熊野速玉大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第二回)~神倉神社・阿須賀神社・熊野御幸

熊野速玉大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第二回)~神倉神社・阿須賀神社・熊野御幸

 和歌山県新宮市の名は、もちろん熊野速玉大社の別名「新宮」に由来します。熊野本宮・熊野速玉・熊野那智の各社は、まとめて「熊野三山」と呼ばれておりますが、それは神仏習合が進み、朝廷による熊野統治のための役職「熊野別当」が置かれて以降(おそらく10世紀以降)に成立した概念であり、実は夫々に異なる起源を持っています。別称の「新宮」も一見、熊野「本宮」に対しての「新宮」であるかのような印象を受けますが、実際は元宮・神倉神社から石淵谷の貴禰谷(きねがだに)神社を経由して、景行天皇58年(128年)に現在の地に遷座したことから、元宮・神倉神社に対しての「新宮」という意味になります。また「熊野速玉大社」」の主祭神は、「熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)=伊邪那岐命」と、「熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)=伊邪那美命」で、あわせて「両所権現」と呼ばれ、当初は、二社殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神をお祀りしておりましたが、平安期には現在と同様に十二の社殿が建てられて熊野三社で平仄を揃えた御祭神群が定着することで、熊野十二所権現と呼ばれるようになりました。なお同じ「速玉」でも熊野本宮では伊邪那岐命の唾から生まれた「速玉之男神(はやたまのおのかみ)」とされているのに対し、熊野速玉大社では「伊邪那岐命」そのものとされています。
 

記事リンク
熊野本宮大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第一回)~大斎原(おおゆのはら)・八咫烏
熊野速玉大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第二回)~神倉神社・阿須賀神社・熊野御幸
熊野那智大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第三回)~大門坂・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)・御縣彦社(みあがたひこしゃ)

境内図

熊野速玉大社・境内図

◆熊野速玉大社の神階・社格
【神階】 
  時期不明 従五位下
  貞観元年(859年)正月 従五位上
  貞観元年(859年)二月 従二位
  貞観五年(859年)三月 正二位
  延喜七年(907年)従一位
  天慶三年(940年)正一位
【社格】
  延喜式:大社
  明治四年(1871年):県社
  大正四年(1915年):官幣大社
  昭和二十三年(1948年):別表神社

参道

こちらが参道となります。向かって左に「熊野大権現」右に「熊野速玉大社」の社号標が建てられています。左右の大燈籠は嘉永元年(1848年)に和歌山市の常住院が発起人となって奉納されたものです。

下馬橋(げばばし)

こちらは熊野速玉大社の表参道にかかる太鼓橋「下馬橋(げばばし)」で昭和28年(1953年)に新宮市長の杉本喜代松氏より奉納されたものです

熊野速玉大社・下馬橋

大鳥居

明治三十五年(1902年)に建てられた先代の大鳥居に代り、昭和35年(1960年)に製材業で財を成し新宮商工会議所二代目会頭となった植松新十郎氏より寄進されたものです。大鳥居の形式は明神鳥居で、社号額には「熊野権現」とあります。

熊野速玉大社・ 大鳥居

佐藤春夫句碑

新宮を代表する文人・佐藤春夫の句碑で「秋晴れよ丹鶴城址児に見せむ」とあります。

熊野速玉大社・ 佐藤春夫句碑

鑰宮・手力男神社と八咫烏神社

向って左側が鑰宮(かぎのみや)・手力男(たぢからお)神社、右側が八咫烏(やたがらす)神社です。

熊野速玉大社・手力男神社・八咫烏神社

鑰宮・手力男神社

 鑰宮・手力男神社は、延喜式内社「紀伊國手力神社小」の論社となる程の由緒正しい神社です。御祭神は、天之手力男命(あまのたぢからおのみこと)で、天の岩戸をこじ開けて天照大神を引きずり出した力持ちの神様です。その後、天照大神が二度と中に入らないよう天の岩戸を投げ飛ばしたところ信州の戸隠山となったとのお話があります。ですから戸隠神社・奥社の御祭神は、天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)となっています。
元々は、門神として神門内に祀られていたそうですが、嵯峨天皇の弘仁四年(813年)に勅命により熊野速玉大社から出た上本町内に遷座し、明治四十年(1907年)には神社合祀令により新宮町内の末社と共に境内の金刀比羅宮に合祀しされ新宮神社となりました。新宮神社は、さらに昭和三十三年に神門を入って右手奥の現在の場所に移されましたが、昭和57年(1982年)には、合祀されていた鑰宮・手力男神社と八咫烏神社の両社の社殿が、大鳥居入ってすぐの現在の場所に建てられました。

