出流山・満願寺(出流観音)◆坂東三十三観音霊場(第十七番)参拝◆
- 2021.01.07
- 坂東三十三観音霊場参拝
栃木市にある坂東三十三観音霊場第十七番札所・出流山満願寺の開山は、勝道上人が日光開山に先立ち観世音菩薩のご加護を仰ぐべく今の本堂の場所に堂宇を立てて千手観音を奉安した天平神護元年(765年)で、「出流(いずる)」の名の通りこの地はまさに日光の源流・ルーツに該ります。寺伝によれば、さらに遡る天平時代に役行者小角が、現在の奥の院「観音の霊窟」を発見したのが修験道場としての出流山の始まりで、子宝に恵まれない下野国司・高藤介の妻が、この「観音の霊窟」に21日間籠り、翌天平七年に授かった男子が後の勝道上人とされています。勝道上人は二十歳で発心し、ここ出流山で4年間修行を積みましたが、千部ケ岳山頂から望む日光連山の中でもひと際威容を誇る男体山こそが仏伝に云う補陀落山であると確信して開山を志し、満願寺開山の翌年には見事日光山を開き、四本龍寺を建立なさいました。なお日光二社一寺の「要」である「輪王寺」は、明暦元年(1655年)に後水尾上皇より「輪王寺」の寺号が下賜されるまで九百年にわたり「満願寺」と呼ばれており、明治の廃仏毀釈後にも一時的に「満願寺」を名乗った時期がありました。
◆参考記事◆
⇒四本龍寺と本宮神社~紅葉の日光遠征記2018(その3)~へ
⇒輪王寺・三仏堂付近~紅葉の日光遠征記2018(その4)~へ
⇒奥日光・中禅寺(立木観音)◆坂東三十三観音霊場(第十八番)参拝◆へ
なお満願寺(出流観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒満願寺(出流観音)へ
満願寺の魅力
◎空海をも唸らせた求道実践者日光開山・勝道上人のルーツ
◎真言宗智山派管長を輩出した総本山智積院・永代移転地及び旧別格本山としての重厚な歴史
◎天平以来の入峰修行の伝統を今に残す奥の院、大日、大師等の霊窟群
境内図
山門(仁王門)
山門(仁王門)は、享保二十年(1735年)に造営されたもので、当初は茅葺でしたが、現在は金属板となっています。仁王像は、仁王門より古く室町時代の作とされており、平成2年には仁王門と共に解体修理されました。
こちらは寺名碑です。お参りした9月中旬には、周囲に彼岸花や玉すだれが咲いていました。
薬師堂
江戸時代の満願寺には、本坊・千手院に加えて六つの塔頭寺院(福性院・清光院・多聞院・宝光院・延命院・月輪院)と二つの修験行者坊(常福院・胎蔵院)がありましたが、薬師堂はその一つ福性院の名残をとどめる建物で、享保年間に造立されました。精緻な彫刻が特徴的で、ご本尊は薬師如来です。
開運稲荷(出世稲荷)
唯一残っている塔頭・宝光院の隣にあります。
信徒会館
信徒会館及び本坊に進む道の入り口には、大きな寺名碑が立っています。碑には「別格本山」とありますが、こちらは旧例によるもので、真言宗智山派の現在の「別格本山」は高幡不動金剛寺及び大須観音法性院の二寺院です。
昭和41年(1966年)の「ひのえうま大開帳」を記念して建設された参詣者の宿泊施設です。鉄筋五階建で200人収容できるそうです。
こちらは、信徒会館脇の魚住橋。
鐘楼堂
明治四年(1871年)に失われた鐘楼堂を、弘法大師一千百五十年御遠忌を記念して昭和59年(1984年)に鉄筋コンクリートで再建したもので、設計は建築モード研究所(東京・渋谷)です。
この付近から奥の院にかけて、私を迎えてくれるかのように無数の秋海棠が咲き乱れていました。
こちらは、日露戦争で戦没した軍馬の慰霊碑です。
本坊
昭和53年(1978年)のご本尊御開帳を機に鉄筋コンクリート造で建築されました。寺務所が置かれている他、講習会等で利用できる大広間があります。
こちらは、大正時代の本坊の様子です。
出流弁天
昭和54年(1979年)に東京八智与教団有志により奉献されたもので、毎年10月第二日曜日に例祭が斎行されます。
