筑波山・大御堂◆坂東三十三観音霊場(第二十五番)参拝◆
- 2024.10.30
- 坂東三十三観音霊場参拝
筑波山・大御堂は、茨城県つくば市にある真言宗豊山派のお寺で、坂東三十三観音霊場の第二十五番札所をお務めです。大御堂の前身に該る旧・筑波山知足院中禅寺は、開山・徳一上人以来、男体山・女体山の両筑波山をご神体とした筑波山大権現の本地仏である千手観音をお祀りする大寺院として栄えて来ました。江戸期になりますと、徳川将軍家の祈祷を担うようになり、将軍家光公の時代には七堂伽藍が整備された他、江戸にも「知足院・別院」が開かれました。
さらに、将軍綱吉とその母・桂昌院の寵愛を得た知足院十一世・隆光大僧正の時代には最盛期を迎え、寺領1500石、18子院、住僧300人の隆盛を誇りました。
しかし明治の神仏分離令により、多くの仏教系施設は破却され、旧中禅寺の境内に残った神道系の施設を中心として新たに筑波山神社が創設され、祭祀はこちらに引き継がれました。仏教系の流れは、明治五年(1872年)に廃寺となったことで一旦途絶えましたが、昭和5年(1930年)には、東京・護国寺の別院・大御堂として、旧本坊(知足院)付近に再興され、その後昭和36年(1961年)及び令和2年(2020年)の再建を経て現在に至ります。
なお大御堂のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒大御堂へ
大御堂の魅力
◎筑波山大権現のご神体として神代より関東平野にそそり立つ霊峰・筑波山
◎江戸幕府祈願所として隆盛を極めた筑波山中禅寺の変転の歴史
◎筑波山知足院の院代を務め「三十三所坂東観音霊場記」を著した坂東三十三観音霊場の大先達・亮盛師
境内図
筑波山神社大鳥居
こちらに見える筑波山神社の赤い大鳥居を潜ると、筑波山神社の参道に入ります。この大鳥居は、昭和54年(1979年)に建立されたもので、柱間15m、全高17mという大きな神明鳥居です。
この参道の少し進んだ左手に大御堂正面の石段が見えてきます。
寺号標
こちらが、大御堂と客殿の実際の落成に先立ち、それを記念して平成30年(2018年)に立てられた寺号標です。
石段
100段あまりの石段を上がった正面が、大御堂のご本堂・観音堂です。このあたりは江戸期まで、中禅寺の本坊・知足院の敷地でした。江戸期の呼び名は筑波山知足院中禅寺となっていますので、「知足院」といえば単に院号だと受け取られがちですが、寺院の本堂以下の伽藍≒現在でいう筑波山神社を指す言葉としては「中禅寺」が用いられ、その寺務を司っていた本坊を指す固有名詞として「知足院」という言葉が使用されていました。
筆塚
こちらは、平成16年(2004年)に建てられた筆塚です。揮毫は、地元老舗旅館「筑波山江戸屋」の女将で、「ガマの油売り口上」19代名人の故・吉岡久子さんです。
華塚
こちらは、華塚で、華道家元・四十五世・池坊専永氏の揮毫です。
スダジイ(ご神木)
大御堂の境内には三本のスダジイがあり、樹齢約400年と推定される最大のスダジイは、樹高が20メートルあります。
札所標石
こちらの「坂東二十五番札所 筑波山大御堂」とある札所標石は、昭和47年(1972年)に、百観音霊場巡拝を結願された信者の方より寄進されたものです。
納札塚
霊場の巡礼者には、参拝の印として生国と氏名を記した千社札を堂宇に貼り付ける風習がありました。こうした納札塚もその流れとなります。
祖師堂
弘仁年間(810年~823年)に弘法大師・空海が来錫し、中禅寺に真言密教の道場が開かれたと伝えられていますが、こちらは開山・徳一上人と弘法大師を併せてお祀りする祖師堂です。
もっとも開山・徳一上人は法相宗で、さらに平安中期から室町期にかけては天台宗でした。その後、常陸南西部における新義真言宗の広がりに応じ、中興・元海上人が天台宗より真言宗へ改宗して以降、真言宗のお寺となりました。
鐘楼
明治五年(1872年)の廃仏毀釈の折、旧鐘楼が慶龍寺(現・つくば市泉)に移築されて後、長らく鐘楼を欠いておりましたが、平成13年(2001年)に現在の鐘楼が完成しました。