八咫烏神社

 御祭神は、 建角見命(たけつぬみのみこと)です。 建角見命は、八咫烏に化身して神武天皇の大和国入りを先導したことから、開運導きの神様とされ、京都・下賀茂神社の御祭神としても知られています。
 もともとは、丹鶴山麓の登坂に鎮座されておりましたが、新宮神社に合祀され、昭和57年(1982年)に鑰宮・手力男神社の右隣の現在地に再建されました。

奉八度の記念碑

こちらは江戸期における熊野詣の隆盛を伝える「奉八度の記念碑」で宝永五年(1708年)に建てられたものです。石碑の表には「奉八度参詣 奥州南部八戸領久茲八日町 吉田金右衛門」とあり、何と岩手県から八度も熊野を詣でた人がいたという貴重な証跡となっています。

熊野速玉大社・ 奉八度の記念碑

この付近の様子はこんな感じ。右が神宝館で、正面が神門です。

神宝館

こちらが昭和32年に建てられ、令和4年に改修された神宝館です。熊野三山の中でも、最も充実した神宝類を有しているのが熊野速玉大社です。とにかく国宝・重文のオンパレードとなっており、所蔵する神宝類は一千点にのぼります。階段の向かって左手に立つ彫像は、武蔵坊弁慶です。

熊野速玉大社・神宝館

御神像

熊野速玉大社には、平安期より伝わってきた御神像が七体ありまして、そのうち四体が平成17年(2005年)に国宝に、三体が昭和25年(1950年)に重要文化財に指定されています。神道では、もともとご神体として神像を据える例は必ずしも多くはなく、神仏習合が進んでから仏教の影響で多少作られるようになりましたが、仏像ほど多く造られた訳ではないため、熊野速玉大社所蔵の神像クラスの作例は限られており、大変貴重なものとなっております。
 下のリンクの左側が9世紀後半に造立された国宝・熊野速玉大神像です。像高三尺三寸四分(約1m)と神像の中では大柄で、宝冠を頂き拱手・正座のお姿です。明治31年(1898年)と昭和26年(1951年)に修復されており、石膏と漆を混ぜた「石膏木屎」が使用されています。
 中央は、同じく国宝の熊野夫須美大神像です。三尺二寸五分(約1m)の像高で、宝髻を結い髪を両肩に垂らしていらっしゃいます。こちらも熊野速玉大神像と同じく9世紀後半に造立されたものと推定されています。
 右側は、同じく国宝の家津美御子大神像です。像高二尺六寸八分(約0.8m)と主祭神二体と比べると一回り小さく作られており、造立時期も少し遅れてはいますが、大きく違うことはないと思われます。
 以上の三体とも一木造で著色されています。

国宝・「熊野速玉大神像」他・熊野速玉大社サイトにリンク

彩絵檜扇(さいえひおうぎ)・国宝

檜の薄板に、花鳥風月が金銀をちりばめながら彩色で描かれた南北朝時代のもので、熊野速玉大社には十一握の檜扇が所蔵されています。これらのうち十握が昭和30年(1955年)に国宝指定されています。

国宝・「彩絵檜扇(さいえひおうぎ)」・熊野速玉大社サイトにリンク

桐唐草蒔絵手箱(きりからくさまきえてばこ) ・国宝

こちらが、明徳元年(1390年)に室町三代将軍・足利義満公他より奉納された国宝の桐唐草蒔絵手箱(きりからくさまきえてばこ)です。明治16年(1883年)の大火の後、明治31年(1898年)に宝庫が完成するまでの間、氏子や社家に分散して保管されていたため一部散逸しているものもありますが、内蔵品までほぼ揃った貴重なもので、熊野速玉大社には十一合の蒔絵手箱が所蔵されており、いずれも国宝指定(昭和30年・1955年)されています。

