海上山・千葉寺◆坂東三十三観音霊場(第二十九番)参拝◆

海上山・千葉寺◆坂東三十三観音霊場(第二十九番)参拝◆

 真言宗豊山派に属する海上山(かいじょうざん)千葉寺(せんようじ)の創建は和銅二年(709年)と極めて古く、千葉市内では最古の寺院です。巡錫の折にこの地に立ち寄った行基が、一本の茎に二つの花を咲かせ、その花の中で阿弥陀如来と観音大士が説法している蓮を見て、丈六の十一面観音像を刻み堂宇を建て安置したのがその始まりとされます。行基はさらに聖武天皇に奏聞して「海照山」の山号と「三界六道」の勅額を得て本堂諸坊を整え十一面観音像の「胎内」に、中国・唐の西明寺宗鑑大師作の観音像を収めました(地元の民話では蓮の花弁に現れた観音像を十一面観音の「眉間」に収めたことになっています)。
 なお、千葉寺が山号を「 海照山」から「 海上山」に改めたのは、永禄年間(1558~70年)に千葉氏19代の胤富が海上郷を千葉寺に寄進したことによります。
 坂東三十三観音霊場・第二十九番札所に定められたのは、平安期・花山天皇(九八四~八六)の時代です。
 鎌倉期から戦国期にかけては、源頼朝挙兵時の大功により上総・下総で大きな勢力を持った千葉氏の祈願寺として栄え、江戸期には徳川家康・秀忠といった徳川将軍家の庇護の下、百石の御朱印領を持ち、最盛期18坊・3末寺を数えるほどの隆盛を誇りました。千葉氏の菩提寺として知られる大日寺も千葉寺の末寺です。
 1300年という長い歴史の中では、記録に残るだけでも計6回におよぶ大火に見舞われ、昭和20年7月の空襲では善光寺本堂に準じる規模の間口12間を誇った観音堂も焼け落ちるという大変な被害を受けましたが、昭和51年(1976年)には火災に強い鉄筋コンクリートの本堂を落成するなど、その都度力強く蘇って参りました。

なお千葉寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒千葉寺へ

千葉寺の魅力

◎坂東三十三観音霊場最大級高さ30m・樹齢1300年の大銀杏

◎過去の大火に学んだ堅牢な鉄筋コンクリートの大本堂

◎多くの伝承に彩られた奈良期以来の盛衰の歴史

◆千葉笑
千葉寺では、江戸期から明治にかけて行われていた行事で、大みそかの夜に人々が面や頬かむりをして集まり、権力者から一般人に至るまでの好ましくない言動・行動を罵りあげつらい、笑いながら年を越すというものです。 「千葉笑」は江戸期には広く知られた奇習のようで、小林一茶も「千葉寺や隅のこどももむり笑ひ」という一句を残しています。 長らく消えていたそうですが、平成22年から復活したとのことです。

◆桜の木を薪にしない話
創建当初、千葉寺は「しめじが原」というところにあり、海照山勧喜院千葉寺と称して寺院数十カ寺、脇堂一八軒、本堂は一八間四方という大伽藍を誇っていました。永暦元年(1160年)の大火の折に「三界六道」の勅額は焼けてしまいましたが、ご本尊の十一面観音が、現在の境内にあった桜の大木に飛び移ったため、現在地に移転してきたそうです。それ以来、ご開帳の時分には、春でもないのに桜が花をつけたことから、檀家の皆さんは桜の木を薪としなくなったとのことです。なお千葉寺の創建の地とされる千葉寺字清水原(観音塚遺跡)には「三界六道観世音舊跡」という石碑があります。

境内図

千葉寺・境内図

仁王門

仁王門は、天保十二年(1841年)に建立されたもので、赤一色に塗られた阿形・吽形の仁王像が安置されています。

仁王像・阿形
仁王像・吽形

背面から見た仁王門です。

鐘楼堂

鐘楼堂は、仁王門と同じく天保十二年(1841年)に建立されたものです。

先代の鐘の銘には元禄十三年(1700年)とあり火災の跡が残されていたそうですが第二次大戦中に供出され、現在の鐘は戦後のものだそうです。

◆「戻り鐘」の謂れ
江戸時代、千葉寺には弘長二年(1262年)十二月二十二日銘の鐘があったそうです。この鐘を鋳造する時は、材料の銅がなかなか溶けず、その時の住職が命を質に祈念したところやっと溶けたということです。さらに江戸期になって改鋳されることとなり、江戸の鋳物師のもとに出されたところ「ちばでら~。ちばでら~。」と悲しげに鳴り始めたため、恐ろしく思った鋳物師に改鋳されることなく千葉寺に戻されたことから「戻り鐘」と呼ばれるようになりました。この鐘はその後、鐘楼に釣られることなく本堂に置かれていましたが、文化三年(1806年)の大火で失われたものと思われます。

手水舎

大銀杏横にある手水舎です。

大銀杏

こちらは、県天然記念物に指定されている大銀杏で、和銅二年(709年)に開山の行基が、植えたものとされています。高さは30mほどで、かつての鶴岡八幡宮の大銀杏を上回る巨木です。

