鎌倉・建長寺の塔頭(後半)~妙高院・宝珠院・同契院・華蔵院・長寿寺・円応寺~

鎌倉・建長寺の塔頭(後半)~妙高院・宝珠院・同契院・華蔵院・長寿寺・円応寺~

前回に引き続き建長寺の現存する塔頭・十二院を順にご紹介しますが、後半となる今回は、妙高院・宝珠院・同契院・華蔵院・長寿寺・円応寺を取り上げさせて頂きます。江戸時代初期の建長寺は、 長谷地区の寺院に大きな影響力を持っていたようで、今回ご紹介する塔頭の中でも「宝珠院」は当時の「長谷観音」を管理しており、「円応寺」はもともと長谷にあったものを最終的に現在の場所に引っ張ってきました。さらに長谷の鎌倉大仏で有名な高徳院のご住職の講話でお聞きしたところによると、大仏像の背中にある扉は明治まで建長寺が管理していたそうです。

なお建長寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒建長寺

境内図

妙高院(みょうこういん)

総門を入ったすぐ右手の小高い場所にある妙高院は、建長寺二十八世「肯山聞悟(こうざんもんご)」諡号「覚海禅師(かくかいぜんじ)」の塔所として、貞和二年(1346年)頃に開創された建長寺・大覚派の塔頭で、現在は鎌倉三十三観音霊場・第27番札所をお務めです。妙高院の石垣の前は、もともと七堂伽藍の「浴室」があった場所で、妙高院墓地に入る脇門前のマンホールが当時の井戸の跡だそうです。覚海禅師は、肥前の出身で、鎌倉・長勝寺の住持を務めた石庵旨明(せきあんしみん)の法嗣です。肥前の三間寺(鎌倉・建長寺、京都・南禅寺と共に日本三興国禅寺の一つとされる円通寺の前身)の住持を務めた後、師の石庵旨明が開山した京都嵯峨・西禅寺、さらに相模・善福寺(現在は廃寺。浄土真宗の同名の寺院とは異なります。)を経て、建長寺二十八世となりました。優れた学僧として知られ、今は失われた「建長興国禅寺碑」の碑文を撰しました。

なお妙高院のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒妙高院

また妙高院の境内の様子等をご紹介した投稿記事があります。
⇒妙高院◆鎌倉・建長寺・境内散歩◆

山号 若昇山(じゃくしょうざん)
御本尊 宝冠釈迦如来
開山 肯山聞悟(こうざんもんご)
覚海禅師(かくかいぜんじ)・大覚派
生没年不詳
寺宝・文化財 御本尊・宝冠釈迦如来坐像(寄木造玉眼入)、鎌倉三十三観音霊場27番札所本尊・聖観音菩薩坐像(市文)、木造乙護童子立像、木造肯山聞悟坐像

宝珠院(ほうじゅいん)

建長寺境内の東側・龍峰院の南隣にある宝珠院は、建長寺三十五世・了堂素安(りょうどうそあん)・本覚禅師の塔所として正平四年(1349年)に開創されました(開基は、足利尊氏の重臣・畠山国清)。本覚禅師は、博多出身で、蘭渓道隆直系の同源道本(どうげんどうほん)の法嗣として、鎌倉では東勝寺・寿福寺に住した後、建長寺に入りました。 宝珠院の御本尊は、もともと地蔵菩薩でしたが盗難にあったため、天源院と龍源院が合併した際に、 天源院より現在の御本尊の釈迦如来を譲り受けたそうです。また、江戸時代の初期には宝珠院が長谷観音を管理しており、当時の長谷観音の棟札を宝珠院住持が書いている他、宝珠院に「長谷寺相続次第」という文書が残されています。

山号 竹園山(ちくおんざん)
御本尊 釈迦如来
開山 了堂素安(りょうどうそあん)
本覚禅師・大覚派
正応五年(1292年) – 延文五年(1360年)
寺宝・文化財 御本尊・木造釈迦如来坐像、木造了堂素安坐像

同契院(どうけいいん)

嵩山門脇にある同契院は、建長寺三十一世・象外禅鑑(ぞうがいぜんかん)・妙覚禅師の塔所です。妙覚禅師は、肥前の人で、円覚寺大仙庵で円覚寺四世・桃渓徳悟(とうけいとくご)に師事し、円覚寺二十三世をお務めの後、建長寺に住しました。そうした経歴から建長寺住持を退いた後は円覚寺境内に「同契庵」を結んでおられたのですが、禅師の死後「同契庵」が火災に遭ったため現在の禅居庵の北側に一度移転し、さらにその後現在の場所に移ってきました。

山号 なし
御本尊 十一面観音菩薩
開山 象外禅鑑(ぞうがいぜんかん)
妙覚禅師・大覚派
弘安二年(1279年) – 正平九年(1355年)
寺宝・文化財 御本尊・十一面観音菩薩像(寄木造・玉眼入)、木造古先印元坐像