藤吉地蔵(盗難除け地蔵)
前科八犯で、最後は強盗殺人を犯し死刑囚となった福田藤吉が、東京拘置所で執行を待つ間に観音様の導きにより回心したことから、「悪人正機」の聖説を世に示すべく、その姿を見守ってきた周囲の方々の尽力により、死刑執行後満願寺に地蔵を立てて弔われました。藤吉は死刑執行前に参拝者を災難や犯罪から守ることを誓い、次のような時世を残しました「わが心 今より後は 出流山 地蔵となりて 人を導く」。向かって右手の石柱は歌舞伎の中村吉右衛門から奉納されたものだそうです。
水屋
この水屋は、安永七年(1778年)に茂木伝蔵という人が寄進したものです。ここで使用されている手水石は、ここから約12キロ離れた粕尾という所の河原にあったものですが、あまりに重いためコロを使って少しずつ運ぶ他なかったそうです。しかしあまりに時間がかかり身内だけでは運びきれなかったため「通りがかりの方で御信心ある方は、たとえ一尺でもよいから出流の方へ転がしてほしい」との立札を立て、一年かかってやっと運び込んだそうです。
慈光殿
「慈光殿」は、甲州系の若尾財閥の中心人物の一人であった若尾鴻太郎氏がご母堂の菩提を弔うために建立しました。石造の十一面観音像が収められています。
大御堂(本堂)
当初、応安元年(1368年)に足利義満公の寄進により建立されましたが、焼失したため、明和元年(1764年)に十七世道杲和尚により再建されました。筑波山・大御堂(現在の筑波山神社・本殿)、奈良・興福寺大御堂と共に日本三大御堂と称されており、現在の本坊あたりにあった旧本堂が元治元年(1864年)に焼失してからは、本堂となりました。ご本尊は弘法大師の手によるとされる千手観世音菩薩です。
十三重塔
大御堂近辺でひと際目立つこの十三重塔は、三十三年にわたり月参りを欠かさなかった信者の手塚庄次郎という方の寄進によるものだそうです。
奥之院参道
こちらが、御沢の清流に沿って続く奥之院参道の入り口です。参道脇は秋海棠に埋め尽くされ、道を一人 進めばそのまま涅槃へと導かれるかのような錯覚すら覚えます。
如蓮堂(にょれんどう)
東京大松講の初代先達で、日本鉄道・日光線(現在のJR東日本・日光線)開通後に衰退した満願寺の復興に尽力した松丸如蓮尼を偲んで昭和17年(1942年)に祀られた如蓮地蔵尊をご本尊とし、昭和48年(1973年)に満願寺の外護に尽くされた信者の方々の位牌堂として建立されました。 地下は納骨堂となっています。
如蓮堂を過ぎて振り返ると、銅葺きの屋根の上に木の苗が伸びていました。
歴代住職の墓
並んだ五輪塔は、歴代の御住職の墓石です。
女人堂
弘法大師をご本尊とする女人堂は、奥之院の参道沿い「大師の霊窟」の真下にあります。昔は、ここから「大師の霊窟」に直登する鎖場があり、女人禁制の「大師の霊窟」に入れない女性の信者は、ここで同行の男性信者の帰りを待っていたそうです。現在の女人堂は、弘法大師千百五十年ご遠忌を記念して昭和61年(1976年)に建立されました。
この先も、ずっと秋海棠の道は続きます。
大悲の滝
「大悲の滝」は、出流川の源泉である「胎内くぐり」の鍾乳洞から直接に流れ落ちている高さ約8mの滝で、旧暦の元旦には滝開きが行われます。ここで滝行をすれば、観世音菩薩の大慈悲に浴するということから「大悲の滝」と呼ばれています。
奥之院(観音の霊窟)
大悲の滝の脇の急な石段を百段ほど登ると、満願寺の奥の院・観音の霊窟(いわや)の拝殿に着きます。拝殿の奥に、自然の鍾乳石を十一面観世音菩薩の後姿に見立てた御神体にお参りできます。子宝に恵まれない下野国司・高藤介の妻がこのここに籠り、勝道上人を授かったことから、子授け・子育ての霊験あらたかとされています。
昔は、屋根付きの石段だったようです。
こちらが、霊窟内の十一面観音の後姿とされる鍾乳石です。普通に目で見ると左手の岩と同じ色に見えたのですが、不思議なことに写真に撮ると緑色に写ってしまいました???何でだろう???
