海雲山・岩殿寺◆坂東三十三観音霊場(第二番)参拝◆

海雲山・岩殿寺◆坂東三十三観音霊場(第二番)参拝◆

岩殿寺は、大和国長谷寺の徳道上人が、この地に下向した際、十一面観世音菩薩と熊野権現が顕現し、そのお告げにより社を建てたのが始まりとされ、その後、巡錫の折に同じく奇瑞を得た行基菩薩が、奥の院に安置される十一面観世音菩薩像を彫った養老五年(721年)をもって開創とされています。徳道上人は鎌倉・長谷寺の開山としても知られていますが、鎌倉・長谷寺の開創は天平八年(736年)ですので、伝承上、岩殿寺の開創はさらに15年遡るという計算になります。
 その後平安期には、正歴元年(990)にはNHK大河ドラマ「光る君へ」にも登場する花山法皇が来山して百僧供養法要を営み、続いて承安四年(1174年)には後白河法皇が来山し、坂東三十三観音霊場の二番札所に定めたとのことです。
 鎌倉期に入ると源頼朝が毎月欠かさず参詣を重ねるなど、源実朝ら源氏一族の信仰を受け、七堂伽藍を備えるほどの高い寺格を誇っておりました。
 安土桃山期には、寺勢は衰微しご本尊すらも失われておりましたが、関東に移封された徳川家康より三浦半島一帯の天領の管理を任され浦賀に陣屋を構えていた代官頭・長谷川長綱の保護により、天正十九年(1591年)には堂領五石が寄進されて境内が整備されました。この頃、長綱の菩提寺である東逗子・海宝院の末寺となり宗旨を真言宗から曹洞宗に改めて、初代・一機俊宗が中興しました。また同時に山号も海前山から海雲山に改めました。

なお岩殿寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒岩殿寺へ

岩殿寺の魅力

◎徳道・行基・空海と仏教界スターを揃い踏みの奈良時代・養老年間に遡る伝承

◎密教様と禅宗様が融合した逗子市指定文化財の観音堂

◎密教系が多い中ひときわ目立つ坂東三十三観音霊場唯一の曹洞宗寺院

境内図

参道

逗子市久木の住宅街の細い道をたどっていくと「岩殿観音」と刻まれた寺標が現れます。こちらは昭和四十七年(1972年)十七世大道正教の代に建てられたものです。鎌倉期には、このあたりも七堂伽藍が建ち並んでいたようです。

参道の右手には、坂東三十三観音霊場の御詠歌碑が並んでいます。

こちらは坂東三十三観音霊場結願の札所・那古寺の御詠歌「補陀落は よそにはあらじ 那古の寺 岸うつ波を 見るにつけても」です。

山門

こちらの左手は駐車場になっています。

岩殿寺・コスモス

正面の黒い石碑には、岩殿寺の縁起が彫られています。

山門脇の石柱には「青門利生之霊場也」とあります。最初の草書文字「青」の書き出しが「十」字となっていますので、字面からは「青」と読まざるを得ませんが、寺伝の岩殿寺縁起に「大士十一面の尊像を造り永く普門利生の霊場と成し」という一節がありますので、ここは「普」と解釈すべきでしょう。「普門」は、「広く開かれた救済の門」という意味で、「利生」は「生きとし生けるものへの仏の利益(りやく)」という意味です。なお「普門」ではなく「青門」と読めば六祖慧能の弟子で曹洞宗の源流とされる青原行思(せいげんぎょうし)の一門を表しているとも解釈できますが、もともと真言宗のお寺だった訳ですから曹洞宗でしか通用しない「青門」ではなく「普門」であったに違いないと思います。なおこの石柱の頭部の書き出しはまた裏面には「報恩」と彫られており、表裏ワンセットで曹洞宗のテキスト「修証義(しゅしょうぎ)」にある「発願利生」「行持報恩」を表現しています。
 この石柱は、昭和49年(1974年)の降誕会に建てられたもので、総持寺開山・瑩山禅師六百五十遠忌、海雲山十七世大道正教住持・七周年を記念しています。

山門の左脇には、岩殿寺ゆかりの作家・泉鏡花の句碑があり、「普門品(ふもんぼん)ひねもす雨の桜かな」と刻まれています。教科書にも出てくる「婦系図」で知られる鏡花は、明治末期に療養のため逗子に逗留し、岩殿寺を舞台に小説「春昼(しゅんちゅう)」を書きあげました。この句碑は、昭和37年(1962年)に、鏡花夫人・ハルノにより建てられたもので、協力者の中には里見弴・久保田万太郎・鏑木清方の名もあります。

