奥日光・中禅寺(立木観音)◆坂東三十三観音霊場(第十八番)参拝◆

奥日光・中禅寺(立木観音)◆坂東三十三観音霊場(第十八番)参拝◆

坂東三十三観音霊場・第十八番札所の中禅寺(立木観音)は、栃木県日光市街から「いろは坂」を登り切リ「華厳の滝」を過ぎた先の中禅寺湖畔に建ちます。延暦三年(784年)に、日光山を開闢した勝道上人が、中禅寺湖北岸にある日光二荒山神社中宮祠境内の男体山・登拝口のあたりに神宮寺を建てたのが始まりで、長らくその場所にありましたが、明治35年(1902年)9月の山津波で流されたため、現在の中禅寺湖東側の歌ヶ浜に移築されました。

なお中禅寺(立木観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒中禅寺(立木観音)へ

※写真をクリックすると拡大します。

中禅寺の魅力

◎坂東三十三観音霊場でも屈指のスケールを誇る五大堂からの日光連山と中禅寺湖の大パノラマ

◎開山以来1250年を超える大霊場・日光山開闢の伝説を背負った長い長い歴史

◎明治の大災厄にも耐え勝道上人の気概とパワーを今に伝える立木観音様

境内図

外観

その昔「猿麻呂」が神戦の勝利を祝い、「勝道上人」が天女の歌舞を観た「歌ヶ浜」沿いに長く広がる駐車場に車を止めて、中禅寺の方向を撮影した写真です。手前の大きな屋根がご本堂の「観音堂」で、一段高いところに屋根が見えるのが「五大尊像」を安置している「五大堂」です。

少し手前には「愛染堂」の裏側が見えます。昭和初期のヒット映画「愛染かつら」のロケ地になったところだそうです。主演は田中絹代・上原謙と、私の世代でも知らない振りをしたくなる(リメイクもされていますので実は知っているのが怖い)ほど昔の映画ですので、リアルタイムでこの映画を楽しんだ方というと、もう100歳以上になる計算です。中禅寺湖では、時間もゆったりと流れています。

唐風の透塀を横目に歩いていくと「鐘楼」と「仁王門」が見えます。

受付で拝観料をお支払いし境内に入ります。どうやら私が、この日最初の参拝者のようでした。

仁王門から納経所へ

真っ赤な「仁王門」と、その脇にあった社銘碑です。

阿形・吽形の仁王様です。

裏側には「風神」「雷神」と日光らしいフル装備の仁王門です。

「鐘楼」は唐風の造りで、参拝者も中に入れるようになっています。

視線を前に向けますと、手前に「納経所」と「身代り瘤」がある杉の大木、突当りに波之利(はしり)大黒天堂が一直線に見えます。

境内には、いろいろな石仏や宝塔などが置かれています。
奥に不動明王がいらっしゃる「石護摩壇」は、修験者が「入峰禅頂(にゅうぶぜんじょう)」に際して「採灯護摩(さいとうごま)」を修した場所で、毎年8月4日の「船禅頂」のスタート地点でもあります。

◆船禅頂(ふなぜんじょう)◆
別名、浜禅頂(はまぜんじょう)ともいい、中禅寺湖岸にある以下の霊場を船で廻ります。
・「薬師堂跡」・・・中禅寺湖南岸の半島「八丁出島(はっちょうでじま)」にあります。
・「日輪寺跡」・・・中禅寺湖南岸の「松ヶ崎(まつがさき)」
にあります。勝道上人が、中禅寺の精舎で修行中、峰上に大日輪ある夢を見て、中央に不動明王・前に軍荼利(ぐんだり)・左に降三世(ごうざんぜ)・右に大威徳・後に金剛夜叉の五大尊像を配した堂を建てたとの伝説が残っています。
・「勝道上人墓所」・・・中禅寺湖南岸の「上野島(こうづけじま)」にあります。勝道上人の墓所としては、日光・滝尾道の入口にある「開山堂」奥の石塔が有名ですが、両方に分骨されているのかも知れません。
・「千手観音堂」・・・中禅寺湖西岸の「千手ヶ浜(せんじゅがはま)」に2017年に再建されたばかりの綺麗なお堂です。
日光開山・勝道上人が舟を浮かべて、中禅寺湖畔の霊場を弟子達と共に祈念して廻った故事により1250年後の今日まで続いている伝統の行事です。最近は「船禅頂」特別御朱印も頂けるそうです。