国宝・「桐唐草蒔絵手箱(きりからくさまきえてばこ)」・熊野速玉大社サイトにリンク

金銅装神輿・重要文化財

こちらの古めかしい金銅装神輿は、足利義満公により明徳元年(1390年)に寄進されたもので、毎年10月16日の御船祭の神輿渡御式で使用されていました。当初は黒漆塗でしたが、寛正十年(1798年)に金メッキに塗り替えられたそうです。現在、国の重要文化財に指定されています。

金銅装神輿・熊野速玉大社御由緒より

朱塗神幸用船・重要文化財

こちらは、天和二年(1682年)に新宮の木材問屋が中心となって江戸鉄砲洲に発注した「朱塗神幸船」で神輿が据えられています。昭和57年(1982年)まで毎年の御船祭で使用されていたもので、現在は国の重要文化財に指定されています。現在使用されている神幸船は、これを模したものです。

朱塗神幸船・熊野速玉大社御由緒より

御神木・梛の木(なぎのき)

こちらは、平重盛公が治承三年(1179年)の熊野詣の折に植えたと伝わる梛の木です。樹齢900年近くになっており、天然記念物に指定されています。

熊野速玉大社・梛の木

検校法親王(けんぎょうほっしんのう)
歌碑

こちらは、明治四十四年(1911年)に建てられた検校法親王(けんぎょうほっしんのう)歌碑です。ここで云われる検校法親王とは、土御門天皇の第四皇子・静仁法親王(じょうにんほうしんのう)のこととされており、歌碑に刻まれた和歌「なぎの葉に みがける露のはや玉を 結ぶの宮や ひかりそふらむ」は、藤原長清の私撰集『夫木和歌抄』(ふぼくわかしょう)に収められています。

熊野速玉大社・検校法親王歌碑

後白河法皇御製碑

こちらは、昭和37年(1962年)に建てられた後白河法皇の御製碑で、「熊野へ参るには 紀路と伊勢路と どれ近し どれ遠し 広大慈悲の道なれば 紀路も 伊勢路も 遠からず」とあり、「梁塵秘抄」に収められています。

熊野速玉大社・後白河法皇御製碑

扇立祭舞台

こちらは、毎年7月14日に斎行される扇立祭で使用される舞台となります。扇立祭は、夕刻6時より執り行われる華やかな神事で、新宮市では一番賑やかな夏祭りとなります。この日、神殿前に立てられる檜扇は、昭和39年(1964年)に国宝の檜扇を模して造られた大きなもので、本殿前に立てられる最大の檜扇は高さが1.5m、幅は1.65mもあります。

熊野速玉大社・扇立祭舞台
扇立祭・新宮市観光協会サイトにリンク

忠魂碑

こちらは、日露戦争以降の戦没者を慰霊する忠魂碑です。毎年8月15日には戦没者慰霊祭が営まれます。

熊野速玉大社・忠魂碑

狛犬(神門前)

こちらは弘化三年(1846年)に、熊野から長嶋浦にかけての紺屋仲間により奉納された神門前の狛犬です。苔に覆われており、阿形の向かって右側面の文字が、かろうじて「施主自熊野日置浦」と読めます。

烏集庵(うしゅうあん)

この「茶室烏集庵」と刻まれた標石の奥にある茶室は、裏千家家元・千宗室による献茶式が行われたことを記念して昭和33年(1958年)に建てられました。烏集庵と名付けた佐藤春夫の命日・5月6日に営まれる「供茶式(くちゃしき)」の会場となったこともあります。

大禮殿(だいらいでん)

「大禮殿」は、もともと熊野御幸の祈願所でしたが、明治16年(1883年)の大火の折焼失しました。現在の大禮殿は、平成3年以来の平成御大典記念事業の一環として再建された150坪もある大きな建物で、主に社務所の機能を担っている他、直会会場・結婚式場・披露宴会場・団体客休憩所として使用されています。

