江島神社◆境内散歩(その2)◆~青銅鳥居から瑞心門へ~弁財天仲見世通り・岩本楼・福石

江島神社◆境内散歩(その2)◆~青銅鳥居から瑞心門へ~弁財天仲見世通り・岩本楼・福石

 青銅鳥居を潜り瑞心門に至る参道「弁財天仲見世通り」の両脇は、旧江ノ島三坊のうち「岩本院」の流れを汲む「岩本楼」や「下之坊」が姿を変えた「恵比寿屋」 等の旅館、飲食店、土産物屋が立ち並ぶ江ノ島で一番賑やかな場所です。平成の初めごろにはスマートボールや射的のお店など昭和の雰囲気をたっぷり残した独特の風情がありましたが、すっかり小綺麗になってしまい、どこか寂しく感じられます。
参道突き当りにある江島神社の総門「瑞心門」付近には、源実朝に働きかけ「辺津宮」の創建に尽力した慈悲上人・良真ゆかりの「蟇石(がまいし)」や、江戸時代・元禄期に辺津宮を隆盛に導いた関八州惣禄検校・杉山和一ゆかりの「福石」やなどがあります。

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青銅鳥居(からかねのとりい)

「弁財天仲見世通り」の入り口には古くより朱塗りの木製の鳥居があったのですが寛保三年(1743年)に倒れてしまいました。その後、延享四年(1747年)になって初めて青銅の鳥居が建立され、さらに藤沢市指定文化財となっている現在の青銅鳥居は、文政四年(1821年)に奉納されたもので、鋳物師は粉川市正藤原国信です。
 上部に「天下泰平」とある 右柱(神社に向かって右側)には江戸・新吉原の弁天講(扇屋宇右衛門・大黒屋勘四郎・松葉屋牛蔵)が願主として刻まれ、 上部に「国土安全」とある左柱(神社に向かって左側) には、江戸の江之島屋利助を願主、武州真光寺村榎本忠右衛門を古願主(延享四年奉納の旧青銅鳥居の願主)として新橋の中島屋忠治郎、武州八王子の大阪屋佐兵衛らの名が刻まれています。

 江戸の花街では、歌舞音曲の神様でもある弁財天詣を名目に、2~3泊の行き帰りの道中、羽目を外す皆さんも多かったようで、弁天講の講中には、新吉原の売れっ子花魁・代々山(よよやま)の名も記されています。

「松葉屋内代々山 かけを にしき」歌川国定

中央部分に「松葉屋内 代々山」の銘があります。

明治初期までは「大弁財天」の額が掲げられていましたが、明治の神仏分離令に際して「江島神社」の社号額となり、その後さらに鳥虫書体で「江島大明神」と書かれた神号額に置き換えられました。現在の額は、元寇(文永の役)の後、後宇多天皇より江島神社に送られた勅額(オリジナルは辺津宮の奉安殿内)の写しで、数年前に掛け替えられたものです。昭和9年(1934年)に奉納された先代の神号額も同じく後宇多天皇の勅額を模したものでしたが、東京美術学校で長年彫刻科の教員を務めながら、数多くの装飾彫刻を手掛けた水谷鉄也(みずのやてつや)氏の手によるもので、額縁の龍神のパーツ一つ一つの彫が深く、工芸品の域を超え美術品の風格がありました。

足元には、同じく青銅製の波模様の沓巻が飾られています。

令和三年の今年は、青銅鳥居建立200周年にあたることから、記念の御朱印を辺津宮の授与所で頂けます。

なお江戸期には、安藤広重の「東海道五十三次・藤澤」にも描かれているように、江島弁財天の「一の鳥居」は、 東海道から江島道への分岐地点・藤沢遊行寺前にありました。また「二の鳥居」は洲鼻通りにあり、現在の青銅鳥居は「三の鳥居」だったそうです。

東海道五十三次・藤沢宿(遊行寺橋)・安藤広重

弁財天仲見世通り

「弁財天仲見世通り」は、弁天橋を渡り切った先にある青銅鳥居から瑞心門石段下まで続く江島神社の参道で、古くは茶屋街と呼ばれていました。 

貝作

青銅鳥居に向かって左脇には、海産物を中心とした土産物&お食事店「貝作」の大きなお店があります。私の中では、 このお店から漂ってくる「磯焼きの香り」=「江ノ島の香り」のイメージが出来上がっています。

