江島神社◆境内散歩(その3)◆~辺津宮(へつみや)~奉安殿・八臂弁財天・妙音弁財天・八坂神社

江島神社◆境内散歩(その3)◆~辺津宮(へつみや)~奉安殿・八臂弁財天・妙音弁財天・八坂神社

江島神社・辺津宮(下之宮)は、江ノ島三社の中で最も北よりに位置し、江ノ島の玄関口である青銅鳥居から仲見世通りを抜け大石段を上ってすぐのところにあり、建永元年(1206年)に慈悲上人・良真の働きかけにより鎌倉将軍・源実朝が創建した江ノ島三社の中では一番新しい神社です。
ご祭神として、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけひ)に際し素戔嗚尊の十束剣(とつかのつるぎ)を噛み砕いた天照大神が吹き出した息から生まれた宗像三女神の一柱・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)をお祀りしています。田寸津比賣命は、後に国津神の代表格・大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命(おおくにぬしのみこと)に嫁ぎ、天津神と国津神を結ぶ懸け橋となりました。
江戸期まで長らく続いた神仏習合の世における辺津宮の別当寺は下之坊(現在の恵比寿屋の前身)で、元禄期には将軍綱吉の信を得た杉山検校の尽力により社殿が再興された他三重塔・護摩堂・仁王門が建立されるなど、ビジュアル的には江ノ島三社の中で最も目立つ存在でした。ただ開山堂を始めとした仏教系の建造物は明治の廃仏毀釈により取り壊されてしまい今は目にすることができません。取り壊された建造物は、主なものだけでも開山堂・三重塔・護摩堂・仁王門・随身門・閻魔堂・八大龍王社・観音堂・薬師堂といったところが挙げられます。神仏相和する日本独特の懐の深い宗教世界は、不寛容なキリスト教的宗教観を欧米より吹き込まれた初期の明治政府により分断されてしまいました。さらにその根底には別当寺制度により長く仏教勢力に支配されて来た伝統的神道勢力側のフラストレーションがあったため、寺院の破壊が苛烈を極めた地域も少なくありません。
なお「辺津宮」との呼称は、「古事記」や「日本書紀」に「田寸津比賣命は辺津宮に住まわれる」旨の記載があることから、江島三社が宗像三神をお祀りする「三宮御一体」の神社として再構成された明治期以降使われるようになったもので、それまでは「下之宮」と呼ばれていました。

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つづら折りの石段近辺

福石付近からまだ上に、つづら折りの石段は続きます。

こちらは、永代祭禮講の石碑です。

こちらはつづら折りの角に立つ石灯篭です。

御手洗石

石段の中ほどには、重厚感のある立派な御手洗石が据えられています。こちらは、昭和12年(1937年)に東京の湯島にあった勝巳電話店の店主・五島秀太郎氏の献納で「奉寄進水盤一基」と刻まれています。

また、手水舎の手前両脇には「奉献御寶前 寛政九丁巳年三月吉日」と刻まれた立派な石灯篭が建てられています。

石段の続き

御手洗石の先も、石段が続きます。この石段を上り切ったところに朱塗りの春日灯籠があります。
江戸期にはここに随身門があり「金亀山」の扁額が掲げられていました。なお別の記録によれば「天女観」の扁額であったともあります。

石段を上がった左手には、寛延二年(1749年)に江戸麻布坂下町の藤屋半七より寄進された嗽水盥があります。

辺津宮・拝殿

現在の社殿は、昭和51年(1976年)に建てられたもので、手前の拝殿と奥の本殿を幣殿で結ぶ権現造となっています。拝殿は入母屋造で、向拝の軒に唐破風、さらにその上部正面と左右に千鳥破風を置くコンパクトながらも贅沢な造作となっています。

以前の社殿は、本殿が延宝三年(1675年)造立 、幣殿が明治十六年(1883年)改築の共に権現造で、拝殿が明治六年(1873年)改築の神明造でしたが、現社殿より権現造に統一されました。江戸期には、この社殿に向かって右奥に弁財天の従者「十五童子」を祀ったお社があったそうです。

神明造の旧拝殿

拝殿正面の賽銭箱は、平成29年(2017年)に新調されたもので、それ以前は相模彫の巾着型の賽銭箱(作・鏡碩吉)が置かれていました。現在は社務所にて保管され、春秋の例祭及び節分祭で使用されるとのことです。

辺津宮旧賽銭箱(「お散歩日記」サイトにリンク)

「邊津宮」の扁額は、司法大輔・貴族院副議長・元老院議官・枢密顧問官等を務めた文学博士・細川潤次郎男爵の揮毫で、大正11年に奉納されました。実は同じ年に、中津宮、奥津宮の社号額も揃って奉納されており、揮毫は夫々、明治の元勲・松方正義、徳川将軍家直系の公爵・徳川慶久となかなかの顔ぶれです。