熊野速玉大社・大禮殿

手水舎

神門前の手水舎は、昭和二十八年(1953年)に地元財界人の浦木清十郎氏より奉納された建物です。なお水盤は明治二十七年(1894年)、青銅の吐水龍は昭和四十六年(1971年)と夫々別の時代に奉納されたものです。

熊野速玉大社・手水舎

熊野稲荷神社

こちらは、手水舎の背後にある熊野稲荷神社です。

熊野速玉大社・熊野稲荷神社

佐藤春夫詩碑

手水舎裏の築地塀に埋め込まれたタイルには佐藤春夫の「望郷五月歌」の冒頭の部分が焼き付けられています。昭和34年に建てられたものです。

熊野速玉大社・佐藤春夫歌碑

塵まみれなる街路樹に 哀れなる五月来にけり 石だたミ都大路を歩みつつ 恋しきや何ぞわが古郷 あさもよし紀の國の 牟婁の海山 夏ミかんたわわに実り たちばな乃花さ久なべに とよも志て啼くほととぎす 心して、勿散らしそかのよき花を 朝霧か若か里し日の わが夢ぞ そこに狹霧らふ 朝雲か望郷乃 わが古ころこそ そこに以さよへ 空青志山青し海青し 日はかが邪かに 南國の五月晴こそゆたかなれ

佐藤春夫記念館

こちらは、佐藤春夫記念館です。佐藤春夫が昭和2年(1927年)から亡くなる昭和39年(1964年)まで東京都文京区で過ごした自宅を移築したもので、様々な遺品や資料が展示されていました。現在、熊野速玉大社から1キロ離れた新宮市伊佐田町1丁目へ移転する準備のため、閉館中です。移転先での開館は2026年度に予定されています。

熊野速玉大社・佐藤春夫記念館

神門

こちらは、神門で、昭和三十三年(1958年)に丸善石油社長の和田完治氏より改築奉納されたものです。

熊野速玉大社・神門

こちらの馬の親子と虎の親子の2枚の透かし彫りは、旧神門の時代から受け継がれているものです。

こちらは内側から見た神門です。

拝殿

こちらが昭和42年(1967年)に竣工した拝殿です。背後に見えるのは、左が結宮(御祭神:熊野夫須美大神=伊邪那美命)、右が速玉宮(御祭神:熊野速玉大神=伊弉諾命)となります。拝殿前の大燈籠は宝暦二年(1752年)に和歌山講中より奉納されたものです。

熊野速玉大社・拝殿

中央には、「日本第一大霊験所・根本熊野権現拝殿」の扁額が掲げられています。

辰年の今年の絵馬は、龍をモチーフにしています。

本殿

 紀伊國牟婁郡名所図会に描かれた江戸期・文化八年(1811年)の頃の熊野速玉大社の境内図がこちらですが、本社のポジション等に違いはあるものの現在とほぼ同じスケールの社殿群が立ち並んでいる様子が伺えます。

紀伊國牟婁郡名所図会・熊野速玉大社

 しかし残念なことにこれらの社殿は、明治十六年(1883年)の花火火災で全焼してしまい、明治二十七年(1894年)に建てられた仮殿も、昭和の南海地震や、台風によって破損し、早急な再建が待たれる状況となっていました。
 下の写真は、焼失前・嘉永年間に建てられた社殿の貴重な写真です。

嘉永年竣工の社殿・熊野速玉大社御由緒より

 そしてようやく戦後の混乱が落ち着き始めたことから、国庫補助金及び氏子崇敬者の支援を受けることで、昭和27年(1952年)より昭和45年(1970年)までの期間、五期に分けた昭和の造営が進められ、さらに平成9年(1997年)の結宮の再建をもって、現在の壮大な社殿群の全てが整備されました。
 内側の瑞垣に囲まれた敷地内には以下のとおり四棟の本社・社殿(十二社+神倉宮)、及び境内社・奥御前三神殿が配置されています。

参拝用の鈴門は、計五か所配置されています。これらは昭和28年(1953年)に玉垣とともに竣工なっています。

熊野速玉大社・鈴門

正面に並ぶ三つの鈴門の後ろは上三社、右手に見えるのは八社殿、左手の外削の千木は速玉宮、さらに左端に内削ぎの千木が見えるのが結宮です。

速玉宮(はやたまのみや)