こちらの山門は、つい最近建て替えられたもので、「海雲山」の額字は昭和戊申(つちのえさる・43年)十七世大道正教住持の筆です。

岩殿寺・山門

門扉には寺紋の笹竜胆があしらわれてます。

なお以前の山門は、こんな感じで、デザインは大筋変わっていません。山号額は同じ額字を使って新しく彫りなおされたようですね。門扉の笹竜胆も同じデザインで作り直されています。

正面が観音堂に続く石畳と石段です。

山門を反対側から見るとこんな感じ。

山門を入ってすぐ右前の石標です。以前は後ろに見える石段は、鎌倉石で作られており、この石標もその左手前にありました。

本堂前庭

山門を入って左手から、ご本堂前の庭園に入ります。こちらは四国八十八か所巡拝円成を記念して昭和54年(1979年)に建てられたものです。

隣の石碑は、百観音巡拝円成記念碑で、昭和51年(1976年)に建てられたものです。

こちらは「三界万霊供養碑」です。私も供養して頂きありがとうございます。

正面が納経所で、雨にぬれずに庫裏の奥の本堂をお参りできます。納経所奥から左手が庫裏となっています。

前庭は、こんな感じ。馬酔木・木瓜・沈丁花・蓮など撮影してみました。

岩殿寺・馬酔木
岩殿寺・木瓜
岩殿寺・沈丁花
岩殿寺・蓮

こちらは、こぶりな手水鉢。

石灯籠も何基か立ってます。

こちらは慈母観音と慈父観音です。

岩殿寺・慈母観音/慈父観音

ご本堂

岩殿寺の寺号額が掲げられているのは納経所ですがその奥の庫裏のさらに向こう側の本堂にお参りできます。

納経所の後ろの低い屋根は庫裏の屋根で、さらに奥の高い屋根がご本堂です。

寺号額も十七世大道正教住持の筆です。

こちらの大香炉は、昭和49年(1974年)に寄進されたものです。

納経所の中は、こんな感じ。引き戸の上には、御詠歌「たちよって天のいわとをおしひらきほとけをたのむ身こそたのしき」が掲げられています。ご朱印は左手の窓口で頂戴できます。

木造釈迦如来坐像

こちらの木造釈迦如来坐像は、文化十二年(1815年)加納伊織が造立したものです。おそらく本堂に安置されているものと思われます。

無心亭

本堂脇にある休息所の「無心亭」です。木瓜の花が生けられていましたが、おそらく前庭の木より手折られた枝でしょう。

利生堂

こちらは納経堂の「利生堂」で、法隆寺夢殿のように八角形をしています。中には幸福観音像が祀られています。毎年5月18日に行われる納経の法要の後に、ここに写経が収められます。

「利生堂」の裏側には、納骨堂の「安處堂」があります。

三昧堂

こちらは、坐禅堂の「三昧堂」です。毎週土曜日にはどなたでも参加できる座禅会が催されています。

観音堂への参道石段

観音堂に続く石段です。上に見える昭和六年(1931年)の石標には「観世音」とあります。

石段左わきの「子育地蔵尊」で、享保元年(1716年)に彫られたものです。背中には赤子を背負っておられ、安産・子育に効験があります。

岩殿寺・子育地蔵尊

石段の途中で振り返りますと、住宅街の向こうに逗子湾が望まれます。逗子湾の奥の陸地は葉山です。

鐘楼

本堂から鐘楼に続く回廊が左手に見えます。

梵鐘には、御詠歌が刻まれています。

太子堂

奥に見える建物は聖徳太子をお祀りしている「太子堂」です。

聖徳太子立像

彩色玉眼寄木造の聖徳太子立像で、江戸期の作と思われます。もとは太子堂にありましたが、現在は本堂に安置されています。

爪掘地蔵尊(つめほりじぞうそん)

弘法大師が爪で彫ったと伝えられている「爪掘地蔵尊」で、爪の病に効験があります。二体のお地蔵様が祀られていますが、どちらがそうなのかは存じ上げません。

すぐ横の石碑には、岩殿寺の縁起が刻まれています。

向って左側には「報恩供養塔」があります。表面には、岩殿寺に寄与した四人の

この石碑に向って左横の石段を上りますと、観音堂です。

観音堂

観音堂の手前の手水鉢です。

こちらが享保十三年(1728年)に再建された観音堂です。桁行三間・梁間五間の銅板葺寄棟造の建物で、当初は茅葺でした。内部は内陣・外陣・後陣に割られた密教三間堂様式ですが、組物と向背の装飾に江戸初期の様式が取り入れられています。造営は「鎌倉大工・蔵並杢之助藤原正吉」と「工匠・清右衛門」によるものです。もともとはこちらにご本尊の十一面観音立像が安置されていましたが、現在はご本堂にいらっしゃいます。