江ノ島アイランドスパ

青銅鳥居の右手には、比較的新しい温泉施設の江ノ島アイランドスパがあり、相模湾越しに富士山を眺めながらの日帰温泉が楽しめます。

この場所は、大正期に江ノ島にあった5軒の旅館(岩本楼・恵日須屋・金亀楼・二見館・さぬき屋)のうち「さぬき屋」のあった場所です。江ノ島の玄関口に建つ「さぬき屋」は庶民階級の利用が多かったようです。

恵比寿屋

仲見世通りを少し先に進みますと、左手に旅館「恵比寿屋」があります。江戸時代までは辺津宮の別当寺「下之坊」でしたが、明治の神仏分離令に際して寺院を廃し、経済的基盤であった宿坊を転じた旅館経営に軸足を移しました。
 慈悲上人・良真以来、鶴岡八幡宮の倶僧が差配してきた「下之坊」ですが、鎌倉幕府が滅び室町期に入ると、得度前に北条氏を名乗る住持による、肉食妻帯の世襲制が取られるようになり、 明治6年に最後の当主・北條主殿が北條寛光に名を改め還俗するまでその体制が続きました。かつての「下之坊」 には、弁財天の他、聖観音・五智如来が祀られていたそうです。

こちらは、敷地内にある「恵日寿弁財天」です。

こちらは恵比寿楼の16代目当主で、江ノ島俳壇の中心人物であった永野泉山の句碑です。「住みなれて 居てもすずしや 島の月」とあります。

岩本楼

岩本楼は、明治の神仏分離令に際して、元の奥津宮別当・岩本院の宿坊から転じた旅館です。岩本院を名乗る前の岩本坊は、岩屋本宮の別当寺として建長年間に創設され、代々鶴岡八幡宮寺の正覚院(京都・仁和寺末)が管理していました。しかし、宝徳二年(1450年)の江島合戦で功のあった間宮肥前守の子息・智宗が別当職に就いて以降は、代々間宮家の系統が別当職を務め、末期に45代亮雄氏を越前土井家より迎えて、明治維新に至りました。岩本坊は弁天社の根本である岩屋本宮を司ることから、古くより他の二坊(上之坊、下之坊)に優越する立場にありましたが、慶安二年(1649年)には仁和寺の末寺の地位を得て江島三社全体の総別当としての地位をゆるぎないものとし、岩本院を名乗るようになりました。
 岩本院の代々の住職は、得度前は佐々木氏を名乗り、下之坊と同じく肉食妻帯を許す世襲制を取っていましたが、最後の別当職・亮雄が明治6年に岩本将監を名乗り還俗し神職となった一代後亮泰で、その血流は途絶えています。

岩本楼には、岩屋のご本尊であったとされる「八臂弁財天像」など、神仏分離に際して江島神社より下げ渡された様々な仏教関連のアイテムが所蔵されています。

八臂弁財天像(「みゆネットふじさわ」にリンク)

また、歌舞伎「白浪五人男」の一人「弁天小僧菊之助」が岩本院の「稚児」の出との設定になっていることでも知られています。女犯を禁じられていた仏教寺院では「衆道(男色)」が半ば公然と受け入れられていましたので、岩本院クラスの寺院であれば「稚児」を抱えていても全く不思議ではなく、宿坊では参拝客の相手もしていたようです。

「弁天小僧菊之介 」歌川豊国

◆「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ) ・雪の下浜松屋の場」での弁天小僧の口上
知らざあ言って聞かせやしょう。
浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きねえ七里ヶ浜、その白浪の夜働き。
以前をいやあ江の島で、年季勤めの児ヶ淵。
百味講でちらす蒔銭を、当に小皿の一文子。
百が二百と賽銭の、くすね銭せえだんだんに、悪事はのぼる上の宮。
岩本院で講中の、枕探しも度重なり、お手長講の札付きに、とうとう島を追いだされ。
それから若衆の美人局。
ここや彼処の寺島で、小耳に聞いたじいさんの、似ぬ声色で小ゆすりたかり。
名さえ由縁の弁天小僧菊乃助たあ、おれがことだ。