こちらの外削の千木の神殿が第二殿・速玉宮で 、主祭神の熊野速玉大神(=伊弉諾命)が祀られています。昭和27年に昭和御造営の第一期工事で建てられました。

結宮(むすびのみや)

写真の中央にある内削の千木の社殿が結宮です。こちらは熊野夫須美大神(=伊邪那美命)が祀られています。社殿群の中では最後に平成9年(1997年)に再建されました。下にあるのが結宮再建記念碑です。

上三殿

昭和27年(1952年)に完工 した上三殿は、左から順に證誠殿(第三殿)、若宮(第四殿)、神倉宮(第五殿)より構成されており、他社における主祭神クラスの神様が祀られています。

熊野速玉大社・上三殿

こちらは、證誠殿の鈴門です。證誠殿には国常立命(クニトコタチノミコト)と家津美御子命(ケツミコノミコト)がお祀りされています。国常立命は、神代七世の第一代の神様で国土の主宰神とされています。また家津美御子命は、熊野本宮大社の主祭神で、熊野速玉大神・熊野夫須美大神とあわせて「三所権現」と呼ばれてきました。

こちらは若宮の鈴門で、天照大神(アマテラスオオミカミ)が祀られています。

こちらは神倉宮で、熊野速玉大社・元宮の神倉神社と同じく高倉下命(タカクラジノミコト)を御祭神としています。高倉下命は、本殿を構成する十三殿のうち、唯ひとつ熊野十二社権現に含まれない神様です。

八社殿

八社殿は、向かって左側の四社が、「熊野十二所権現」でいうところの「中四社」、右側の四社が「下四社」に相当します。何れも国常立命(神代七代の第一代)より後、主祭神の「熊野速玉大神(=伊弉諾命)」及び「熊野夫須美大神(=伊邪那美命)」に至るまでの六代の神々が祀られています。昭和27年(1952年)に再建されました。

熊野速玉大社・八社殿

こちらは中四社の鈴門で、御祭神は、左からこのようになっています。
 第六殿 禅地宮(ぜんじのみや)天忍穂耳命(アメノオシホミノミコト)
 第七殿 聖宮(ひじりのみや) 瓊々杵命(ニニギノミコト)
 第八殿 児宮(このみや)    彦火々出見命(ヒコホホデミノミコト)
 第九殿 子守宮(こもりのみや)鸕鷀草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
天忍穂耳命は、天照大神の御子神で、国土平定に力を振るわれました。瓊々杵尊は、三種の神器を奉じて高天原より日向国高千穂峰に降り立ち、彦火々出見命はその御子神です。鸕鷀草葺不合命は、彦火々出見命の御子神であり、神武天皇の父にあたります。

こちらは、下四社の鈴門で、御祭神は、左からこのようになっています。
 第十殿 一万宮十万宮 (はじめのかぎりなきみやおわりのかぎりなきみや)
     国狭槌命(クニサヅキノミコト)・豊斟渟命(トヨクモヌノミコト)
 第十一殿 勧請宮 (かんじょうのみや)埿土煮命(ウイジニノミコト)
 第十二殿 飛行宮(ひぎょうのみや)  大斗之道命(オオトノヂノミコト)
第十三殿 米持宮(よなもちのみや) 面足命(オモダルノミコト)
国狭槌命は神代七代の第二代、豊斟渟命は第三代、埿土煮命は第四代、大斗之道命は第五代の神様で、何れも国土神として崇められています。面足命は、阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノミコト)と共に第六代に位置づけられています。

奥御前三神殿

御垣内の速玉宮と上三殿の間にある奥御前三神殿には、天地開闢のおり現れた造化三神「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」「神皇産霊神(カミムズビノカミ)」が祀られています。奥御前三神殿は、御祭神の神格の高さから内瑞垣の内部にありますが、本殿ではなく、境内社のひとつとして位置付けられています。

新宮神社

新宮神社は、明治期の神社合祀令により、もともとあった金刀比羅神社の社殿に新宮近辺の諸社が明治四十年(1907年)に合祀された境内社です。桜の季節に合わせて毎年4月3日には「さくら祭」が執り行われ、五穀豊穣を祈ります(御餅が頂けます)。昭和33年(1958年)に改築され、近年、平成31年(2019年)に修理されました。