岩殿寺・観音堂

十一面観音立像

 行基作・六尺二寸の御本尊・十一面観音は、江戸初期には既に焼亡しており、現在の一尺八寸の御本尊・十一面観音は、鎌倉・英勝寺の太田氏禅尼の葬儀に際して製作された六体の十一面観音像の一体が水戸徳川家より寄付されたもので、ご本堂に安置されています。12年に一度、午年にご開帳されます。

奥の院

観音堂の背後にあり、石の観音像が祀られています。もともとはこちらにご本尊の十一面観音像が祀られていたそうです。

歴代住職墓

鏡花の池

こちらは泉鏡花が寄進した池です。

熊野権現堂

境内総鎮守の「熊野権現堂」です。岩殿寺は、徳道上人がこの地で熊野権現の来迎を得たことをもってその始まりとしています。以前の棟札には明応年中(1492~1501年)に境内に移し再興した旨の記載があったそうです。現存の棟札によれば明暦二年(1656年)に建立されたものだそうです。

こちらの社号額は、昭和61年(1986年)、岩殿寺18世・洞外正教の筆です。

弁財天

弁天様は「鏡花の池」から「蛇や蔵」に向かう間に祀られており、祠の石の表面には「開運山辯戝天」と」刻まれています。

蛇や蔵(じゃやぐら)

古来より大蛇が住むと云われている「蛇や蔵」には、遠く江ノ島まで通じているという伝承があります。中を覗いてみますと、深い井戸がありました。風水で水の流れの元となる青龍の尾根にあります。

西国三十三観音霊場札所御詠歌碑

こちらの西国三十三観音霊場御詠歌碑は昭和55年(1980年)・十八世・洞外正教の代に奉納されたもので、参道入口の坂東三十四観音霊場御詠歌碑、「正教観音吉祥塔」 の近くにある秩父三十四観音霊場御詠歌碑と併せて百観音霊場御詠歌碑を構成しています。

たまたま一枚撮影した歌碑が丹後・成相寺の歌碑でした。成相寺は、以前病気平癒のご祈祷をお願いしたお寺で、今もお札が神棚にあります。これも観音様のお導きでしょうか。

猿田彦明神

もともとは参道の途中に祀られていましたが、いつからか稲荷神社と同じ祠に祀られるようになりました。

稲荷明神

旧参道

ご本堂に向って左側の石段を上がっていくと坂東三十三観音霊場一番札所の杉本寺からの往古の巡礼道に出ますが、今は通行止めになっています。この道は、源頼朝も毎月十八日の観音様の縁日に岩殿寺に通った道です。

こちらが、階段を上り切った右側に立っている石標で「従是杉本道」「正徳二年(1711年)三月」との文字が読み取れます。

この道を右に行くと「正教観音吉祥塔」があり、その先は鎌倉逗子ハイランドに向いますが、現在行き止まりです。秩父三十四観音霊場御詠歌碑が「正教観音吉祥塔」 の手前に並んでいます。

正教観音吉祥塔・「春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩」にリンク

逆に左に行くと「世界平和之碑・聖徳太子立像」がありますが、こちらも通行できません。その昔は大きく回り込んで、観音堂の西側付近に繋がっていたそうです。

聖徳太子像・「坂東三十三観音霊場巡りの旅」にリンク

岩殿寺の風水配置

お寺の方から伺ったのですが、岩殿寺の風水配置は、理想的な風水配置になるそうです。下図に当てはめてみますと「明堂」=「観音堂」、「龍穴」=「奥の院」、「龍口水」=「蛇や蔵」、「青龍砂(水流を司る)」=「東の尾根(
蛇や蔵・鏡花池の源流)」、「白虎砂(人流を司る)」=「西の尾根(参道)」、「主山」=「浅間山」といったようになり、風水に通じた人物によってこの地が選ばれたのは間違いなさそうです。

理想的な風水配置と用語・「長野のよろず占い処ジプシーおやじの開運ブログ」にリンク

四万六千日参り

毎年8月10日は、四万六千日の観音様の縁日にあたり、この日にお参りすると四万六千日お参りしたのと同様の功徳が得られます。鎌倉・逗子近辺では、岩殿寺の他、同じく坂東三十三観音霊場札所の杉本寺・安養院・長谷寺でも法要が営まれます。この日、岩殿寺の山門や納経所には源氏の家紋・笹竜胆の幔幕が張られます。

大塔婆から結縁綱がご本尊まで繋がれています。

最後までご覧いただきありがとうございました。これからも少しづつ坂東三十三観音霊場の札所のご紹介を続けて参ります。