軒下には、縦笛、横笛に笙を奏でる天女が彫られています。

江島神社の社紋「波に三ツ鱗」は、鎌倉期を通じて江島神社を支え続けた北条執権家の礎を築いた北条時政が江ノ島に参籠し子孫繁栄を祈願した折、現れた弁財天が龍となって波間に消えた際に落としていった三枚の鱗に由来するものだそうです。もちろん北条家の定紋も御存じ「三ツ鱗」です。

拝殿に向かって右手前には「茅の輪」が置かれており、時節毎に様々な祈願が行えます。

こちらは、拝殿に向かって左手にある「神符守札所」です。江戸期にはこちらに向かって左手のエリアに「護摩堂」「開山堂」といった仏教系の中核建造物が並んでいました。

社務所

拝殿に向かって右手にあるのが辺津宮の社務所で、実質的には江島神社全体の社務所でもあります。社務所正面左手が、祈禱受付所になっています。

拝殿に向かって右手奥には、明治の廃仏毀釈にて解体された鐘楼がありました。現在、廃仏毀釈の際この鐘楼にあった梵鐘のさらに先代の梵鐘(寛永六年(1629年)酒巻庄五郎定勝・鋳造)が、藤沢市渡内の曹洞宗・慈眼寺に保管されています。

奉安殿

こちらが鎌倉期以来、江島神社の実質的な主祭神のポジションにある弁財天の像を収めるため昭和50年(1975年)に立てられた八角堂「奉安殿」です。江島神社の御祭神は、時代を経る中で二度入れ替わっており、欽明天皇の十三年(西暦552年)に天女が十五童子を従えて現れ江ノ島を造り岩屋に祀られてより源頼朝が八臂弁財天と鳥居を奉納するまでの第一期、八臂弁財天が祀られてより明治の神仏分離令により仏教色が一掃されるまでの第二期、明治の御名神仏分離令以降の第三期に分けることができます。まず第一期の御祭神の御名は不明ですが「海」「水」に係る女神であったのは間違いなさそうです。また第二期の御祭神は、第一期の水に係る御祭神を垂迹神とする本地神に比定された「弁財天」、第三期の御祭神は、明治の神仏分離令を機に祀られるようになった「宗像三女神」となりますが、現在でも依然「弁財天」への信仰は厚く、ここ「奉安殿」に江戸期までの下之宮の御祭神である「八臂弁財天」が安置されています。

玉垣には、俳優の故・夏八木勲さんの名もあります。

「辨財天」という銘柄のお酒もあるようです。

八臂弁財天

こちらの八臂弁財天は、辺津宮を開創した慈悲上人良真の作とされ、もともと下の宮(現在の辺津宮)の本殿に祀られていましたが、明治の神仏分離令により主祭神 が宗像三神の一柱・田寸津比賣命に入れ替わったことから、現在は奉安殿に安置されています。八臂には弓・矢・剣・宝珠・輪宝・戟(げき)・宝棒・鉤(かぎ)を持ち、ふくよかなお顔ながら両のまなじりは切れ上がり引き締まった表情をお持ちです。頭上の蛇身の宇賀神は後に加えられた造作とのことです。弁才天はもともとインドの河川の神様でしたが、中国を経由する間に財宝をもたらす福の神とされ、さらに日本では七福神の一人となっています。

八臂弁財天像(「みゆネットふじさわ」にリンク)

妙音弁財天

妙音弁財天は、かつて上之宮(中津宮)の表門であった不老門の楼上に安置されていた像で、一般的には「裸弁天」と呼ばれています。もともとは水を司る神様でしたが、二臂の弁財天は琵琶を持つことが多いことから芸事の神様として信仰を集めています。鎌倉中期の作とされてきましたが、その造形から江戸期の作ではないかとも云われています。現在の彩色が蘇ったのは昭和2年(1927年)に浅野長武侯爵の寄進により行われた修理によるものです。

妙音弁財天像(「みゆネットふじさわ」にリンク)

江島大明神勅額

建治元年(1275年)九月二十三日に、蒙古軍撃退の恩賞として後宇多天皇より授けられた勅額です。仲見世通り入り口の青銅門に掲げられた扁額は、この勅額のレプリカです。

浮彫弁才天及び脇侍眷属一具

天長七年(830年)七月七日に弘法大師が窟屋にて修した護摩の灰で作られた像とされるものです。裏に大師の手形があります。

浮彫弁才天及び脇侍眷属一具(「みゆネットふじさわ」にリンク)

江ノ島エスカー1区降り口

「無熱池」脇の乗り場から江ノ島エスカーに乗りますと、辺津宮境内の「白龍池」脇に出てきます。

子供の頃に、よく白黒テレビのコマーシャルで見ていたリボンちゃんの看板があたので撮ってしまいました。関東に来てから数十年、見た記憶がないのですが・・・そんなものなのでしょうか。

