白華山・補陀落山寺(ふだらくさんじ)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第五回)~熊野三所大神社・補陀落渡海船
那智勝浦町にある白華山(びゃっかさん)・補陀落山寺(ふだらくさんじ)は、仁徳天皇の世にはるかインドから那智浜に漂着なさった裸形上人により開山されたと伝わる古刹です。 江戸期までは那智七本願の一つ「補陀落寺」として知られ、文化五年(1808年)に台風で倒壊するまで大伽藍を構えていました。もともとは真言宗でしたが、明治期に青岸渡寺の別院となって以降は、天台宗の寺院として存続しています。
実は私の地元の鎌倉にも「補陀洛寺」というお寺があるのですが、「補陀落」とはサンスクリット語で「ポータラカ」と呼ばれる聖山の音訳で、インド南部にあるとされ、日本の観音信仰の中でも南方にある観音浄土と位置づけられています。寺院建築に見られる八角堂が観音様をお祀りするお堂とされるのも、ポータラカ山が八角形とされていることに由来します。
なお、江戸期までは熊野那智山などと同じく、隣接する熊野三所大神社とは一体の神宮寺でした。
また、補陀落山寺の位置する那智浜は、本州南端近くに位置することもあり、南海の彼方の補陀落浄土に渡る補陀落渡海の聖地として、多くの渡海上人が旅立って行ったことで知られています。
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境内図
駐車場から見た境内
こちらは駐車場から眺めた補陀落山寺です。中央の大きな建物がご本堂で、左側の小ぶりな建物が渡海船収蔵庫となります。
「ふだらく山」石標
「左ふだらく山」と彫られた小ぶりな石標で、駐車場からご本堂正面の門柱に向う途中にあります。
ご本堂正面
門柱手前より、五色幔幕が張られたご本堂を撮影した写真です。この日、5月17日は、「春まつり」が執り行われていました。
実は関西方面で、しばらく前から予定されていた用事がありまして、その日程を組み立てる中、何故か「熊野にお参りしよう」と思い立ち、今回の一連の記事にある熊野詣となりました。
この日は、前夜から高速道路経由で熊野に入り、下調べが不十分な中、早暁より伊勢路経由でいくつかの寺社を巡っておりました。その流れで那智勝浦に至り、こうした特別な日だとは存じ上げないまま補陀落山寺へとお導き頂いた次第です。
案内板
こちらが、由来・ご本尊・補陀落渡海・年中行事等が記された案内板です。
こちらは、世界遺産認定応じて立てられた案内板で、ご本尊千手観音・熊野三所大神社・振分石について記載されています。
手水舎
手水舎には、小ぶりな手水石が置かれています。
燭台
こちらは、オーソドックスな風防ガラスつきの燭台です。
ご本堂
こちらは、平成二年(1990年)に再建されたご本堂です。「高床式四方流宝形型」と呼ばれる室町期によく用いられた様式で、施工は補陀落山寺の本寺・青岸渡寺の三重塔等を手掛けた金剛組です。
奥の宮殿の中に、ご本尊の三貌十一面千手観音像が安置されています。この日は5月17日の春まつりの日でしたので、ご開帳されています。両脇には持国天像と広目天像がいらっしゃいます。
三貌十一面千手観音像
こちらがご本尊の三貌十一面千手観音像です。平安後期の作で、国の重要文化財に指定されています。手元の資料で拝見した修復前の写真では、向背の周縁部はなく、多くの法具もお持ちではありませんでしたが、見事に蘇っています。
御開帳は、毎年1月27日の立春の節分会、5月17日の春まつり(渡海上人供養)、7月10日の護摩供・先祖供養と年3回あります。
聖観世音菩薩像・延命地蔵菩薩像
向って左側の聖観世音菩薩像は、昭和59年(1984年)に奉納されたもので、右側の延命地蔵菩薩像は、6年後の平成2年(1990年)に奉納されたものです。
奉納者は、長らくこの国にお住まいで、台湾から帰化なさった皆さんのようですが、徐福伝説に導かれてか、熊野の社寺には台湾系の方々からの寄進が多くみられます。
