荏柄天神社◆境内散歩~日本三大天神・絵筆塚祭・針供養~
- 2024.08.09
- 境内散歩
学問の神様・菅原道真公をご祭神とする荏柄天神社は、鎌倉市の北東部・二階堂にあります。関東を中心に多くの分社を持つ古社であることから、京都・北野天満宮及び福岡・太宰府天満宮と共に日本三大天神に数えられ、教育熱心な日本国民の信仰を集め社殿の東西は合格祈願の絵馬で埋め尽くされています。
神社の開創は頼朝の鎌倉開府に先立つこと八十余年前に遡り、長治元年(1104年)八月のある日、晴天俄かに掻き曇り、雷雨の中、雲上に立つ黒い束帯姿の天神画像が降臨したことから、その画像をお祀りしたのが始まりとされています。
鎌倉期には、鎌倉北東の鬼門の鎮守として、歴代の鎌倉将軍・執権、さらには足利将軍家や小田原北条家から手厚い庇護 を受け、その後も豊臣秀吉及び徳川家康・秀忠より社殿造営、社領安堵の朱印下賜といった支援を得ています。
明治以降は、神仏分離令により鶴岡八幡宮寺の供僧が住持を務めていた別当寺の一乗院と分離して鎌倉宮宮司が兼務していた一時期を除き、鶴岡八幡宮との親密な関係は一貫しており、現在は鶴岡八幡宮の宮司兼務社となっています。
なお「荏柄」とは、旧地名「荏草(えがや)」の音より派生した名称で、特別な謂れがある訳ではありません。
なお荏柄天神社のご由緒、ご朱印、年中行事、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください 。
⇒荏柄天神社へ
荏柄天神社の魅力
◎北野天満宮・太宰府天満宮と並び称される日本三大天神社の一社
◎正和五年(1316年)造営の鶴岡八幡宮・若宮を移築した鎌倉最古の建物である国の重要文化財・本殿
◎著名漫画家のサイン色紙が頂ける清水崑・横山隆一ゆかりの絵筆塚祭
◆菅原道真公
御祭神の菅原道真公は代々学問の家柄(文章博士)である菅原氏に生まれました。幼少の頃より優れた文才を発揮しただけではなく、遣唐使廃止の具申等で宇多上皇の信認を得て、下級貴族としては破格の従二位・右大臣にまで上り、国政を担いました。しかし当時の権門・藤原時平らの策謀により大宰府に流され、間もなくそこで生涯を閉じました。その後、都では疫病や異常気象など凶事が続き、藤原時平とその一門は何故か早世することが多かったことから、それが道真公の怨霊によるものと噂され、道真公の荒魂を鎮めるべく大宰府天満宮・北野天満宮が建てられて、道真公は、その御祭神として祀られることになりました。菅原氏の系統はその後も絶えることなく公卿(半家)として明治維新を迎え、子爵となっています。ちなみに藤原時平は、このブログでも随所に登場するキーワード「式内社」を定めている「延喜式」を編纂した方です。
荏柄天神社境内図
荏柄天神社図
こちらは、江戸期に描かれた「荏柄天神社図」(「新編鎌倉志」所収)です。参道右手には荏柄天神社の旧別当寺であった一乗院が描かれています。神門はありますが石段は描かれておらず、鳥居は一の鳥居のみで、境内には建物が三棟見え、中央には本殿・幣殿・拝殿が描かれています。なお、鎌倉宮は、この時代存在しませんので、鎌倉宮参道のお宮通りも描かれていません。
天神坐像(重要文化財)
荏柄天神社所蔵の重要文化財・天神坐像は、弘長元年(1261年)に荏柄天神社の神主・平政泰により造立されたもので、像高は83.5cmあります。銘文には「太政威徳天化現御正体(だいじょういとくてんけげんみしょうたい)」とあり、当初は、木製の五臓六腑が胎内に収められていたそうです。
一の鳥居
荏柄天神の一の鳥居は、社地の正面なのは確かなのですが、県道204号線沿いにあり、かなり距離がありますので、つい見落としがちになります。