リボンちゃんの看板

白龍池

「ここで銭を洗うと財運が高まる」という銭洗弁財天の江ノ島版といった池です。龍神はもともとは本宮岩屋の中に祀られ、そこに湧き出た霊水で銭を洗うと御利益があるとされていましたが、現在はこちらに移されています。

こちらが銭洗い白龍王像で、辺津宮の先代の巾着型賽銭箱を造形した鏡碩𠮷氏の作品です。

八坂神社

江ノ島最大の御祭「天王祭」で知られる江島神社の末社で、御祭神は建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。江戸期までは「天王社」と呼ばれ、京都・八坂神社と同様に「牛頭天王」をお祀りしていましたが、御多聞に漏れず明治の神仏分離令により明治六年(1873年)に八坂神社と改称されました。現在の社殿は平成13年(2001年)に改築されたものです。御神体は、もともと対岸の小動神社に祀られていたものでしたが、大波に流されたものを漁師が拾い上げこちらに御祀りしたとのことです。そのご縁から八坂神社と小動神社の神輿が龍口寺前で出会う「天王祭」が毎年7月に行われます。

両脇の灯籠は、瑞心門下の大石段前にある朱の鳥居と同じく山田流筝曲家元・林敏子さんの寄進です。

こちらの狛犬は、安永十年(1781年)に江戸加賀町と芝口の町衆が奉納したものです。

秋葉社・稲荷社

こちらは、秋葉稲荷・与三郎稲荷・漁護稲荷など、江ノ島にあった稲荷社を合祀した祠で、秋葉社・稲荷社との立札があります。

菊和会記念碑

東京の楽器商グループで結成した「菊和会」が明治四十二年(1909年)に奉納したものです。浜千鳥の袋に包んだ琵琶の絵が線描されています。

宋国伝来の碑

下之宮(辺津宮)開創の慈悲上人・良真が宋国・慶仁禅師より賜り持ち帰った石碑です。ある日良真上人が地図を開きながら江ノ島について話をしようとしたところ、何も聞かないうちに慶仁禅師は「已矣(やめなさい)我聞かずして知りぬ、彼日本江の島は観音垂迹の地なり、殊に東方の名刹たり」と告げたそうです。石碑は上下二つに割れ「大日本国江嶋霊迹建寺之記」と刻まれている他は、ほぼ判別が不可能な状態になっていますが、左右及び上部が石板に覆われています。これは元禄十四年(1701年)に島岡検校が寄進した雨よけ板で、左右壁面に双龍の浮彫があります。

沼田頼輔歌碑

紋章学の権威として知られた沼田頼輔の歌碑で、昭和36年(1961年)に建てられたものです。妙音弁財天を讃えた「さなからに 生けるが如く 見まつりぬ 御神なからも 肌ゆたかなり」との歌が刻まれています。

感戴碑(かんたいひ)

感戴碑(かんたいひ)は、江島神社御鎮座千四百年を記念して建立されました。
刻まれた「明神降鑒衆生福智(みょうじんこうりんしゅじょうふくち)」は、戦前・戦後の政官界に重きをなした「フィクサー」安岡正篤(やすおかまさひろ)氏の撰です。

むすびの樹

「むすびの樹」は大きな銀杏の木で、一つの根から二本の幹が伸びています。その姿にあやかり、良縁成就を祈る「恋むすび縁むすび絵馬」 が根元を囲んでいます。 つい数年前までは青々と茂っていたのですが、一昨年の天王祭の時点で既に切断されていました。残念です。

御朱印授与所

こちらが御朱印授与所です。こうして見ますとたくさんありますね・・・。

岩屋道・明神鳥居付近

岩屋道側に出る明神鳥居は以前は朱塗りでしたが、現在は銅板の「杮(こけら)」で覆われる珍しい姿となっております。

神輿庫

天王祭で担ぎ出される八坂神社の神輿が格納されています。

震柳居九江の句碑

こちらは明治・大正期に活躍した俳人・震柳居九江の句碑で「月涼し おもむろに聞く 琴の曲」とあるそうです。大正十三年(1924年)に弟子により建てられました。

嗽水盥

文化六年(1809年)に江戸・汐留の吉野屋が奉納した嗽水盥です。

御岩屋道・道標

「是よ利左が御岩屋道」とあります。

銅板杮(こけら)造の鳥居

この鳥居は、精巧な貝細工で江ノ島の名を世界に知らしめた貝細工商・渡辺伝七氏が寄進したもので、当初は朱塗りでした。現在は保存を兼ねてその表面を銅板の杮(こけら)で覆った珍しい外観となっており、ビジュアル的にも悪くありません。

根巻も銅板で製作されています。

最後までご覧いただきありがとうございました。次回は「中津宮」になります。