本堂(観音堂)

現在の本堂は、旧本堂(十二間四面・文化十一年(1828年)建立)が昭和20年7月の空襲で焼失した後、昭和51年(1976年)に建立された鉄筋コンクリート製・九間四面の丈夫な建物です。ご本尊の十一面観音像は、文化六年(1808年)に造立されたもので秘仏とされています。創建時のご本尊十一面観音像は開山・行基が彫ったものとされ、脇侍として不動明王と多聞天を従えていたそうです。

正面左右の扉の紋は、千葉氏の表紋「月星」と裏紋「九曜星」です。

海上山の扁額が掲げられています。

大師堂

千葉寺十善講八十八ヶ所は、千葉寺28世・高照が開いた所謂「地四国」の一つで千葉県北西部に分布し、千葉寺は八十八番札所・結願の寺をお務めです。その札所本尊の弘法大師が祀られているのが「大師堂」で、弘法大師1150年遠忌の昭和59年(1984年)に新築されました。なお千葉寺は、関東八十八カ所霊場の四十七番札所でもあります。

小大師堂

 こちらは、本坊手前右手にある「小大師堂」で、「南無やくし 志よびやうなかれと 祢がひつつ まへれるひ登八 大久保のてら」との御詠歌が掲げられています。千葉寺が千葉寺十善講八十八ヶ所の結願の寺であることから、四国八十八カ所の結願の寺・大窪寺の御詠歌「南無薬師諸病なかれと願いつつ詣れる人は大窪の寺」をお借りしたものでしょう。

錫杖塔

小大師堂の右横に立っているのは八十八霊場の巡礼者を象徴する「錫杖」をモチーフにした鉄製の塔です。

地蔵堂

「小大師堂」の裏手にある「地蔵堂」です。

弁財天

こちらは弁財天をお祀りしている祠です。

本坊

ご朱印はこちらで頂けます。

千葉寺境内史蹟指定碑

千葉寺境内は、発掘の都度、奈良期以来の様々な出土品があることから境内全体が千葉市の指定文化財とされています。

布施丹後守の墓

私財をなげうって、例年洪水に悩まされる矢作村から、水不足に悩まされる寒川村・千葉寺村に農業用水「丹後用水」を引いた布施丹後守のお墓です。写真中央の石塔がそれです。

千葉市サイトにリンク

鋳銅梅竹文透釣燈籠

 青銅六角形の鋳銅梅竹文透釣燈籠は、国の重要文化財に指定される室町期の名品で、切手のデザインに使われたこともあり、現在は東京国立博物館に所蔵されています。幕末期に地元の名主を務めていた畑野家の敷地(千葉寺旧境内と思われる)から発掘されたもので「下総国千葉之庄/池田郷千葉寺/愛染堂之灯爐/大旦主牛尾兵部少輔/天文十九年庚戌七月廿八日」と刻まれています。天文十九年は西暦1550年にあたります。

瀧蔵(りゅうぞう)神社

 こちらは、本堂右奥にある鎮守「瀧蔵神社」です。現在の祭神は海津見神ですが、元々は千葉氏の五守護神のひとつ「瀧蔵権現」をお祀りしておりました。
ちなみに千葉氏の五守護神とは、瀧蔵権現の他、蘇羽鷹神社の曽場鷹大明神、御達報の稲荷大明神、結城神明神社、堀内牛頭天王となっています。
 下の鳥居は享和三年(1803年)に建てられたもので、本殿より古いものです。

本殿保存のため雨よけの屋根が覆っています。賽銭箱には千葉寺と同じ月星紋と九曜紋が描かれています。

現在の本殿は、文化三年(1806年)の大火の折焼失したものを、嘉永五年(1850年)に再建したものです。

この石碑に刻まれているのは「國光輝四海(くにひかり しかい かがやく)」という禅語です。宗教法人としては別とはいえ、かつての神仏分離令を超えて瀧蔵神社が千葉寺と一体であることを物語る石碑です。

こちらの小祠には、向かって左から「針供養塔」「子安観音」「大杉神社」が祀られています。

こちらは自治会館を兼ねた社務所です。

最後までご覧いただきありがとうございました。今回、何の気なしに千葉寺を記事に選んだのですが、最近アップした記事との間でちょっとしたシンクロニシティ(共時性)の発現がありました(笑)。まず1件前の記事では円覚寺・正續院を取り上げたのですが、戦国期から江戸期にかけて円覚寺を支え続けた大檀那・喜連川氏の一族が千葉寺の第19代の住職をお務めになっておられました。次に2件前及び4件前の記事では鶴岡八幡宮を取り上げたのですが、かつての鶴岡八幡宮と同じく大銀杏は千葉寺のシンボルとなっています。最後に5件前の記事では遠く京丹後市峰山の金刀比羅神社を取り上げたのですが、まさに丹後用水を完成させた布施丹後守の任国です(自称「丹後守」ではありますが)。
 坂東三十三観音霊場巡礼は、昨年無事に結願となり、善光寺と北向観音にもお礼参りさせていただきました。写真ばかりがたくさん貯まってしまい、なかなかご紹介しきれませんが、これからも気長にアップさせていただきます。