一の鳥居に向って右手前に平成9年(1997年)に建てられた社号標があります。また左手には文政七年(1824年)に建立されたものを含む庚申塔が6基ならんでいます。
こちらは、現在、熊野権現社に上がる石段の下に建てられている石の鳥居ですが、実は、こちらが先代の一の鳥居となります。明和五年(1768年)に当時の別当寺一乗院の住職・権大僧都・法印意辯により建立されたもので、左柱の表には「金輪聖皇 天長地久 大樹幕下 御願圓満 五穀成就 万民豊楽所也」、右柱の表には「奉再興相〇鎌倉荏柄山天満宮石双華表」とあります。向かって左手の柱の半ばに亀裂が見えますように、一度笠木が落ち壊れており、現在の赤い鳥居が建立された際に、現在地に移築再建されました。
参道
一の鳥居から石段まで200m以上続く長い参道には、昔は松並木があったそうですが、現在は桜に植え変わっておりなかなかきれいなものです。
「天神前」バス停
こちらが、最寄りのバス停となる「天神前」です。鎌倉駅から大塔宮行のバスに乗って頂きますと「岐れ道」交差点から「お宮通り」に入って少し行ったところにあります。
ビャクシン
こちらは、二の鳥居の手前にある二本のビャクシンです。互いに交叉しておりまるで門のようです。右手前にある社号標は、昭和10年に洋鋼問屋・河合鋼商店(現(株)カワイスチール)のオーナー河合佐兵衛より奉納されたものです。
正月などは、こんな感じ。
荏柄天神石碑
こちらは、「鎌倉町青年団」により昭和四年(1929年)に建てられた「荏柄天神」の石碑です。戦前に建てられた「鎌倉町青年団」の名所案内の石碑は、今でも鎌倉では至る所で目にします。
二の鳥居
こちらが二の鳥居です。
石段から見下ろすと、こんな感じ。
石段
少しきつい石段ですが、この下に立つと「荏柄天神に来たな」という感覚になります。
正月は、こんな感じ。
菅公一千年祭記念碑
菅原道真の千年忌にあたる明治35年(1902年)に建立された記念碑です。石段左わきの桜の樹の下に建てられています。
神門
こちらは石段上の神門です。奥には、拝殿が見えます。
社号額には「天満宮」とあります。
門扉には、大きく梅鉢紋が彫られています。
境内から見た神門です。
正月はこんな感じ。
手水舎
こちらの水盤は、明暦六年(1660年)に奉納されたものです。
水口も丁寧に造られた梅鉢形です。
大銀杏
こちらは、昭和38年(1963年)に、鎌倉市の天然記念物に指定されている銀杏の大木です。高さ25m、周囲10mありますが、石段の上の台地に立っているのでさらに大きく見えます。おそらく荏柄天神社創建の折、植えられたとされ、樹齢は1000年くらいと云われています。鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れて以降、鎌倉市内では最大の銀杏と云われております。
境内の様子
もともとの山を削りだして造成された東西・南北各々約50mの正方形の土地が、社地となっています。下の写真は神門を入ってっ左側の授与所と社務所で、右端に写っている大きな木は、クスノキです。
クスノキの全体像は、こんな感じ。
こちらは神門を入って右手はこんな感じ。左側の建物は、神輿のみ合祀されている八雲神社の神輿庫です。中央右寄りの熊野権現社の石段前に石鳥居が建っていますが、こちらは荏柄天神社の先代の一の鳥居です。
社殿
荏柄天神社の社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなっています。何れもきちんとメンテされているので、古さは感じられません。江戸期より鶴岡八幡宮で社殿の造営がある都度、解体された古い社殿の古材や新社殿の残材が荏柄天神に下されてきたことが、建物の保存に寄与してきたのは間違いないでしょう。
