獨鈷山・西明寺(益子観音)◆坂東三十三観音霊場(第二十番)参拝◆

獨鈷山・西明寺(益子観音)◆坂東三十三観音霊場(第二十番)参拝◆

坂東三十三観音霊場・第二十番札所の獨鈷山(どっこさん)普門院(ふもんいん)西明寺(さいみょうじ)は、別称「益子観音」の名の通り、益子焼で有名な栃木県益子町にある真言宗豊山派のお寺です。寺伝によれば開山・行基菩薩、開基・ 紀有麻呂とされていますが、天平時代に紀貫之で有名な豪族・紀氏の一族が移り住み益子町中心部の西に位置する「権現平」に紀貫之を祀る祠を建てたのが始まりで、康平年間(1058~65年)には紀正隆が高舘山に居城を築き益子氏となり西明寺を手厚く保護しました。西明寺は 旧下野国(おおよそ現在の栃木県)に属しますが、栃木県下の他の坂東三十三観音霊場札所・三寺(中禅寺・大谷寺・満願寺)と比べると、西明寺はかなり茨城県よりにあるため、近辺の正福寺(二十三番札所)や楽法寺(二十四番札所)と一緒にお参りするのが効率的です。コンパクトな境内に、楼門・三重塔及び本堂内に置かれた本堂厨子など国の重要文化財が凝縮され、巡礼者にも分かりやすい伽藍配置となっており、西明寺境内全体が栃木県より史跡指定されています。また、御朱印マニアの中で評価の高い「笑い閻魔」の御朱印も魅力的です。

なお西明寺(益子観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒西明寺(益子観音)へ

◆行基による西明寺開山縁起
開山行基菩薩が、聖武天皇の生母・藤原宮子が熊野権現より授かった十一面観音の絵を、自ら彫り上げた十一面観音像の胎内に納め豊前のとあるお寺に安置したところ、熊野権現より御神託を得て東国を巡錫することとなった。下野に入り芳賀郡に至ったところ、益子の山にたくさんの烏が集まっているのが見えたので登ってみると、何と豊前国に安置したはずの十一面観音像が目の前で光明を放っていた。そこで天平九年(737年)に益子の山に「芳賀山益子寺」と号する法相宗の寺院を建立したのが西明寺の始まりとされる。


◆独鈷山の謂れ
沙門亮盛の『坂東観音霊場記』によると、来錫した弘法大師の人気を妬んだ法相宗の僧により岩窟に押し込められた大師が独鈷を使ってその難を逃れたことから、以来「獨鈷山」と称するようになった。

西明寺の魅力

◎豪快に笑う閻魔様に御朱印マニアも大喜びの「笑い閻魔」座像

◎開山・行基菩薩もきっとお喜び!「普門院診療所」など社会福祉事業を通じた医療・介護現場での「仏」の実践

◎度重なる戦火の焼け跡に建ち、長年の風雪に堪えて今に残る「楼門」「三重塔」「本堂厨子」の国重文建造物オンパレード

境内図

益子町中心部から西明寺へ

西明寺にお参りしたのは、雨の降る初秋の朝でした。今のようなコロナ騒動が起こるとは夢にも思わず、コスモスや彼岸花が咲く道を車で西明寺に向かいます。

こちらが登り口に立つ坂東三十三観音霊場第二十番札所の石柱です。

駐車場近辺

駐車場の真ん中にある立派な楠の木です。益子町の天然記念物の標柱が立っています。

こちらは、お食事の他、御朱印をいただける納経所がある「独鈷處」です。

「独鈷處」 の向側が庫裏じなっています。

こちらは、手水鉢と水子地蔵尊。

こちらは、下野七福神の布袋様。

石段付近

駐車場から楼門に続く石段の両脇の椎の林は、栃木県の天然記念物に指定されています。

少し進んだ石段の先には、雨に霞む楼門が見えてきます。

楼門(国重要文化財)

間口三間の茅葺入母屋造の楼門は、室町期・明応元年(1492年)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。反りの深い屋根の垂木が長く伸びて優美なシルエットを見せています。前室の金剛柵の中には阿形・吽形の金剛力士像が安置されており、中央の扁額には 「 𤢜 (独の異体字。偏は「 蜀 」で旁は「犬」。)鈷山」とあります。

裏手から見るとこんな感じ。

御本堂前から見た楼門です。

三重塔(国重要文化財)

こちらは国の重要文化財に指定されている三重塔で、一層目が和様、三層目が唐様、間に挟まれた二層目が折衷様式という造りになっています。天文十二年(1543年)に高館城主益子家宗によって建立されたもので、案内板によると「関東甲信越四大古塔」の1つとされています。珍しい銅板錣葺(しころぶき)の屋根は、各層で微妙に角度の異なる深い反りが優美で、茅葺にはないくっきりとした線形の美しさが際立ちます。なお、滋賀県・甲良にも同名の西明寺というお寺があり国宝の三重塔で有名ですが、そちらは檜皮葺となっています。

鐘楼堂(栃木県有形文化財)

一層目は腰板だけで壁を設けず二層目は勾欄のみの二間四方茅葺の鐘楼堂は、享保七年(1722年)に建立されたもので、栃木県の有形文化財に指定されています。一層目は四角い柱ですが、二層目は円柱となっています。組物は三手先ですが日光あたりの著名な寺社と比べるとずっと簡素で、楼門や三重塔のような優美な曲線を持つ建物とも違った印象を持ちます。