成仏なさり如来ともなれば、もちろん衆生救済を含む一切の欲望から離れていらっしゃいますが、観音様やお地蔵様は、敢えて成仏することなく衆生に寄り添いこの世に留まっておられます。
世界遺産登録記念碑
こちらの石碑には「世界遺産 補陀落山寺 補陀落渡海発祥の地」とあり、下方に南無阿弥陀仏の帆を上げた渡海船が描かれています。
納経碑
こちらの納経碑には、寛延三年(1750年)に六十六部の大乗経典を納経した旨、刻まれています。
伊勢平柿
那智勝浦町川関にある樹齢推定800年の伊勢平柿から接ぎ木したもので、しっかりと活着しているようです。
渡海上人供養塔
現在当寺の裏山には渡海上人の供養塔があります。
「補陀洛渡海宥照上人」など、いずれも「勅賜」と刻まれています。
補陀落渡海記念碑
こちらは平成4年(1992年)に建てられた「補陀落渡海記念碑」です。
補陀落山寺の東にある那智浜は、多くの補陀落渡海僧が補陀落浄土に旅立った場所として知られています。今の補陀落山寺は海岸から300mほど内陸にありますが、昔はすぐ近くが海岸であったようです。
意を決した渡海僧は、十一月になると、三十日分の水と食料、灯火の油を積み小ぶりな白帆を上げた渡海船に乗り込みます。渡海船は、伴船二艘に曳航されて綱切島まで進んで、北風を追い風に南海の彼方の観音浄土を目指しました。
「熊野年代記」によりますと補陀洛渡海は貞観十年 (868年)の慶龍上人に始まり、平安時代から江戸時代にかけて、こちらの記念碑に記されているだけでも二十五名の渡海僧が出帆しています。
◆金光坊の渡海
永禄八年(1565年)に渡海した金光坊は、渡海船から脱出し、後に金光坊島と呼ばれるようになった小島に流れ着きましたが、それに気づいた役人に海に投げ込まれて往生を遂げました。
この後は、生身のまま渡海することはなくなり、示寂したご住職の遺体を渡海船に乗せて送り出すという形に変化しました。
こうした補陀落渡海という行を通して涅槃に達する僧がいらっしゃった可能性も敢えて否定はしませんが、「仏教」という名の俗世間の掟に縛られての公開自殺なら、ただの「見世物」に過ぎません。金光坊のように悟りを志す者ですら、本来のお釈迦様の教えに接することなく生を終えてしまうのは、やはり現世は末法の世なのでしょうか。
補陀落渡海船
こちらが、平成5年(1993年)に復元製作された補陀落渡海船の模型です。全長は約6mで、中央にある入母屋造りの屋形の前後左右には鳥居型の死出の四門(発心門・修行門・菩薩門・涅槃門)が建てられ、忌垣がめぐらされています。 渡海上人が乗り込みますと、屋形の入口は釘付けされ、内部からは開けられないようになったそうです(心定まった渡海僧に対して、誠に失礼な行いですが・・・)。なお、この模型の製作は、熊野新聞社社主・寺本静雄さんのご発願によるものです。
熊野曼荼羅三十三ケ所霊場・第二十番札所標
熊野曼荼羅三十三ケ所霊場は、平成19年(2007年)に開かれた、とても新しい霊場で、その名の通り一番札所・闘鶏神社から三十三番札所・聖福寺までの33カ所の神社・寺院(主に禅宗)を織り交ぜて構成されています。
詳細は、次のサイトを御覧下さい。⇒熊野曼陀羅三十三ヶ所霊場霊場サイトへ
庚申塔
シンプルですが、存在感のある庚申塔でした。
熊野三所大神社
熊野三所大神社(くまのさんしょおおみわしゃ) は、熊野三社の各々の主祭神である夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三柱を主祭神とする神社です。
開創は欽明天皇の二十四年(563年)に遡り「熊野浜ノ宮」と呼ばれておりました。
江戸期までは補陀落山寺と一体でお祀りされていたのですが、明治の神仏分離令により明治6年(1873年)に村社として独立し、今の社号となりました。
例大祭は、2月14日の直前の土・日に斎行され、尾弓行事、獅子舞奉納、餅まき等で賑わいます。
下の写真にみえる木立は、古来、和歌にも詠まれた名所「渚の森」の名残です。続古今集「むらしぐれ いくしほ染めて わたつみの 渚の森の 色にいつらむ」衣笠内大臣
鳥居