ステンドグラスとテラコッタ(陶器タイル)が素晴らしい「ローマ風呂」は国の「登録有形文化財」に指定されています。

こちらは「弁天洞窟風呂」です。もともと弁財天をお祀りしていた洞窟をお風呂に改造したものです。

黄金水汲取記念碑

こちらは神道系新興宗教団体「神理教」が建立した「黄金水汲取記念碑」で、昭和4年(1929年)に岩屋前の海中で黄金水を汲み取った旨の碑文や、「江の島のこがねの水や楽風時」の句が刻まれています。

天海

仲見世通りで食事をする時は、いつも利用している「天海」は、江の島・山町の老舗「魚見亭」の姉妹店です。折角江ノ島に来たのですから、サザエを卵でとじた名物の「江ノ島丼=江ノ丼」がお勧めです。

江ノ島郵便局

ここにある郵便ポストは、明治20年頃のものを復元したもので「郵便差出箱」と呼ばれていたそうです。よく見かけるオーソドックスな赤い鋳物の円柱型ポストは明治40年代に元型が登場しています。

女夫饅頭(めおとまんじゅう)

江ノ島のお土産は、もちろん海産物が喜ばれますが、お菓子系で安上がりにまとめるなら「女夫饅頭」でしょう。いくつかお店がありますが、蒸し器から漂う湯気に誘われて、いつも私はこちら「井上総本舗」で買ってしまいます。

瑞心門大石段近辺

 仲見世通りを上り切った正面を見上げると、大鳥居と瑞心門が聳え、昭和12年(1937年)に整備された大石段には登り口に石灯篭、中段に朱塗りの春日灯籠が見えます。この大石段の近辺には由緒ある観光ポイントがたくさんありますので、ここでまとめてご紹介します。

登り口の立派な大石灯籠は、江ノ島奉賛講により寄進されたもので、講長・小川庸一、世話人・小川彌七等の名が見えます。

社号標

こちらの社号標は、日露戦争・日本海海戦の名将・東郷平八郎元帥の揮毫により、大正十年(1921年)に建立されました。

鋏塚(はさみづか)

鋏塚は平成元年(1988年)に「大日本花道協会」の創立35周年を記念し、長年の使用に耐えた花鋏を供養するため建立されたものです。鋏を模した「花」の字は日本画家・飯田九一の筆によります。

無熱池 (むねつち)

仏教では、阿耨達龍王(あのくだつりゅうおう)が住み炎熱の苦しみがないとされる池を「無熱池」と言います。この池も龍女が住み、常時水が枯れることがないことから同じ名で呼ばれており、石の祠が祀られています。

蟇石(がまいし)

蟇石(がまいし)は、「下之宮」を開いた慈悲上人・良真が、修行を妨げるガマの幻影を、石に変えて祀ったものと云われています。

辺津宮大鳥居(朱の鳥居)

こちらの朱塗りの大鳥居は、文化二年(1805年)に建立され、明治元年に再建された石の鳥居を、昭和11年(1936年)に鉄筋コンクリート造りで再建したものです(東京・山田流筝曲家元・林敏子さんの寄進です)。

神社側から

長堀検校奉納石狗

大鳥居脇の狛犬は、杉山検校の弟子筋に当たる長堀検校が、慶応元年(1865年)に、下之坊寛光や大八木喜右衛門らと奉納したものです。 雌雄一対になっており向かって右手が雄、左手が雌です。

最勝銘碑

春日灯籠の脇には題字に「最勝銘」とある石碑が立っています。こちらは明治17年(1884年)に建てられたもので、原担山(東京大学・インド哲学の祖)撰による仏教を礼賛文が刻まれています。仏教用語で「最勝」とは「もっとも優れた」という意味合いで、よく使われます。

瑞心門

「瑞心門」は、昭和61年(1986年)に、昭和天皇御在位六十周年奉祝記念事業として建立された神門で、今はない中津宮の正門「不老門」 と同じく白塗りの下層が特徴的な龍宮造となっています。 また、明治の神仏分離令以前にはつづら折りの石段を上り切り辺津宮拝殿を目前にした場所に「随身門」がありましたが、その「ずいしん」の音を踏みながら、人々が瑞々しい心でお参りできるようにとの想いを、古詩にある「瑞心常保真」より採った「瑞心」の文字に込めています。

