四本龍寺と本宮神社~紅葉の日光遠征記2018(その3)~

四本龍寺と本宮神社~紅葉の日光遠征記2018(その3)~

「紅葉の日光遠征記」第三回目の今回は、勝道上人による日光開闢の聖地である「四本龍寺(しほんりゅうじ)」と「本宮神社(ほんぐうじんじゃ)」をご紹介します。
日光開闢の時点での両者の関係はというと、先に「四本龍寺」が出来て後、その鎮守として「二荒山神社(現在の本宮神社)」が創立されたという経緯から、「二荒山神社(現在の本宮神社)」は「四本龍寺」に包含されていました。
「二荒山神社(現在の本宮神社)」が現在のポジションに収まるのは、後に慈覚大師円仁和尚が本地垂迹説による日光山の再編を行い、本地仏が応現した権現神を祀る社として「二荒山神社(新宮)」「本宮神社」「滝尾神社」の地位が確定されてからのこととなります。

◆四本龍寺縁起◆
第一回「神橋(しんきょう)付近~紅葉の日光遠征記2018(その1)~」でご紹介したように、天平神護2年(766年)に大谷川を渡った勝道上人は、大谷川北岸に庵を結びました(現在の「唯心院」の場所です)。「唯心院」の境内に現在も残る「礼拝石」で勝道上人が一心に念誦していると、東の方に紫の雲が立ち上るのが見えました。その紫雲が立ち上った場所が現在の「四本龍寺」境内にある紫雲石です。

そして、この場所にこの吉祥より名を取った「紫雲立寺(しうんりゅうじ)」を創立しましたが、何時からか四神(青竜・白虎・朱雀・玄武)相応の地であるとして「四本龍寺(しほんりゅうじ)」の漢字を当てはめるようになりました。

◆本宮神社縁起◆
「二荒山神社別宮・本宮神社」は、延暦九年(790年)に勝道上人により「四本龍寺」内の鎮守「二荒山神社」として創立されました。当初は、二荒山(男体山)をお祀りしておりましたが、嘉祥元年(848年)に第三代天台座主・慈覚大師円仁和尚が来山し、滝尾山麓に阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を祀る「本地神宮寺(現在の輪王寺・三仏堂の起源)」を創立した際に、「二荒山神社」の名は新たに二荒山(男体山)をお祀りすることになった「新宮」に譲り、改めて馬頭観音の応現である「太郎山権現」=「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」をお祀りする「本宮大権現」として位置付けられ、現在に続いています。

神橋から本宮神社へ

神橋の隣の生活道路・日光橋を北岸に渡った正面に、本宮参道の入り口があります。

参道右側には「下野国一之宮・二荒山神社・別宮・本宮神社」の社銘碑が建っています。

また、参道左側には「史跡探勝路・神橋~滝尾神社」の道標が建っています。この参道を抜け開山堂前に出るコースが滝尾神社への最短ルートとなります(「滝尾神社への道~紅葉の日光遠征記2018(その2)~」参照)

本宮神社参道は、石段から始まります。正面に少し斜めに見えるのが「別宮本宮神社鳥居(重要文化財)」です。

本宮神社鳥居には、石段を登りきり鳥居に向かって左手からも別の参道が来ています。

この参道沿いに「本宮カフェ」という和系スイーツを出してくれるお店がありまして、入ってみたかったのですが、流石に午前6:30には開いていませんでした。

本宮神社

鳥居の手前には手水舎があり、手水鉢には「水盤石」と刻んでありました。

拝殿(重要文化財)はこんな感じです。もとの建物が「貞享の日光大延焼」で焼失後、貞享二年(1685年)に再建されたもので、禅宗様の色が濃く、残念ながら創建の頃の様式を窺い知ることは難しいようです。

拝殿の脇からは唐門と透塀が見え、さらにその奥に「四本龍寺」の三重塔が聳えています。

朱色が鮮やかな「唐門及び透塀(一体として重要文化財)」は、贅を尽くした東照宮や輪王寺・大猷院の諸門と比べると質素ではありますが、江戸時代の輪王寺・堂宇の流れを汲んた形状となっています。拝殿と同じく「貞享の日光大延焼」で焼失後、再建されたものです。

ひとつ残念だったのは、左右の門柱に掲げられた風神・雷神の着色イラスト付きの粗末な竹簡のことです。重要文化財に指定された為に、建物の形状を変更できないという事情があるにしても、重厚な歴史を背負った本宮神社に相応しいものとはとても思えませんので、何とかならないものでしょうか・・・。

「味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)」を祀る「本殿(重要文化財)」は、正面のみ彩色されていますが他はシンプルな弁柄塗で、拝殿同様に簡素な造りです。
拝殿と同じく「貞享の日光大延焼」で焼失後、再建されたものですが、滝尾神社本殿と同様に裏手にも扉があり、ここを開けると男体山が遥拝できる構造になっています。新宮ができるまで間、二荒山(男体山)をお祀りしていた頃の名残と思われます。

本宮神社の原信仰の名残としては、「笈掛石(おいかけいし)」があります。勝道上人が笈を立て掛けて休息した場所とされています。

これは「こぶをなでると、喜びが廻って来る」という「こぶ杉」です。何かの理由で幹の下部を残して切断されていますが、まだ小枝を伸ばしています。

さらに、本殿透塀の向かって左に「開運笹」があります。その名の通り、この笹に触れると開運のご利益があると云われます。

四本龍寺

聖地・日光のルーツと云われるのが、この「四本龍寺」です。本宮神社とは敷地が一体化しており、特に独自の山門はありません。
一番目立つのが「三重塔(重要文化財)」です。暗殺された鎌倉幕府三代将軍・源実朝の供養のため、現在の東照宮・鐘楼付近にあった二荒山神社・新宮内に建立されたものを、後にこの地に移築しましたが、「貞享の日光大延焼」で焼失したため、翌貞享二年(1685年)に再建され現在に至ります。

「四本龍寺」境内のもう一つの建築物が、勝道上人が千手観音を祀ったという「観音堂(県指定文化財)」です。他の堂宇と異なり、白木のままで塗装されていないため古びて見えますが、他と同じく「貞享の日光大延焼」で焼失後に再建されたものです(右側面からのカットしかなくて恐縮です)。
現在は下野三十三観音巡りの第3番札所となっており、札所本尊の千手観音のご朱印は、輪王寺・大護摩堂で頂けます。

「三重塔」と「観音堂」の間にあるのが、野天に造られた不動明王の護摩壇です。こちらは、日光修験道の遺跡であり、かなり古いものです。裏手に写っているのは日光幼稚園です。

四本龍寺で最も重要な史跡が、先に紹介した「紫雲石」です。最初の写真の右下に角が見えるのがそれで、二枚目の写真が「紫雲石」の全体を写したものです。

ご朱印

本宮神社のご朱印は、二荒山神社・本社で頂けます。

最後までご覧いただきありがとうございました。京都・鎌倉の政治的な思惑、日光山内の権力の変動、度重なる火災等により、「四本龍寺」「本宮神社」境内の勝道上人による日光開闢の事蹟は、その片鱗を「紫雲石」と「笈掛石」あたりに残すのみですが、今回は上人と同じ「空間」を共有できただけで、とても幸せです。

ギャラリー

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