鎌倉・円覚寺◆境内散歩(その5)◆正續院(しょうぞくいん)~舎利殿・正法眼堂・一撃亭~

鎌倉・円覚寺◆境内散歩(その5)◆正續院(しょうぞくいん)~舎利殿・正法眼堂・一撃亭~

 円覚寺塔頭の「正續院」は、開山・無学祖元の塔所として知られている訳ですが、実は臨済宗円覚寺派における四つの大切な役割を担っています。
 第一に開山・無学祖元の塔所「開山塔」としての役割です。無学祖元は、円覚寺の開山であると共に建長寺の二世でもありますので、塔所は示寂の地である建長寺に置かれ「正續庵」と呼ばれておりましたが、後に、夢窓疎石が後醍醐天皇に働きかけ円覚寺境内に移したのが、現在の「正續院」です。
 第二に臨済宗円覚寺派の僧侶養成・専門道場としての役割です。「舎利殿」に向かって右手には僧堂の「正法眼堂」があり、僧堂師家の指導の下、1年を通じて様々な「接心」が修されます。
 第三に仏牙舎利を祀る舎利塔としての役割です。鎌倉唯一の国宝建築物「舎利殿」に入ると正面に仏牙舎利を収めた龕(がん)が安置されています。
 第四に円覚寺住職(≒円覚寺派管長)の住まいとしての役割です。山門(万年門)を入るとすぐ左手に「一撃」と書かれた扁額が掲げられている棟門が見えますが、この塀の向こう側は、師家寮(隠寮)と呼ばれ、円覚寺のご住職のお住まいとなっており、現在の管長も妙香池に面した敷地内の「一撃亭(いちげきてい・いっきゃくてい)」にお住まいのようです。

なお正續院のご由緒、ご朱印、年中行事、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください 。
⇒正續院へ

◆開山・無学祖元について
無学祖元は、中国南宋・宝慶二年(1226年)に現在の浙江省・寧波に生まれ、後に杭州の名刹・径山寺の無準師範(ぶじゅんしばん)に参じて、その法嗣となりました。
 無学祖元は、元軍の兵士に取り囲まれ剣を突き付けられた際に、
  乾坤孤筇(こきょう)を卓(た)つるも地なし
  喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もまた空なることを
  珍重す、大元三尺の剣
  電光、影裏に春風を斬らん
 と詠んで難を逃れたという「臨刃偈(りんじんげ)」のエピソードで知られる名僧として、既に中国仏教界で確固たる地位を築いていましたが、齢五十を過ぎた弘安二年(1279年)に、執権・北条時宗に招かれ来日しました。
 鎌倉では、蘭渓道隆の後継として建長寺二世を継ぎ、さらに円覚寺を開山した後、建長寺に戻り、弘安九年(1286年)に示寂し仏光国師と諡されました。  

円覚寺境内図

総門から妙香池へ

正續院を訪れるには、総門を入ってから「三門」前の石段を右に見て、松嶺院前の参道を真っすぐに上っていきます。

その途中右手に「佛牙舎利塔」の石標が立っています。

道なりに進み右手に方丈庭園が見えると、すぐ先左手が妙香池となります。

円覚寺妙香池・初夏

下の写真の中央の瓦屋根が、正續院の山門「万年門」となります。左手の大き目の建物は「師家寮(隠寮)」で、右手の瓦屋根が開基廟のある佛日庵です。

円覚寺正續院・桜の頃

桜の頃に、少し上に目をやりますと、裏山の頂上まで桜の花が広がります。

円覚寺正續院裏山・桜の頃

虎頭岩と一撃亭

妙香池の向こう岸、写真の左下に見える岩が「虎頭岩」で、その写真中上の建物が「一撃亭」となります。

虎頭岩ですが、鎌倉時代から比べると大分風化が進んでいるかも知れません。

円覚寺・虎頭岩

妙香池を過ぎると佛日庵の塀の手前角に大正4年に建立された「贈従一位北条時宗公御廟所」との石標が立っています。

ここを左に向きますと「正續院」の山門が正面に見えます。初夏の青葉が透き通るようです。

正續院境内図

円覚寺・正續院境内図

万年門(山門)

正續院の山門は、その山号から「万年門」と呼ばれています。現在の山門は、関東大震災で倒壊したものを昭和6年(1931年)に修理再建したものです。普段、一般の参拝客は、ここから先(=正續院境内)に立ち入ることはできませんが、正月、ゴールデンウィーク期間中及び宝物風入期間中の舎利殿特別公開の日にのみ参拝が許されます。正續院内に数多くある「境致(禅宗の立場から意味付けられた禅寺境内とその周辺の建物、山川木石など)」の一つでもあります。

