、湘南らしい立派なソテツが二株あり、拝殿に向かって左側には大森貝塚で有名なモース博士献樹の唐松がまだ健在です。

八臂弁財天像の行方

 廃仏毀釈時に行方不明となった八臂弁財天像ですが、東京都中央区の旧小伝馬町牢屋敷跡に建てられた大安楽寺に祀られている「江戸八臂弁財天」あたりが有力ではないでしょうか。「江戸八臂弁財天」が祀られている祠には「江ノ島弁財天に三体あり、1江ノ島神社、2岩本楼、3当弁財天なり。胎内には三体のミニ弁財天が納められ他に12体(大日如来、聖観音、不動明王等)経典、金光明最勝王三巻も納められてある」 との由緒書があり、三体とも北条政子が奉納したものと伝えられています。言われてみますと、奉安殿・大安楽寺・岩本楼の各八臂弁財天は、何れも江島三社本殿に鎮座するにふさわしい高い芸術性と威厳を兼ね備えており、制作年代も室町初期を下ることはないと考えられます。辺津宮・奉安殿の弁財天(国重要文化財)が下之宮、大安楽寺の弁財天(伝運慶作)が上之宮、旧本宮別当・岩本楼の弁財天(県指定文化財)が本宮に、夫々奉納された像であるとすれば、確かに整合性が取れます。

「気ままに江戸♪散歩・味・読書の記録」にリンク)

◆大安楽寺の八臂弁財天にまつわる怖い話
大安楽寺の建つ旧小伝馬町には、明治8年まで時代劇でもお馴染みの小伝馬町牢屋敷がありました。明治政府はこの場所を公園に仕立てましたが、囚人たちの数多の業苦が折り重なった不浄地として利用されず、また近くで火災が発生した際に、ここに避難させた家財がすべて延焼してしまうなど、近隣の住民からは忌避されていました。
その後明治15年に、開基・山階俊海師の発願で、高野山真言宗のお寺として建立されたのが大安楽寺です。なお、この寺号はこの地を政府より払下げられ所有していた大倉財閥総帥の大倉喜八郎氏、安田金融財閥総帥の安田善次郎氏の頭文字「大」「安」に「楽」を加えたものです。
ここに安置される八臂弁財天像は、優れた芸術性と仏像としての威厳を兼ね備えた立派な造りで、運慶作とも伝えられています。もともと江島三社何れかの本尊として祀られていたと思われますが明治初年の神仏分離令下の混乱の中、深い仏縁に導かれ大安楽寺にお出でになったものです。
八臂弁財天を大安楽寺に寄贈した三井物産社長の坪内安久氏は、この像を入手した当初、海外に売却しようと契約まで交わしていたのですが、ご自身が病に倒れ家族にも死人が出る事態となりました。
訝しんだ坪内氏がこの像の由来を調べてみると、明治初年以来転々売買されたこの像を所有した者は悉く死亡していることが判明しました。
そこで坪内氏は改心し、高額の違約金を支払い海外との契約を破棄した上で、大安楽寺に奉納したという次第です。
牢屋敷がなくなった後も成仏できない囚人達の諸霊が、弁財天を呼び寄せたのかも知れません。

もう一体、有力な候補とされているのが、相模原市中央区田名の「望地(もうち)弁財天(市指定有形文化財)」で、上之宮の最後の別当・壬生大膳が、藤沢本町の常光寺に持ち込んだものと伝えられています。ただ制作年代が江戸期と思われ、他の二社の弁財天と比べるとかなり時代が下りますので、バランスがよくありません。もしかすると別当寺の上之坊で大切にされていた像かもしれません。

相模原市史文化遺産編より

神札授与所・水琴窟

こちらが社殿に向かって左側にある神札授与所です。以前は、この奥に宝物拝観所がありましたが、現在は辺津宮の奉安殿に移されています。

神札授与所の右わきの門をくぐると「奘瞭停」と名付けられた水琴窟があります。こちらの水は、かつて黄金水と呼ばれたエスカー三区乗り場付近の古井戸より引いているものかも知れません。

水琴窟に至る左手のがけ下には、石碑や石灯籠が並びます。こちらは、江戸小網町の豪商・鈴木金兵衛(俳号・古帳庵)の句碑で天保十二年(1841年)に建てられています。古帳庵の句「以さこゝ耳 戸満り手 嵜あん (?)す(いざ此處に泊りて聴かん郭公)」と、古帳女(古帳庵の奥様)の句 「(?)親耳  み勢たしかつを いきてゐ(?)(二親に見せたし鰹生きてゐる)」が仲良く並んでいます。

この夫婦の句碑は、関東一円にあり、古帳庵が詠んだ千葉県銚子市・円福寺の「ほととぎす 銚子は国の とっぱずれ」 が有名です。円福寺にお参りしたときに撮った写真がありますので下に貼り付けておきます。

こちらは、森田久四郎以下27名が寛保年間に寄進した石灯籠です。

こちらは、仲見世通り入口の青銅鳥居の神額と同じ鳥虫書体で「江嶋大明神」の文字が浮かぶセメント製の額です。

 最初は、青銅鳥居の神額を模した石碑だろうと思っていたのですが、よく見るとセメント製でした。複数回コンクリートで補修された跡が残っており、背面に赤錆びてはいますが懸架用のスチール製ワイヤが埋め込まれていることから、実際に島内のどこかに掲げられていた神額と思われます。
ちなみに江ノ島入口に立つ青銅の鳥居の扁額ですが、明治初の廃仏毀釈の折に、江戸期まで掲げられていた「大弁財天」の額が「江島神社」の額にかけ替えられ、さらに「江嶋大明神」の神号額となっています。
確かに先代の「江嶋大明神」神号額は青銅製でしたが、それは昭和9年のことで、当初の「江嶋大明神」の神号額がどのような材質であったかについては資料が見当たりません。江の島が江戸期の繁栄を失っていた頃でもあり、もしかするとこのセメント額が掲げられていた時期があったのかもしれません。

岩屋道・奥津宮へ

正面に甘味処「東雲亭」を見ながら、御岩屋道と彫られた標石のある参道を奥津宮に進みます。

参道右手には、エスカー3区の乗り場があり、亀ヶ岡広場に続きます。

参道の両脇には、石碑や石灯籠が並びます。こちらは軍神・乃木希典筆の表忠碑です。

こちらは、永野泉山の門下・間宮霞軒の句碑で、「さし潮の 香を抱く 島の霞かな」とあります。

こちらは左右一対になっていますが、左手にある下の写真の灯篭は元禄十年(1697年)に江戸の喜多十太夫経能が奉納したものです。

右手にある下の写真の灯篭は元禄九年(1696年)に藤田十右門・松見徳兵衛・手谷喜右門・同妻が 奉納したものです。

円柱六角傘の変わった形のこの灯篭は、寛延四年に江戸御蔵前・両國講中の寄進です。

最後までご覧いただきありがとうございました。次回はサミュエルコッキング園あたりから山街を通り「奥津宮」までをご紹介します。