梵鐘の撞座の上には「南無大師遍照金剛」とあります。
観音堂(ご本堂)
現在のご本堂は、間口8間の標準サイズですが、江戸期のご本堂は、現在の筑波山神社の本殿の位置にあり、18間四面(32m四方)という巨大なものでした。ちなみに鉄筋コンクリート造の巨大な現・浅草寺本堂でも間口34.5m、奥行32.7mでしかなく、ほぼ同一規模の木造建築物がこの地にあったということになります。
この巨大なご本堂は、明治の廃仏毀釈の折、残念ながら破却され、その後長らく再建されることなく、ようやく昭和5年(1930年)になって現在のご本堂付近に民家風のご本堂が建てられましたが、このご本堂も昭和13年(1938年)に山津波に流されてしまいました。
再びご本堂が建てられたのは昭和36年(1961年)のことで、茨木県藤代町の民家が移築されました。現在のご本堂が新築されたのはつい最近の平成2年(2020年)のことで、私が初めてお参りした時は、建て替えのため以前のご本堂が解体され更地となっておりました。
総白木のご本堂は、寺社建築も手掛ける仏具の「翠雲堂」の施工によるもので、外観もさることながら内陣の天蓋や幢幡は、修復したばかりのご本尊・千手観音と一体となり、極楽浄土世界が降りて来たかのような輝きを放っています。
また、本堂左手が納経所になっており、ご朱印を頂戴できます。
正面には大悲殿の扁額が掲げられています。こちらは護国寺第五十四世貫首・小林大康大僧正の筆によります。
こちらの天水桶も新調されたものです。
こちらの鰐口は、吊り金具類が新調されています。
鬼板には、徳川将軍家より許された三つ葉葵が輝きます。
金具類はミニマムではありますが、要所要所に輝きを放ちます。
ご本尊・千手菩薩
こちらは、ご本堂新築に合せて修復されたご本尊の千手菩薩様です。こちらのご本尊は、明治5年(1872年)の中禅寺打ち壊しに際して、中禅寺・本堂(千手堂)付近にあった廃寺・古通寺に移され難を逃れました。古通寺は江戸期まで普化宗の寺院(虚無僧寺)でしたが、明治期に太政官布告により普化宗が禁止されたため廃寺となっていました。
その後も地元有志により長らく保管されておりましたが、昭和5年(1930年)になり、護国寺持仏堂が再建され、そちらに安置されることとなりました。この頃までは、千手観音の表面は金箔に覆われ、光り輝いておられたそうです。
しかし、その持仏堂が昭和13年(1938年)の水害で流された際に金箔が剥がれ落ち、その後80年以上黒い下地そのままのお姿でしたが、ようやくこの令和二年の修復により、再び金色に輝く本来のお姿を取り戻されました。
また、ご本尊の胎内仏は、明治五年(1872年)の打ち壊しの影響で、ご本尊より取り出され、現在は茨城県坂東市の萬蔵院に伝わっています。
阿弥陀如来像・観音菩薩像
向って左手が、阿弥陀如来様、右手が観音菩薩様です。元々は阿弥陀如来像の向かって左側に、勢至菩薩像があり、阿弥陀三尊像を形作っていたのではないでしょうか。
観音堂落慶記念石柱
新本堂再建の記念碑として、令和2年(2020年)に建立されました。
客殿
ご本堂に向って左手に見える建物は、ご本堂と同時に落成した客殿です。
私が二度目にお参りした際には、八月十八日の万灯会の準備が進められていました。毎月十八日は観音様のご縁日です。
観音堂建設中の様子
ご本堂建設着工直前の敷地を見上げた写真です。
初めてお参りしたこの時はご本堂が未完成でしたので、落成後にまたお参りしようと思っておりましたが、実際にお参りするまで5年ほどかかってしまいました。
工事中は、石段途中左手の平地にプレハブの納経所が仮に建てられていました。
納経所には、ご本尊・千手観音のお写真と法具が整えられていました。この頃は、千手観音像の修理が進められていました。
筑波山下畫圖
こちらは、宝暦五年(1755年)に製作された「筑波山下畫圖」です。江戸中期の筑波山中禅寺の様子が極めて詳細に描かれており、その敷地と建物の配置は、現在の筑波山神社の境内と重なります。
旧中禅寺仁王門(筑波山神社随神門)
現在の筑波山神社の随神門は、旧中尊寺の仁王門で、現在の建物は文化八年(1811年)に再興されたものです。つくば市の文化財に指定されています。