キリークの梵字を刻んだおそらく阿弥陀如来の種子宝塔です。ただ、中尊寺はご本尊が千手観音(種子が同じくキリーク)ですので、もしかすると千手観音かもしれません(両側面と裏側の梵字の写真がないため判断しきれません)。

お地蔵様が立っておられます。

杉の大木の「身代り瘤」です。体の悪いところに触れてから瘤に触れますと、身代わりになってくださいます。

手水舎があります。手水鉢が八角形という珍しい形をしてます。

ご本堂・五大堂

ご本堂の観音堂です。中禅寺湖北岸にあった時代を含め、中禅寺の核となるお堂です。内部はお寺の方が案内してくれます。

御本尊「十一面千手観世音菩薩」(国重要文化財)です。先ほどご紹介した「船禅頂」の故事に際して勝道上人が感得した千手観音の御姿を、湖の北岸に生えた桂の大木に生木のまま刻んだものとされています(その像を内に包んで「観音堂」が建てられました)。明治35年の山津波により湖に流されましたが、奇跡的に大きな損傷もなく湖に浮いているのが発見され、現在の観音堂内に改めて根の部分を埋めた状態で安置されています。
なお周りに配置された四天王は、源頼義が、奥州遠征に際して奉納したものと云われています。

輪王寺サイトにリンク

観音堂の拝観が終わると、廊下と階段を通って五大堂に進みます。途中、掛け仏の阿弥陀三尊もいらっしゃいました。

五大堂は、昭和44年(1969年)に、勝道上人開山1200年記念事業の一環として建立されました。先にご紹介した「船禅頂」の故事の中で、勝道上人が、「松ヶ崎(まつがさき)」に中央に不動明王・前に軍荼利(ぐんだり)・左に降三世(ごうざんぜ)・右に大威徳・後に金剛夜叉の五大尊像を配したお堂(日輪寺)を建てた下りがありましたが、何時の頃か既に廃されておりました。それが約50年前に中尊寺の境内に蘇った訳です。
外観は、きちっと撮れた写真がなくて恐縮ですが、遠くから見ると、高いところに見えるのが五大堂です。

五大堂の横に張り出したテラスから五大堂をみるとこんな感じ。

五大堂のある山腹を横から眺めるとこんな感じ。

五大堂の内部は残念ながら撮影禁止なので、ご紹介できませんが、中央に不動明王を据え、左右に四明王を並べた立派な御本尊でした。この五体の明王像は、もともと東照宮境内の護摩堂に安置されていたもので、安土桃山時代の作とのことです。
また天井の龍は、昭和の日本画界の巨匠・堅山南風画伯が描いた「瑞祥龍」です。画伯は、有名な輪王寺・薬師堂(本地堂)の「鳴龍」も再建の際に手掛けていらっしゃいます。さらに格天井の「日光花づくし」は堅山画伯と関係の深い院展の入選者24名の手によるものだそうです。

五大堂からの中禅寺湖の眺めはとにかく素晴らしく、ここ歌ヶ浜の地に再建したのは大正解ですね。

波之利大黒天堂・愛染堂

ご本堂(観音堂)の正面にあるのが、「愛染堂」で、俗世のあらゆる望みをかなえてくれると云う愛染明王様が祀られています。

「愛染堂」の手前の木が、昔の映画の名前にもなった「愛染かつら」です。現在の木は、二代目だそうです。

輪王寺サイトにリンク

ご本堂(観音堂)に向かって右側が「波之利大黒天堂(はしりだいこくてんどう)」です。勝道上人が男体山登頂を祈願した際、中禅寺湖の波の上に現れて、勝道上人を登頂成功に導いた大黒天が祀られています。

◆足尾の地名の由来◆
毎年日光中宮祠に、穂をくわえた白ネズミ(大黒天のお遣い)が現れるのを見た勝道上人がこのネズミの足に紐(緒)を結わえて放ったところ、とある村に繋がりました。以来その村を「足緒」と呼ぶようになりましたが、これが現在の足尾の地名の由来です。この御縁で、足尾の大黒橋のたもとにも波之利大黒天が祀られております。

最後までご覧いただきありがとうございました。最近投稿しておりました一連の「紅葉の日光遠征記」にある日光寺社参拝のそもそもの目的は、坂東三十三観音霊場巡礼の一環として十八番札所の中禅寺にお参りすることでした。やっと「中禅寺」を投稿できてホッとしているところですが、これまで参拝してきた坂東三十三観音霊場についても、今後ぼちぼち投稿して参ります。

こちらのページもご参考にどうぞ
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