熊野速玉大社・新宮神社

新宮神社に合祀されている神社は以下の通りです。地名は旧社殿地。
金刀比羅神社(金山彦命) 境内末社。
太上宮(大己貴命)下本町
谷ノ子守神社(菊理媛命)谷王子町・日和山
石神社(素盞鳴命)新道
今神倉神社(天村雲命)権現山麓
渡御前社(神倭磐余彦命=神武天皇)龍鼓瀧畔→神武天皇の頓宮跡
満山神社(八百万神)権現山・角池
高倉神社(熊野櫲樟日神)明神山・矢倉町
八咫烏神社(建角身命)登坂
鑰宮神社(天之手力男命)本社境内
火之神社(軻具土神)雑賀町
猿田彦神社(猿田彦神)神倉山麓
鳥坂小守社(埴山姫命)登坂
八幡宮(誉田別命)丹鶴山西麓
小阿須賀社(倉稲魂命)相筋
妙見社(少彦名命)相筋
天満宮(菅原道真公)新宮町
別當神社(熊野別當)新宮町

熊野恵比須神社

昭和45年(1970年)に西宮神社より御分霊された比較的新しいお社です。

熊野速玉大社・熊野恵比須神社

東門

こちらは東門です。

熊野御幸碑

延喜七年(907年)より嘉元元年(1303年)の間に、熊野に御幸された皇族方は、二十三方、延べ百四十回にも及びます。この石碑は食品卸・永田産業(株)のオーナー夫妻より奉納されたもので、侍従長・入江相政氏の筆によります。幅60cmの白御影石の石板を6枚を屏風のように並べています。

熊野速玉大社・熊野御幸碑

旧宝庫

こちらは、神宝館が完成するまで、熊野速玉大社の宝物を収蔵していた旧宝庫です。

熊野速玉大社・旧宝庫

後鳥羽天皇御製碑

「新古今和歌集」に収録された後鳥羽天皇の御製で、「岩にむす苔ふみならすみ熊野の山のかひある行末もがな」とあります。昭和55年(1980年)、故・秩父宮勢津子妃殿下の書です。左下の石板は、先代宮司による説明書きです。

熊野速玉大社・後鳥羽天皇御製碑

授与所

こちらが、南神門脇にある授与所です。ご朱印や熊野午王神符などは、こちらで頂けます。

熊野速玉大社・授与所

参集殿

こちらは、昭和42年(1967年)に竣工した参集殿で、様々な催し・集会の会場として使用されています。現在、授与所・大禮殿・参集殿・双鶴殿・拝殿をつなぐ回廊もこの時完成しました。

熊野速玉大社・参集殿

双鶴殿

 参集殿をさらに拡張して昭和45年(1970年)に建てられた双鶴殿です。こちらの写真は、裏手から撮影したもので、建物の全容は見えにくくなっておりますが100坪以上ある大きな建物です。熊野速玉大社所蔵の古神宝にある12面の双鶴文鏡からのネーミングでしょうか。

熊野速玉大社・双鶴殿

御船蔵

平成15年(2003年)~平成18年(2006年)にかけて新造された9隻の御船祭早船が格納されています。

熊野速玉大社・御船蔵

熊野川の中央に浮かぶこちらの川中島が御船祭のクライマックスの舞台となる「御船島」です。左上の河原は「乙基河原(おともがわら)」といい、奥の木立の中に御旅所があります。

熊野速玉大社・御船島

御船祭では、この島の周りを早船9隻が3周して速さを競います。

熊野速玉大社・展示物より

神倉神社

 神倉神社は、熊野速玉神社の西側にある境外摂社で、熊野速玉神社の元宮とされています。ご神体のゴトビキ岩は、「天ノ磐盾」と呼ばれる急斜面の岩山の頂上にあり、熊野三山の起源を背負うだけの強烈な存在感があります。ゴトビキとはヒキガエルのことだそうですが、確かにカエルに似た形をしています。
 「熊野権現御垂迹縁起」によると、唐の天台山の地主神の王子信 (おうししん。) が、九州の英彦山(ひこさん)、四国の石槌山、淡路の諭鶴羽山(ゆずるはさん)を経て「熊野新宮の南の神蔵の峯」にお降りになりました。ご朱印にも「熊野三山元宮」と記しているように、神倉神社ではこれをもって熊野三所権現の起源としています。
 なお現在の主祭神は、高倉下命(タカクラジノミコト)ですが、これは、神武天皇の東征に際して、布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)を献じて大和入りを援けたことに由来します。