歴代の渡海僧は、まず補陀洛山寺の御本尊前にて最後の護摩行を修し、続いて熊野三所権現にお参りしてから、周囲を埋め尽くす信者達に見送られつつ、鳥居をくぐって浜に出たそうです。
この日、熊野権現のお導きにより、不思議なご縁で補陀落山寺と熊野三所大神社にお参りした私が撮った鳥居の写真には、虹色のラインが浮かび上がっておりました。
手水舎
こちらは木造・銅瓦葺の手水舎です。水盤は自然石を刳り貫いたもので、龍の吐水口が付いています。
割拝殿
熊野地方の神社ではよく見られる形式の建物で、中央の屋根付きの通路を挟んで、左右に部屋を持っています。熊野三所大神社では、割拝殿と呼ばれているようです。
御本殿
木造檜皮葺・三間社流造の御本殿は、棟札によれば、慶安元年(1648年)に再建された後、享保十九年(1735年)紀伊藩主・徳川宗直公の代に修復されました。
内部は、大きく三部屋に分かれており、中央には女神・夫須美神、右側には
巾子冠を戴く家津御子神、左側には宝冠を戴く速玉大神が祀られていましたが、
昭和57年(1972年)に国の重要文化財に指定された後は、境内にある鉄筋コンクリートの重要文化財収蔵庫に収蔵されています。
丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)
こちらは、神武天皇が、那智浜に上陸した際に誅した地元の女性酋長・丹敷戸畔命(にしきとべのみこと)を地主としてお祀りする石宝殿です。
三狐神
こちらは食の神様「三狐神」をお祀りする石宝殿です。食の神様と云えば伊勢神宮・外宮の主祭神・豊受大神が有名ですが、普通名詞としては「御食津神(みけつかみ)」用いられることが多く、同時に様々な当て字が存在します。その一つとして「三狐神」という文字列が用いられ、「狐」の文字から稲荷信仰とも習合しています。
浜の宮王子社跡案内板
熊野三所大神社は、平安期に熊野三山信仰が成立するはるか前より「浜ノ宮」として信仰されておりましたが、仏教と習合した熊野三山信仰が体系化される中で、九十九王子社の一つ「浜の宮王子社」として位置づけられるようになり、「三所権現」「渚宮」とも呼ばれておりました。
大樟
この写真の角度からは重なり合って分かりにくいですが、鳥居の横には樹齢800年を数える二本の大樟が立っています。大きい方は幹囲7. 40m・樹高25mで、小さい方でも幹囲6. 93m・樹高22mもあります。
神武天皇頓宮跡
現在の那智浜は、神武天皇の大和入りの折上陸したといわれる丹敷浜で、浜の宮はその頓宮があった場所とされています。
振分石
浜の宮は、三本の熊野街道(中辺路、大辺路、伊勢路)が出会う場所で、振分石は、その目印として古来より立てられている標石です。300年毎に建て替えられる習わしとなっていたのですが、現在の標石は、万治元年(1658年)に建てられたまま、300年を超えて現存しています。
ご朱印
祭礼と行事
1月27日 | 立春大護摩供星祭 |
5月17日 | 春まつり |
7月10日 | 土用護摩供・お盆供養 |
アクセス
住所 | 〒649-5314 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町浜ノ宮348 |
電話 | Tel:0735-52-2523 |
URL | https://www.fudarakusanji.or.jp/ |
【公共交通機関】
JR紀勢本線・那智駅より徒歩5分程度
【車】
那智勝浦新宮道路・那智勝浦インターより県道43号線でJR那智駅方面へすぐ。
駐車場有(無料) 。
最後までご覧いただきありがとうございました。東南海地震もそう遠くない招来に起こると云われておりますし、そもそも私の今生がいつまで続くか定かではありません。もしかするとこの度のご縁が熊野に坐す神仏にご挨拶できる最後の機会であったのかも知れず、今回ご紹介させていただいた補陀落山寺への参拝を含め、兎にも角にも深いご縁に彩られた熊野巡礼でした。なお熊野遠征記はまだまだ続きます。
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