拝殿
こちらは、いたるところに梅鉢の紋があしらわれている拝殿です。以前の拝殿は、大正12年(1923年)の関東大震災で大きな被害を受け、現在の拝殿及び幣殿は昭和11年(1936年)に再建されました。設計は、明治神宮や伊勢神宮を手掛けた神社建築の大家・大江新太郎です。
たくさんの合格祈願の絵馬が掛けられています。
正月には、拝殿前をこんな感じに仕立てます。
本殿
こちら写真の左手に見える本殿は、もともとは北条高時が執権に就任した鎌倉末期の正和5年(1316年)に造られた鶴岡八幡宮・若宮の本殿を、徳川秀忠の時代・元和8年(1622年)に移築したものです。実は現存する鎌倉最古かつ鎌倉期唯一の建物となっており、国の重要文化財に指定されています。鎌倉で古い建物と云えば、国宝・円覚寺舎利殿が思い浮かびますがこちらは室町期の建物です。
下の写真の右手の建物が、本殿の東面になります。
神輿庫
こちらは神輿庫で、明治六年(1873年)に荏柄天神社に合祀された熊野神社に合祀されていた八雲神社の御神輿が子供神輿と共に納められています。八雲神社の御神輿は、明治三十年(1897年)までは、廃寺となった一乗院の跡地に保管されておりましたが、そちらが国有地となり民間に払い下げられたため、荏柄天神社境内に遷座されました。
古神札納所
拝殿西側にある古神札納所です。
熊野権現社
二階堂の鎮守であった熊野神社(現・熊野権現社の前身)は、明治六年(1873年)に荏柄天神社に合祀され、熊野権現社のポジションを引き継ぐ形で荏柄天神社は「村社」となりました。
こちらは、熊野権現社への石段入り口に立つ石鳥居で、もともとは荏柄天神社の一の鳥居として県道204号線に面した参道入口に立っていました。
こちらのやぐらの中の石祠が熊野権現社となります。御祭神は、次の三柱です。
伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉册尊(いざなみのみこと)
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
授与所
受験シーズンには多くの参拝客が授与所に並びます。
こちらは、目的達成祈願絵馬のご案内、と受験当日早朝祈祷のご案内です。
社務所
こちらが社務所です。
かっぱ筆塚
こちらが昭和46年(1971年)に建てられたかっぱ筆塚で、私ども以上の世代では清酒・黄桜のCMでおなじみの清水崑の河童の絵と、ノーベル賞作家・川端康成の書「かっぱ筆塚」が刻まれています。
絵筆塚
こちらは、清水崑の遺志を次ぎ、平成元年(1989年)に横山隆一ら漫画家有志によって建てられた絵筆塚です。
絵筆塚は、青銅製で高さ3.2m、直径1mで、重さは約800kgあります。日本漫画家協会に所属していた漫画家による河童の絵のレリーフが計154枚はめ込まれています。
石段改修記念碑
こちらは昭和31年(1956年)に建てられた石段改修記念碑です。
平成の御大典記念碑
上皇陛下が天皇に即位なされた際の御大典を記念して二階堂地区の氏子有志により平成二年(1990年)に奉納された石碑です。
尾崎迷堂句碑
尾崎迷堂は、坂東三十三観音霊場一番札所の鎌倉・杉本寺の住職をおつとめになった俳人です。こちらの句碑には表に「荏柄天満天神献詠 鎌倉右大臣実朝の忌なりけり 迷堂」、裏に「大慈咲き 大悲さきたる さくらかな 迷堂」とあります。
境内の花々
新年の行事
1月から2月にかけて、荏柄天神社では、祈年祭(1月6日)、左義長神事(1月15日)、初天神祭・筆供養(1月25日)、針供養(2月8日)といった祭礼・行事が執り行われます。