華蔵院(けぞういん)

県道を挟んで長寿寺の向かい側にある小路を直進すると狭い石段があり、その先が華蔵院です。 華蔵院は、建長寺六十世伯英徳俊(はくえいとくしゅん)の塔所で、元々は龍峰院参道石段の右手石垣上にある華厳塔付近にあったのですが、後に保寧寺跡とされる現在の場所に移転しました。伯英徳俊は武蔵の人で、宝珠院開山の了堂素安に師事した後、渡元し永和二年(1376年)に帰国しました。その後、臨済宗僧侶としての王道を行く栄達を遂げ、建長寺西来庵塔主を皮切りに、浄妙寺住持、円覚寺五十世、建長寺六十世、京都・天龍寺住持、京都・南禅寺五十三世を務め上げました。華蔵院は、令和元年五月現在、雑木を伐採し 境内を造成整備している最中で、広い敷地には仏旗が掲げられたご本堂があるだけで殺伐としていますが、完成が待ち遠しい限りです。御本尊は、ブータンより招来した釈迦如来坐像で、日本の仏像よりスマートな造りが特徴的です。

山号 なし
御本尊 釈迦如来
開山 伯英徳俊(はくえいとくしゅん)
青岳遺老・大覚派
? – 応永十年(1403年)
寺宝・文化財 御本尊・釈迦如来坐像(木造)

長寿寺(ちょうじゅじ)

建長寺天下門を出て県道21号線を北鎌倉方面に200mほど進んだ左手にある長寿寺は、開基・足利尊氏とされていますが、実質は鎌倉公方・足利基氏が、父・足利尊氏の菩提を弔うために、後に建長寺三十八世となる古先印元(こせんいんげん)を開山に招いたお寺です。 古先印元は薩摩の人で、円覚寺の桃渓得悟(とうけいとくご)に師事した後、渡元して中峰明本に学び、建長寺二十二世・清拙正澄(せいせつしょうちょう)の来日にあわせて帰国し、建長寺・経蔵の管理を任されました。さらに足利一族からの信頼を得て、甲斐・恵林寺住持、京都・等持寺開山等を務めた後、鎌倉では長寿寺開山、浄智寺住持、円覚寺二十九世、建長寺三十八世を歴任しました。幻住道人と号した中峰明本から直接の教えを受けた古先印元の隠遁的な禅風は「幻住派」と呼ばれ、関東を中心に広まりました。

なお長寿寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒長寿寺へ

また長寿寺の境内の様子等をご紹介した投稿記事があります。
⇒鎌倉・長寿寺◆境内散歩◆

山号 宝亀山(ほうきさん)
御本尊 釈迦如来
開山 古先印元(こせんいんげん)
幻住派
永仁三年(1295年)-応安七年(1374年)
寺宝・文化財 木造観音菩薩立像、木造古先印元坐像、木造足利尊氏坐像

円応寺(えんのうじ)

県道21号線を挟んで建長寺の向かい側にある円応寺は、建長寺の境外塔頭で、ご本尊の閻魔大王を始めとする「十王」が祀られていることから「閻魔堂」「十王堂」とも呼ばれ、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第八番札所、鎌倉十三仏の第五番札所をお務めです。 創建は建長二年(1250年)で、鎌倉大仏の南東側、甘縄神明社の裏山にあたる見越嶽(御輿ケ嶽)に建立されましたが、鎌倉幕府滅亡時の由比ヶ浜合戦の戦死者を弔うために、足利尊氏により、由比ヶ浜の滑川河口付近の荒居(新居)に移転され「荒居(新居)閻魔堂」 となりました。 しかしここも元禄十六年(1703年)に発生した元禄大地震による津波で壊されてしまい、翌宝永元年(1704年)に、建長寺の旧塔頭・大統庵の跡地である現在の場所に移転し、由比ヶ浜の故地名を山号にして新居山円応寺を名乗るようになりました。なお開山は、建長寺九世・桑田道海(そうでんどうかい)とされていますが、年代的に不自然なため、後世の創作ではないかと思われます。

なお円応寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒円応寺

また円応寺の境内の様子等をご紹介した投稿記事があります。
⇒鎌倉・円応寺◆境内散歩◆

山号 新居山(あらいざん)
御本尊 閻魔王
開山 桑田道海(そうでんどうかい)
大覚派
生年不詳-延慶二年(1309年)
寺宝・文化財 閻魔大王坐像(重文)、初江王坐像(重文)、俱生神坐像(重文)、檀拏幢(だんだとう)(重文)、鬼卒立像(重文)、奪衣婆(だつえば)坐像(県文)、

最後までご覧いただきありがとうございました。前回及び今回ご紹介した十二院は、数百年に亘り折重なった建長寺塔頭興亡史の令和元年五月時点での断面に過ぎず、改めて建長寺クラスの大寺院が持つ歴史の重みを感じさせて頂きました。