こちらは山門の右手前の石標です。正面には「仏牙舎利塔」 とあります。

左側面には「大唐国能仁寺拝請」とあります。これは、仏牙舎利が中国・南宋の杭州にある能仁寺より請来されたことを記したものです。

右側面には「征夷大将軍源實朝公」とあり、仏牙を請来した鎌倉三代将軍・源実朝公の名が記されています。

裏面には「寛政四年壬子(みずのえね)十月十五日」と、この石標が建立された日が刻まれています。円覚寺中興として知られる大用国師・誠拙周樗の時代で、正續院では僧堂の整備が進んでいました。

山号額には「萬年山」とあります。臨済宗宗祖の栄西が学んだ中国・南宋の天台山万年寺の寺号より取ったものでしょうか。なお開山塔としての正續院を興した夢窓疎石が開山した京都五山二位の相国寺も同じく「萬年山」の山号を称しています。

左柱の掲示で、時季毎に、様々な接心が修されていることが分かります。

隅棟の鬼瓦には、北条氏の三つ鱗があしらわれています。

宝物風入の日の門前です。

こちらは、境内から振り返って見た万年門です。

正續院前は、円覚寺境内でも紅葉の美しい場所の一つとして知られています。

春の円覚寺正續院・万年門
秋の円覚寺正續院・万年門

師家寮・一撃亭

写真中央から右側が、円覚寺派管長(≒円覚寺住職)のお住まいである師家寮で、円覚寺中興の大用国師・誠拙周樗が天明五年(1785年)に「前版(師家のこと)寮」として建てたものが関東大震災で失われた後、昭和五年(1930年)に新築されたものです。 三棟ある建物のうち妙香池に面している一番小ぶりな建物が一撃亭(いちげきてい・いっきゃくてい)で、現管長がお住まいとお聞きしています。

一撃亭・春
一撃亭・秋

師家寮に入る棟門には「一撃」という扁額が掲げられています。こちらは天龍寺・桂洲道倫が関東下向の折、書いたもののようです。また、両脇の柱の「聯」には、開山・仏光国師の漢詩「怪しむこと莫(なか)れ、当路(とうろ)の筍(たかんな)を除かざることを。要す、君が此(ここ)に来たって立つこと須臾(しゅゆ)ならんことを」が書かれています。なお天龍寺の開山は、夢想疎石です。

扁額・一撃

鐘楼

鐘楼は、市指定文化財で、17世紀中期に建立されたものです。

宝蔵

こちらは宝蔵です。由来については資料が見当たりませんでした。

宿龍殿

「宿龍殿」は、正續院の客殿で、天明四年(1784年)に大用国師・誠拙周樗により建立されました。その後の関東大震災の被害を免れ、昭和六年(1931年)に改修され現在に至っております。宿龍殿には、鎌倉二十四地蔵尊霊場の十三番札所本尊となっている「手引地蔵」が祀られています。なお円覚寺には、仏日庵に十四番札所本尊の「延命地蔵」が祀られている他、番外として伝宗庵に 「子安地蔵(国重文)」が祀られています(現在は鎌倉国宝館に寄託)。

宿龍殿の内陣に掲げられる扁額は臨済宗円覚寺派初代管長・今北洪川師の筆による「龍府」です。

こちらは数年前に吹き替えた直後の宿龍殿の屋根です。

舎利殿前門(唐門)

舎利殿前の向唐門は、19世紀中期に建立されたものと考えられています。

向背の拝み飾りには鳳凰が、虹梁下の欄間には龍と楽人を従えた天女(弁財天か?)が彫られています。

鳳凰
龍と天女と楽人

舎利殿公開時には、脇門から中に入ります。

左手の岩壁には石室がありますが、用途は不明です。形状から見ると以前は扉がついていたようです。

回廊

奥に見えるのが「聖侍寮(しょうじりょう)」で、僧堂内での茶礼のお世話や、病僧が出た場合などの身の回りのお世話をする僧の住む建物です。

回廊は、前庭を囲むように舎利殿向って左手まで続いています。

正法眼堂(僧堂)

こちらは、雲水の修行の場である僧堂「正法眼堂」で、やはり大用国師・誠拙周樗により建立されました。大用国師は、天明元年(1781年)に初代師家となり、今につながる僧堂システムの基礎を築いた円覚寺中興の祖です。なお現在の建物は、関東大震災の被災後の昭和5年(1930年)に再建されたものです。「正法眼堂」の扁額は、師家寮の棟門にある「一撃」と同じく、天龍寺・桂洲道倫の筆によるものです。僧堂のご本尊は「文殊菩薩像」で鎌倉市重文に指定されています。

棟瓦積に「正」「法」「眼」「堂」の四枚の瓦が取付けられています。

かなり使い込まれたこちらの板木には「生死事大、無常迅速、光陰可惜、慎莫放逸」と書かれています。「青松軒」の室号がありますので、現管長が僧堂師家をお勤めになり始めたころにお作りになったものでしょうか。

舎利殿

こちらが、鎌倉市内で建物として唯一国宝指定されている「円覚寺・舎利殿」で、小ぶりではありますが禅宗様を代表するすばらしい建造物です。杮葺(以前は茅葺だったそうです)の屋根は四隅が大きく反り上がり、禅宗の仏殿らしく唐様の優美な曲線を描いています。

