鎌倉・建長寺◆境内散歩(その1)◆天下門・総門・三門・鐘楼
- 2019.04.30
- 境内散歩
鎌倉で一番有名なお寺は?と尋ねられれば、まず一番に挙げられるのは鎌倉五山第一の格式を誇る建長寺でしょう。塔頭の数は同じ北鎌倉の円覚寺に譲るとしても、敷地面積・主要建造物の充実度に勝り、仏教史から見ても円覚寺の兄貴分といった位置付けになります。蘭渓道隆を開山に迎えて建長五年(1253年)に 北条時頼により開創された建長寺は、鎌倉で最初の純粋禅の道場です。当時、京都には建仁寺がありましたが、この時点では真言宗・天台宗・禅宗の三宗並立の寺院で、 禅宗寺院として確立されるのは、建長寺開山の後に蘭渓道隆が上京し住持を務めるようになって後のことでしたので、建長寺は、京・鎌倉という当時の政治的中心都市では初めての純粋禅の道場でした。
なお建長寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒建長寺
境内図
建長寺・境内散歩初回の今回は、建長寺バス停前の「天下門」から「総門」を経て「三門」「鐘楼」に至る付近をご紹介したいと思います。
天下門
現在の建長寺・総門前は駐車場となっており、築地塀に囲まれています。もともとその築地塀の東西には外門が設けられていましたが、 関東大震災で倒壊してしまいました。今は「建長寺」」バス停横にある西外門だけが存在しており「天下禅林」の扁額が掲げられていることから「天下門」と呼ばれています。この扁額は、明の竹西(ちくさい)の筆と云われており、模刻が法堂にあります。
この「天下門」は、昭和59年(1984年)に川崎市・香林寺を中心とした有志により寄進・再建されたもので、天下門を入った左手に「天下門再建之碑」があります。
「臨済宗五山第一建長寺」と刻まれた寺銘碑の脇には、大きな境内図があります。
なお東外門があった場所は、現在は県道からの駐車場入口となっており、左手に「五山第一 建長寺」と刻まれた寺名碑があり、その左側面には「天下禅林 海東法窟」と彫られています。
この碑の中の「海東法窟」の文字は東外門扁額の題字です。元々東外門に掲げられていた明の竹西(ちくさい)の筆による扁額そのものは、現在、法堂の扁額となっています。
総門前駐車場
総門前の駐車場は、乗用車を30台ほど収容できるスペースがあり、イベント会場としても利用されています。宝物風入の時は、こんな感じ。
東の端に、建長寺境内にある文学碑の案内板があります。
井上剣花坊・川柳碑 | 咳一つ きこえぬ中を 天皇旗 |
柳下湖麿・歌碑 | 雪の色 風の響きも 其儘か 釈迦の姿と 御声なり |
石塚友二・句碑 | 好日や わけても杉の 空澄む日 |
早朝、駐車場から総門付近を見るとこんな感じ。
総門(惣門)
鎌倉期の総門は大型の八脚門でしたが、その後の火災や地震で何度か再興されています。現在の総門は、明治の廃仏毀釈まで、歴代天皇の御位牌を奉安していた京都・今出川の名刹・般舟三昧院(はんじゅさんまいいん)の正門を移築したものです。なお現在の建長寺・方丈も、般舟三昧院の講堂を移築しています。
総門には中国・元からの渡来僧で建長寺十世となった一山一寧(一山国師)筆の「巨福山」の山号額が掲げられていますが、なぜか「巨」の字の下横棒の上に点が打たれています。この点を加えたことで「巨」の字の重みが増し、百貫に値するとされたことから「百貫点」と呼ばれています。
正月には、初詣の参拝客を迎える幔幕が張られます。北条得宗家と同じ寺紋「三ツ鱗(みつうろこ)」が大きく染め抜かれています。
閉門後の総門の内側は、こんな感じ。閉門後は、総門西側の脇門より退出できます。
雪の日は、直ぐ近くの「三門」の屋根も霞んで見えて、境内に奥行が感じられます。
受付近辺
総門を潜ると正面に「三門」、右手に「受付」、左手に「ご朱印所」が見えます。
「三門」に向けて真っ直ぐに伸びる参道の石畳の両脇を庭園と見立て、立派な庭石が並びます。
満開の頃、この付近には見事な桜の隧道が出来上がります。
この付近では、桜以外にも季節毎に様々な花が楽しめます。
三門(山門)
「三門」とは「三解脱門」の略称であり、「三種の禅定(空解脱・無相解脱・無願(無作)解脱)」=「解脱に至る三つの関門」を、物理的仮象としての「建長寺の山門」に仮託した表現です。現在の「三門」は、安永四年(1775年)に「狸和尚」の伝承で知られる二百一世「万拙碩誼(ばんせつせきぎ)」によって再建されたもので、高さ約30m、一層目間口約13m と東日本最大の三間二重門として知られます。なお一層目間口では約16mある光明寺の山門が鎌倉で一番となります。
◆狸和尚
二百一世「万拙碩誼(ばんせつせきぎ)」和尚は、三門の再建のため各地を巡っていましたが、この話を聞いた古狸が、これまでお世話になったお礼にと和尚に化けて托鉢の旅に出ました。順調に托鉢は進んだのですが、途中、食事や入浴の様子を怪しまれ、けしかけられた犬にかみ殺されてしまいました。しかしその死骸の傍らには集めた三十余両の大金が残されており、三門の復興に役立ったとのことです。
「三門」の扁額には十一世・西礀子曇(せいけんしどん)の筆 と云われる「建長興国禅寺」の題字が掲げられ、額装の墨書には「天文八亥六月廿三日、雪下大工左衛門大夫信吉」とあります。なお題字については、後深草天皇御宸筆とも云われています。
非公開の二階には、鎌倉市指定文化財とされている鋳銅製の「釈迦如来坐像」「五百羅漢像」の他、木造「十六羅漢像」が安置されています。また1月15日と7月23日には、三門楼上で、これら羅漢を供養する「羅漢講式」が修されます。
「三門」の下には「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ) 」像が置かれ、傷病者が自分の悪いところと同じ部位を撫でると治るという「なでぼとけ」として親しまれています。なお、びんずる様は、閉門後は仏殿にお入りになり、開門までに三門下にお出ましになります。
夕日に照らされ、神々しく輝く三門です。
修行僧の厳しさを象徴しているかのような雪の日の三門です。
桜の頃は、様々な撮影ポジションが楽しめます。
鐘楼
建長寺の鐘楼は、風情ある茅葺屋根が特徴的です。建長寺の鐘は、文学上の題材ともされ、狂言「鐘の音」ではこの鐘が主要な役割を担っていますし、正岡子規の名句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」は、夏目漱石が建長寺の鐘をモデルに詠んだ「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」にインスパイアされたものです。
北条時頼に寄進された国宝の梵鐘は、建長七年(1255年)・大和権守物部重光の作で、建長寺に創建当初から伝わる貴重な品です。銘文は蘭渓道隆によるもので、鎌倉三銘鐘(建長寺・円覚寺・常楽寺)の一つとされています。また、その鐘の音が人の泣声にも聞こえることから「夜泣き鐘」とも呼ばれています。
最後までご覧いただきありがとうございました。これから数回に分けて建長寺をご紹介する予定です。
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