こちらは、瑞心門内側の両壁に掲げられた片岡華陽の筆による二面の唐獅子図です。

弁財天童子石造

門をくぐると、平成14年(2002年)に江島神社ご鎮座1450年を記念して奉献された「弁財天童子石像」があります。
「江嶋縁起」によると、江ノ島は、欽明天皇十三年(西暦552年)の大地震の後、海中より忽然と姿を現し、そこに白龍と十五童子を従えた弁財天が降り立ち江島明神となったそうです。

百度供養塚

寛政八年(1796年)に、江戸下谷の時田三天明昭がなんと36年かけて達成した百度参りを記念して建立されました。 で、「ゆくとしや百度詣し豆の数」「花や鯛月ゆきつもる百度塚」の句が刻まれています。 大きく刻まれた梵字は弁財天の種子です。

福石

牛が臥せているように見えることから「臥牛石」とも呼ばれています。後に江戸・元禄期に総検校として関八州の盲人を束ねることになる杉山和一が、江ノ島に参篭の折、この石に躓き転んで竹筒の中の松葉が体を刺した際、福石に立つ弁財天女の影向を拝み管鍼の妙術を授けられたという伝説が残されています。以来、この石の近くで物を拾うと福運が舞い込むということで福石と名付けられました。

江ノ島弁財天道標

ここにある江ノ島弁財天道標は、尖頭型三角柱で、三面に夫々「ゑのしま道」 「一切衆生」 「二世安楽」と刻まれています。杉山検校が江の島道に48基建てたとされていますが、現在はこの1基を含め12基が確認されています。いずれも昭和41年(1966年)に藤沢市の指定文化財となっていますが、保存のため本来の位置から移動したものも少なからずあります。

杉山検校像

杉山 和一(すぎやま わいち)は、江戸前期を生きた伊勢国安濃津出身の盲目の鍼灸師で、鍼を管に通して打つ施術法である管鍼(かんしん)法を創始しました。また、五代将軍徳川綱吉のバックアップにより、元禄二年(1689年)に関八州の盲人を統括する「惣禄検校」となり、本所一つ目に「惣禄屋敷」を賜りました。さらに、鍼・按摩の教育施設「杉山流鍼治導引稽古所」を開設するなどし、盲人の授産にも務めました。
 江ノ島に関連する事績としては、神仏分離令に伴い後に取り壊されてしまった三重塔を始めとする下之宮の仏教系建築物群の建立などが挙げられます。

御幸橋(みゆきばし)

御幸橋は、江島神社と旧片瀬小学校江ノ島分校(今は「江ノ島市民の家」)を結ぶ橋で、下を奥宮に続く裏参道が通ります。 旧片瀬小学校江ノ島分校のあった場所には、かつて閻魔堂と杉山検校により元禄七年(1694年)建立された三重塔がありました。 なおアーチ形の現在の橋は、戦後架け替えられたものです。

こちらは、朱の鳥居をくぐって右手(西側)に見える御幸橋で、御幸橋の下を通る道が旧参道です。明治の神仏分離令までは、この入り口付近に仁王門がありました。

杉山検校墓

こちらの西浦霊園はかつての下之坊の墓所で、江戸・元禄期の辺津宮隆盛の立役者・杉山検校のお墓があります。杉山検校は、元禄七年(1694年)に江戸・本所一ツ目屋敷で85歳の生涯を終え、本所・弥勒寺に葬られましたが、その翌年こちらに改葬されました。大鳥居に向かって右側に進むとすぐに「杉山和一先生之墓」と彫られた標石があり、朱の御幸橋を潜ってさらに上っていくと西浦霊園に着きます。

墓石は、唐破風が付いた傘塔婆の形をしています

江ノ島エスカー

日本初の屋外エスカレーターとして昭和34年(1959年)に設置されました。全三区間(高低差46m)を僅か4分で結ぶエスカーのおかげで、息切れが目立つ我々中高年の参拝者は大助かりです( ただ登り専用のため、帰りは急な石段を下りなければならない点をお忘れなく)。こちらの写真は、大石段下と辺津宮を結ぶ「一区」の乗り場です。

 最後まで、ご覧いただきありがとうございました。次回は、いよいよ辺津宮です。