軒下に目をやれば、組物は三手先で、中央から扇型に広がる垂木と複雑な斗供の詰組(柱上だけでなく柱間にも組み物を配置する技法)が見事です。

火灯窓は末広がりに造られるのが一般的なのですが、こちらはスッキリとした縦線を描いています。欄間は一本一本の部材がカーブを描く「弓欄間」で、繊細なイメージとなっています。

 冒頭に述べたように、正續院は、仏牙舎利塔と開山塔を兼ねています。そのため舎利殿も、その名の如く仏牙舎利を安置する堂としての役割と開山塔における昭堂の役割の両方を担うこととなり、その歴史も以下のような複雑な経過を辿ります。

和暦(西暦) 事績
建保五年
(1217年)
中国・南宋の「能仁寺」より「仏牙舎利」を請来。「勝長寿院」に納めた後、「大慈寺」に移す。
弘安八年
(1285年)
円覚寺二世・大休正念の代に、円覚寺に「祥勝院」を開き「旧舎利殿」を建立し「仏牙舎利」を「大慈寺」より奉請。
建武二年
(1335年)
夢窓疎石が、無学祖元の塔所であった建長寺・正續院を円覚寺境内に移し、仏牙舎利塔として存在していた「祥勝院」を「正續院」に改め、開山塔を兼ねる。
応安七年
(1374年)
円覚寺境内全域に及ぶ火災で「旧舎利殿」焼失。「旧舎利殿」は、これまでも何度か焼失している可能性あり。
応永三年
(1396年)
足利義満が仏牙舎利を京都に奉請。
永正四年
(1507年)
仏牙舎利が天から降って円覚寺に戻る。
永禄六年
(1563年)
円覚寺境内全域に及ぶ火災で「正續院」全体が焼失。
天正年間
16世紀後半
西御門にあった大平尼寺の仏殿を「正續院」に移築し「現舎利殿(現存する建物)」とする 。
明和二年
(1765年)
英勝寺清薫尼の助力により「仏牙舎利」を収める宮殿(厨子)が造られ「舎利殿」内に安置される。

 大慈寺より移された「仏牙舎利」は 、応永三年(1396年)に、室町幕府三代将軍足利義満に召し上げられ、夢窓疎石開山の京都・相国寺に安置されていたのですが、どうやら応仁の乱に際して焼けてしまったようなのです。
 その後、都合よく天から降って鎌倉に帰ってきたとされる「仏牙舎利」が納まっているという厨子がこちらです。「仏牙舎利」は 、毎年10月15日の舎利講式で開帳され、方丈にてお祀りされます。

 三十二相八十種好によれば、お釈迦様は常人より8本多い40本の歯をお持ちだったそうですが、こうした偶像崇拝の「夢想」にいちいちお付き合いしていたのでは、歯が何本あっても足りません。そもそも南宋・能仁寺から伝わった「仏牙舎利」も本物かどうか・・・。五蘊に迷い世俗に迎合して止まない僧侶達のこうした様々な妄想のヴェールが折り重なって、お釈迦様本来のクールな教えを覆い隠し、終には今日の末法の世を招き寄せた訳ですが、お人が悪い数多の禅匠・師家の皆さんは、こうした風景をリアルタイムでどのようにご覧になっておられたのでしょうか。

開山堂

 開山堂は、開山四百年遠忌の前、貞享二年(1685年)に再建されました。

円覚寺サイトにリンク・手前の銅葺きの建物が開山堂・奥の杮葺きの建物が舎利殿

国重文の須弥壇には、同じく国重文の開山木像が祀られています。またここには置かれていませんが前机も国重文に指定されています。

無学祖元坐像 (国重文)
円覚寺開山堂前机(国重文)

開山塔

舎利殿の左上方に見えるのが開山塔です。自然石をそのまま塔としているようです。この角度から見えるのは、開山塔の右側面(向かって左側面)となります。

宿龍池

宿龍池は、開山堂の右奥に古くからあり、無学祖元の来朝に際して、その航海を守護した龍が宿る池とされ、境致の一つに数えられています。北条貞時が寄進した弁天堂の洪鐘は、貞時が夢のお告げでこの池底から引き揚げた龍頭形の金銅により鋳造されたものと伝えられています。

開山忌

毎年10月3日は開山忌です。開山・無学祖元(仏光国師)のご命日は9月3日ですが、法要はこの日に執り行われる習わしとなっています。この日は仏殿・大方丈・開山堂・開山塔でも夫々の儀式がありますが、重要な儀式とされているのが、舎利殿(ここでは昭堂としての役割を担います)での全山の主要な僧侶による「真の楞厳呪」の唱和です。この日は管長も九条袈裟の正装で儀式に臨みます。

最後までご覧いただきありがとうございました。本記事をきっかけに、単なる名僧の塔所に留まらない円覚寺の全てを凝縮したような正続院に興味をもっていただければ幸いです。