閻魔堂(益子町有形文化財)

こちらは、益子町有形文化財の閻魔堂です。正徳四年(1714年)に建立された 間口三間の寄棟茅葺の見慣れた形の御堂ですが、豪華に笑っていらっしゃるご本尊の閻魔様がとても印象的です。

こちらは閻魔堂に掲げられた奉納額です。この国の人々は、江戸期以降、 従順で穏やかな空気を身に纏うよう飼いならされてしまいましたが、戦国期までは、いつの時代であっても地方勢力間での大小取り混ぜた血生臭い争いが絶えることはなく、勇猛果敢をもって良しとする尚武の気質をその血脈の奥深くに受け継いできました。こうした武道系の奉納額は多くの寺社で見ることができますが、第二次大戦に敗れて以降、欧米の実質的な植民地に堕し、すっかり牙を抜かれてしまった今の日本人には眩しい存在です。

こちらが閻魔堂の内部です。中央が閻魔大王、向かって右が善童子、左が悪童子、右奥が地蔵尊、左奥が奪衣婆です。これらの彫像のうち栃木県の有形文化財に指定されている三体「木造閻魔王坐像・両脇侍像」は、寛永十年(1633年)の作です。

閻魔大王
善童子(手前)と地蔵菩薩(右奥)
悪童子
奪衣婆

閻魔堂のすぐそばで秋を迎えた百日紅の名残の赤が雨に濡れてつややかに輝いていました。

弘法大師堂(益子町有形文化財)

閻魔堂と同じく茅葺の寄棟造で益子町有形文化財に指定されています。中に収められている石造の大師像は30体ほどあり、四国八十八カ所霊場をイメージして最終的には計88体としたいとのことです。


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御本堂(栃木県有形文化財)

栃木県の有形文化財に指定されている御本堂は、応永元年(1394年)に建立された寄棟造銅板葺の建物で、益子勝直によって開扉供養が行われたと伝わっています。その後、元禄十四年(1701年)に平野赤市の発願により改修され、現在の形になりました。

こちらの扁額は異体字で「寺朙㢴」と書かれており、右から「西」「明」「寺」となります。この異体字は、宋代に作られた韻書(漢字を中国語の韻によって分類した書物)の一つ「集韻」に収録されている字体です。

御本堂の石段の前にある金属ポールで囲まれた2枚の石板は、祭礼の際の護摩壇の礎石でしょうか?

御本堂に向かって右脇の木像二体です。向かって左が奪衣婆、右が賓頭盧様でしょうか?

こちらは、万霊供養塔です。

本堂内厨子(国重要文化財)

御本堂の建立にあわせて、同じ応永元年(1394年)に建立された黒漆塗りの唐様厨子です。幅は一間とボリュームがあって板葺の屋根まで付いており独立した建物と言ってよいほど立派な厨子です。三重塔と同じく軒廻りの垂木を始めとしたカーブはとてもきれいで、柱上部の金襴卷や唐戸の菱形にも特徴があります。 国の重要文化財に指定されています。


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こちらは、本堂内厨子に納められていた仏像八体です。いずれも栃木県の有形文化財に指定されています。八体の内訳は、聖観音菩薩立像(中央上左手)、馬頭観音菩薩立像(中央下左手) 、勢至菩薩立像(中央上右手) 、准胝観音菩薩立像(左上)、如意輪観音菩薩坐像(右下)、延命観音菩薩立像(中央下右手)、毘沙門天立像(右上・上半身欠損)、十一面観音菩薩立像(左下)で、何れも檜材の寄木造・彫眼で、室町時代に造られた如意輪観音菩薩坐像を除いた残り七体は鎌倉時代の造立です。


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高野槇(栃木県天然記念物)

高さ30m、直径1m、推定樹齢800年で、北関東では最大級の高野槇です。承元三年(1209年)に、本堂再建の記念として宇都宮景房が植樹したものです。栃木県天然記念物に指定されています。

法幸の椿

この場所にはかつて北条時頼・手植えとされていた樹齢700年の「法幸の椿」がありましたが、現在は「天然記念物」と彫られた石碑が残されています。ただ隣には「法幸の椿」の枝を挿木した椿が奇跡的に生き残って元気に育っています。

普門院診療所

西明寺と併せて「普門院診療所」他の社会福祉施設を創設された前の御住職は、もともと国立がんセンターの内科医でいらっしゃったそうで、仏門に入ることなく医療の道に進むことを勧められたのは先々代住職をお務めになった御父上だったそうです。この世を満たす四苦八苦に苛まれる衆生を救うことそれ自体が仏道の目的ではないにしろ、仏の道を歩む者であれば、こうした目前の惨状を捨て置いては居るに居られぬ思いが自ずから湧いて参ります。俗世にあっては、自らのそうした思いに正直に反応して、現身を業苦の渦中に投じながら愛行を尽くすのも仏道でしょう。お寺の子として生まれた因果の流れそのままに自然とそうした立ち位置に至られたのだとすれば何と素晴らしいことでしょうか。なお、この方は2017年にすい臓がんで亡くなられて、今の御住職は、この方の奥様(医師でもあります)がお務めです。

最後までご覧いただきありがとうございました。私のホームグラウンドは湘南鎌倉地区ですが、時折足を延ばした地域の寺社のご紹介にも力を入れて参りたいと存じます。