新年には、神輿庫の扉が開き、大小の御神輿を拝見できます。掲げられた提灯に「八雲神社」とあるように、こちらの御神輿は熊野神社に合祀されていた八雲神社の御神輿です。元禄五年(1692年)に造られたもので、現役でお祭りに使用されている御神輿の中では古い部類に属します。八雲神社は社殿をお持ちでないため、御祭神(おそらく素戔嗚命)は御神輿にお乗りになったまま、お祀りされています。
年越しに使われていた焚火台も梅鉢を象った特注品です。
祈年祭(1月6日)
荏柄天神社の祭事の運営は鶴岡八幡宮が担っておりますので、鶴岡八幡宮の祭礼が落ち着いた1月6日に祈年祭が執り行われます。
ご神職と共に氏子の皆さんが拝殿にお入りになり神事が進められます。
左義長神事(1月15日)
正月明けには、全国の神社で行われるお馴染みの神事で、新年に飾った門松・注連飾りなどを持ち寄って焼きます。「どんど焼き」「さいと焼き」など地域毎に様々な呼び名がついています。荏柄天神社では1月15日に執り行われます。
左義長神事が終わると氏子による餅つきが行われます。
初天神祭・筆供養(1月25日)
毎月25日は天神様のご縁日で月次祭が執り行われますが、年の初め1月の25日は初天神と呼ばれ、各地の天神様をお祀りの神社で初天神祭が斎行されます。荏柄天神社では、祭礼に続いて、筆供養が行われます。
針供養(2月8日)
裁縫の上達を祈念する行事で、毎年2月8日に行われます。固い布地を縫って働きづめの針を、柔らかい豆腐に刺してあげることで、その労に報います。
例祭
荏柄天神社の例祭は、次のような段取りで進んで行きます。
7月海の日の前日 神幸祭・神輿渡御
7月24日 宵宮祭
7月25日 例祭
神幸祭
7月海の日の前日には、神幸祭が執り行われ、この日は拝殿に据えられた八雲神社の御神輿が、石段を下り、瑞泉寺、覚園寺、第二小学校裏と、二階堂地区を一巡します。
この日は、あいにくの雨で、ビニールシートをお被りになっての渡御となりました。
この日は、雨天によりコースを短縮したため、立ち寄ることはありませんでしたが、通玄橋を過ぎて瑞泉寺に向う左手に荏柄天神社御旅所があります。石碑にも紀州・熊野三山の御祭神の「三社大権現」とありますので、このあたりが合祀前の熊野権現社の故地だったようです。
例祭(7月25日)
例祭では、荏柄天神社の崇敬者にはマンガや絵画関係者が多いことから、とても上手に描かれた行灯が参道に立ち並びます。
神輿庫では、子供たちのお囃子が賑やかで、雰囲気を盛り上げてくれます。
御神輿は八雲神社のものなのですが、駒札には荏柄天神社と書いてあります。荏柄天神社の例祭ですからそうなのは当たり前なのですが、どういった背景があるのか興味深いところです。
こちらは、子供神輿です。
神事は、社殿内で行われます。
絵筆塚祭(10月の日曜日)
荏柄天神社には、妖艶な女性の河童が印象的な漫画家・清水崑が建てた「かっぱ筆塚」と、「漫画派集団」で清水崑と共に活動し、「フクちゃん」が大ヒットした横山隆一が建てた「絵筆塚」がありますが、絵筆塚祭では、その前で筆の焚き上げを行います。
前夜の行灯点灯
絵筆塚祭の前日の夜は、お囃子が流れる中、奉納された行灯に灯がともり、参道から境内にかけて、独特の空間が広がります。
絵筆塚祭当日
二の鳥居から石段寄りの参道には、ずらりと河童のイラスト入りの行灯が並びます。
かっぱ筆塚の前に、供物が並べられています。
この日は、漫画家の皆さんの色紙を頂ける催しがあります。
最後までご覧頂きありがとうございました。うちの子供たちが受験になる都度お参りしていたことを、懐かしく思い出しながら書いておりました。
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