◆観音の霊窟案内の口上
そもそも向こうに拝し奉るは当山奥之院十一面観音菩薩西方弥陀の浄土に向かわせられ一切衆生済度のため御看勤の御後ろの御姿なり。両の肩より御袈裟御衣の垂れ下がりたる容体なり。両脇立ち左は御山の守護神三面六臂の大黒天、右は御山の開山勝道上人、台座は八葉の伏蓮華、台座の下には四十八海が島々、島の中には白龍黒龍二体の龍あり、台座を取り巻き台座の下へと頭を差しあぐるが故に台座は自然の浮き蓮華なり、こなたに拝し奉るは観世音菩薩の宝袋と申して自然と岩を離れて拝されます。こなたに拝し奉るは西院の河原子育て延命地蔵菩薩の御尊体なり、この奥には弥陀の十万八千諸仏の浄土これありと申せど遥か奥深うして拝されません。
出流山の霊窟(いわや)群
出流山には、奥之院「観音の霊窟」のほかに「大日の霊窟」「大師の霊窟」「不動尊霊窟」「普賢の霊窟」等の霊窟(いわや)がありますが、近年の台風被害で参道が荒れており、十分な山歩きの装備を持参していなかったことから参拝はあきらめました。ちょっと残念です。
大日の霊窟
大悲の滝から荒れた参道をさらに上がりますと「大日の霊窟」があり、釈迦如来、勢至菩薩等に見立てた鍾乳石があるそうです。
大師の霊窟
「大師の霊窟」は、弘法大師が当山を訪れた際に禅定したとされる霊窟で、大悲の滝から聖天堂に行く途中にあります。中には様々な謂れの有る鍾乳石や滝があるそうです。
不動尊霊窟
「大日の霊窟」からさらに100m程進んだところにある「不動尊の霊窟」の中には、不動明王に見立てた鍾乳石や高さ3m程の滝があるそうです。
普賢の霊窟
聖天堂から先に進み、毘沙門堂を過ぎて大御堂に向けて下っていく途中で川を渡ったところにある「普賢の霊窟」の壁面には普賢菩薩が浮き上がって見えるそうです。
なお「Geo Bravo!」というブログに、霊窟群を探検した記事がありますので、リンクしておきます。結構・・・すごい。
⇒「出流山石灰洞群ケイビング 前編 大日霊窟・不動霊窟」へ
⇒「出流山石灰洞群ケイビング 後編 大師霊窟」へ
最後までご覧いただきありがとうございました。コロナの影響で遠方への寺社巡りは憚られますので、今回は2年前の初秋に坂東三十三観音霊場巡りでお参りした栃木県の満願寺の様子を記事にしてみました。この時は、平日朝早く雨上がりに参拝したもので、御本堂から奥の院を往復する間、全く他の参拝者とお会いすることなしに、出流山の澄みわたる空気を独り占めできました。
-
前の記事
三浦半島の初日の出と初詣(令和三年元旦)~森戸神社と亀岡八幡宮~ 2021.01.01
-
次の記事
鶴岡八幡宮・一月の祭礼と行事~寒牡丹華やぐ睦月~ 2021.01.30
地元が群馬県太田市なので、近く感じます。江戸時代からの参礼が、今も現存しているってスゴイですね。コロナ禍で行けない時期なので、ブログ記事がありがたいです。
私のホームグランドは鎌倉近辺ですが、坂東三十三観音霊場は手ごろな遠征先として少しづつ参拝させて頂いています。何の下調べもせずにお参りした満願寺は、偶然にも秋海棠が咲き乱れる季節でした。この日、誰一人ともすれ違うことなく奥之院の参道を往復する間、一人歩む私を、ピンクの秋海棠が包み込むように迎えそして見送ってくれたのがとても印象に残っています。日本人のアイデンティティを破壊することを目的とした四分の三世紀にわたる長い長い占領政策の下、日本人の伝統的な宗教生活はすっかり形骸化し、地方に残された物理的残滓(建造物など)も相次ぐ自然災害で消え去りつつあります。そしてこの度の作られたコロナ禍は、かろうじて観光により維持されてきた地方の宗教的文化の経済的基盤を破壊し尽くすことになるでしょう。それにしても辛うじて日本古来の宗教的基盤が残されている今のタイミングで生を受け、こうした方面に目を向けるべく天より仕組まれた人生を歩むことができた私は、とても幸運であったと思います。