旧中禅寺仁王門にいらっしゃった仁王様は、現在、つくば市松塚の東福寺仁王門に収まっておられます。
光譽上人五輪塔
光誉上人は、慶長十六年(1611年)に大和国・長谷寺梅心院より来山し、知足院血脈法流2世となりました。後に江戸常在府を命ぜられ、徳川将軍家との繋がりを深めた中禅寺中興とされています。筑波山名物とされ、売り子の口上でも有名な「ガマの油」は光誉上人が用いた陣中薬と云われています。
明治五年(1972年)に中禅寺が取り壊された際に、他の歴代住職の墓碑は全て破却されてしまいましたが、光譽上人五輪塔だけは難を逃れました。現在の筑波山神社境内に残されている数少ない仏教の痕跡です。
金剛力士像(大倉集古館)
東京都港区の大倉集古館入口の両脇に置かれているこちらの金剛力士像は、もともと筑波山春日社にあったものと云われ、大倉財閥創始者・大倉喜八郎が蒐集したコレクション目録の先頭に記されているものです。筑波山下畫圖を見ると春日社と山王社には今でいう随身門を兼ねた共通の拝殿がありますので、その両脇に置かれていたのではないでしょうか。
旧中禅寺鐘楼(慶龍寺鐘楼)
つくば市泉・慶龍寺の鐘楼は、中禅寺の伽藍が破却された折に、移築されたものです。
江戸における筑波山知足院の足跡
紺屋町
慶長7年に徳川家康より寺領500石を賜った筑波山知足院血脈法流1世・宥俊の代に、現在の千代田区神田紺屋町あたりに筑波山知足院の護摩堂が江戸別院として置かれました。
さらに二代将軍・徳川秀忠の乳母の子と云われる2世・光誉の代になると、知足院の院主は江戸在府となり、筑波山知足院には、院代が置かれるようになりました。
「三十三所坂東観音霊場記」を著した坂東三十三観音霊場の大先達・亮盛師は、この院代をお勤めでした。
旧湯島切通町
貞享三年(1686年)知足院11世・隆光の代になって、江戸の知足院は、湯島に移されました。下の写真はその旧地にあたる湯島の切通公園です。
湯島切通町の春日通りを挟んだ向かい側が、湯島天神となります。
護持院跡
徳川綱吉の母桂昌院の寵を受けた知足院・隆光は、幕府の許しを得て、元禄元年(1688年)に知足院別院を湯島から江戸神田橋外に移転し護持院と改めました。また大僧正に就任すると共に、新義真言宗僧録となり、京都・智積院、大和・長谷寺を凌ぐ権勢を誇りました。
しかし享保二年(1717年)に護持院は焼失し、跡地は火除地とされたため、同じ場所への再興は許されませんでした。この故地は、護持院ケ原と呼ばれ長らく空地のままでしたが、明治以降は開発が進み、現在では「錦三会児童遊園」内に「ごじいんがはら跡」との石碑が建つのみとなっています。
護国寺
神田橋外を焼け出された護持院は、現在の文京区大塚にある護国寺の境内に移転しました。それ以降、本坊方を護持院、本堂方を護国寺に振り分けて、護国寺住職が護持院住職を兼務することとなり、知足院は「大本山護国寺別院筑波山大御堂」となりました。
ご本堂
こちらの写真は護国寺・本堂です。
惣門
こちらが、本坊(=護持院)に向う惣門です。大名屋敷の表門の様式を備えているのは、五代将軍徳川綱吉公やその母・桂昌院をお迎えするためです。
銅製地蔵菩薩像
こちらの銅製の地蔵菩薩像は、中禅寺より移されたものです。
筑波山銅製金剛力士像(一人仁王)
こちらの金剛力士像も元々は中禅寺のもので、古くから「一人仁王」と呼ばれており、筑波山黒門跡にその台座が残されています。対となるはずの阿形の仁王様が何故ないのかは不明です。
筑波山大仏
こちらの銅造毘盧遮那仏坐像 は、一度霞ヶ浦に廃棄されていたものを、改めて護国寺が引き取り、お祀りしたものです。
銅製多宝塔(瑜祇塔)
こちらは「瑜祇塔(ゆぎとう)」と呼ばれている元筑波山の銅製多宝塔です。現在は音羽陸軍墓地にあり、日清日露戦没者の供養塔となっています。
最後までご覧いただきありがとうございました。現在の大御堂はコンパクトな佇まいですが、調べてみますと次から次へと厚みのある歴史が浮かんできました。
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