鎌倉・来迎寺(材木座)◆境内散歩◆

鎌倉・来迎寺(材木座)◆境内散歩◆

隋我山来迎寺は、材木座の住宅地に入り込んだ少しわかりにくい場所にあります。まず大町四つ角から小町大路を南に200mほど進んだ右手にある向福寺をやり過し、直ぐ左の五所神社参道に入り、さらに突当りを五所神社の鳥居を見ながら左折して50mほど行くと来迎寺の寺銘碑が見えます。現在の来迎寺は、時宗・総本山遊行寺の末寺ですが、源頼朝が、平家打倒の挙兵を助けた三浦義明の霊を弔うため、建久五年(1194年)に建立した真言宗能蔵寺が前身となります。なお鎌倉には西御門に満光山来迎寺があり、こちらも同じく遊行寺の末寺となっており混乱しがちですので、タクシーで移動する際には注意しましょう。

なお来迎寺(材木座)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒来迎寺(材木座)へ

※写真をクリックすると拡大します。

来迎寺(材木座)の魅力

◎宗派が変わろうとも火災に遭おうとも八百年以上守り続けられてきた三浦義明公とその眷属のお墓

◎東京国立博物館にも展示されたことのある鎌倉市指定文化財の御本尊「阿弥陀如来三尊像」

境内の様子

入口には寺銘碑と三浦義明公墓所を示す石碑が立っており、裏側が駐車場になっています。

参道の正面にご本堂が見えます。

ご本堂の軒下の組物には朱塗りが施されています。

お寺の御本尊は、三浦義明公の守護仏とされる伝・運慶作の阿弥陀如来三尊像です。現在、鎌倉市文化財に指定されています。

「鎌倉の文化財」より

ご本堂には、鎌倉三十三観音霊場第十四番札所本尊の「子育観音」像も安置されています。もともとは裏山の頂上の観音堂に安置されていましたが、大東亜戦争前に、爆撃の標的となる恐れがあったことから観音堂は取り壊されてしまいました。

ご本堂に向かって右側には、衣笠合戦で畠山重忠に攻められ自刃した三浦大介義明の五輪塔と、由比ヶ浜合戦において戦死した義明の孫の多々良三郎重春の五輪塔が並んで立っています。


◆三浦大介百六ツ
三浦氏はもともと平氏の系統ですが、平氏の横暴に批判的であった老将・三浦義明は、石橋山の敗戦以降も一貫して源頼朝を支援し、この時点では敵方だった畠山重忠を一度は由比ヶ浜合戦で破りながらも、衣笠合戦では寡兵のため自刃に追い込まれました。源頼朝は、この恩義に報いるため来迎寺の前身となる能蔵寺を建立し、義明の菩提を弔いました。また、義明の十七回忌法要が衣笠の満昌寺で執り行われましたが、義明が自刃後も頼朝を見守って共にあったという意味を込め、後に、義明が自刃した89歳に17回忌の年数を加えて「三浦大介百六ツ 鶴は千年 亀は万年」と俗謡に唄われるようになりました。

ご本堂の裏手に回りますと、大きな百日紅の木があります。少しシーズンを過ぎた写真で恐縮ですが、こんな感じ。

また、義明に殉じた多くの一族郎党の五輪塔があり、中央には「和田」と書かれた宝塔が置かれています。和田氏は、三浦氏の一族で鎌倉幕府の有力御家人となりました。

境内には、フヨウ、タマスダレ、ハギの花も咲いていました。


また、鎌倉らしく、ソテツの木も葉を広げていました。

こちらは、慈母観音像です。

石仏も一か所に集めて供養されていました。

こちらは、立派な動物の供養塔です。最近増えてきています。

「山田耕雲軒御夫妻顕彰記念碑」との石碑が建っていました。山田耕雲軒は、禅宗系の宗教団体「三宝教団」の管長を務めた方で、鎌倉を地盤に禅宗の国際化に尽力されました。「三宝教団」は曹洞宗の流れを汲んでいますが、臨済宗のように公案を用いるのが特徴的です。曹洞宗にも臨済宗にも受入れられないお立場であったにしろ、なぜ時宗の来迎寺にこうした石碑があるのか?興味は尽きません。

お寺の入口に向かって右手前に「来迎寺会館」と看板のかかったしっかりした建物がありました。おそらく檀信徒用の集会所と思われます。

来迎寺にお参りしがてら、源頼朝の嫡流が絶え、鎌倉幕府が滅んだ後も、長く歴史に名を残す三浦大介義明という人物のスケールを思い描いてみては如何でしょうか?

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