熊野新宮・神倉神社・ゴトビキ岩

阿須賀神社

 阿須賀神社は熊野川河口付近にあり、社伝によれば第五代孝昭天皇53年(紀元前423年)の創建で、秦の始皇帝の命を受け渡来した徐福を祀った徐福ノ宮も境内にあります。明治期までは熊野速玉大社の摂社で、現在も例大祭の神馬渡御式の大切な舞台となっています。

新宮・阿須賀神社・拝殿

貴禰谷神社(きねがだにじんじゃ)

 貴禰谷神社(きねがだにじんじゃ)は、熊野速玉大社の境外末社で、初めて家津美御子大神と熊野速玉大神の二宇が祀られたとされるお社です。その後家津美御子大神は熊野本宮へ、熊野速玉大神は熊野新宮へ夫々遷座なされたということで、熊野三山成立の過程で重要な鍵を握っている神社です。熊野速玉大社とは熊野川を挟んだ対岸下流・石淵谷の高台にあり、現在の行政区画では三重県紀宝町になります。

貴禰谷神社(きねがだにじんじゃ)

熊野曼荼羅

 中世から近世にかけて、熊野比丘尼が熊野信仰を説いて回った際に、携えていたのが曼荼羅図です。次の写真はその代表的なもので「熊野観心十界曼荼羅」と呼ばれており、天界・人界・修羅界・餓鬼界・畜生界・地獄界が描かれています。何故か地獄界が詳しすぎる・・・。

こちらは「新宮参詣曼荼羅図」です。熊野速玉大社を中心に新宮にまつわる様々な神話・逸話・行事などが盛り込まれた作品で、新宮市の熊野絵解の催しで使用されています。2006年になって再現されたもので、とてもよくできています。

熊野牛王神符

「熊野牛王神符(牛王宝印)」は、熊野三山夫々に異なるデザインとなっており、熊野速玉大社のご神符には四十八羽のカラスが描かれていることから「よとやの神咒(かじり)」とも呼ばれています。熊野本宮大社と同じく「熊野山宝印」と書かれているそうですが、素人にはとても読めません。熊野牛王神符は、厄除けのご神符となる他、誓約書や起請文の用紙としても利用されていました。

熊野速玉大社・熊野午王神符

ご朱印

こちらが熊野速玉大社のご朱印です。

熊野速玉大社・ご朱印

祭礼と行事

元旦 歳旦祭
1月3日 元始祭
1月4日 釿始祭
1月9日 熊野恵比須神社宵宮祭
1月10日 熊野恵比須神社例祭
2月3日 節分祭・お焚き上げ神事・追儺式
2月6日 神倉神社御燈祭
2月7日 御燈祭奉祝祭
2月11日 紀元祭
2月23日 天長祭
2月初午 熊野稲荷神社初午祭
4月3日 新宮神社例祭(さくら祭)
4月29日 貴祢谷社例祭
5月8日 猿田彦神社・三宝荒神社例祭
6月30日 夏越の大祓式
7月14日 扇立祭
8月15日 新宮市戦没者慰霊祭
10月15日 例大祭・本殿大前の儀・神馬渡御式・御旅所神事
10月16日 例大祭・神輿渡御式・御船祭・御旅所神事
11月3日 明治祭
11月15日 七五三祈祷
11月23日 新嘗祭
12月24日 煤払い神事
12月31日 大晦日大祓式・除夜祭・神符遷霊祭
毎月1日 月首祭
毎月15日 月次祭

アクセス

住所 〒647-0081 和歌山県新宮市新宮1番地
電話 Tel:0735-22-2533
URL https://kumanohayatama.jp/

【公共交通機関】
JR新宮駅から、熊野交通バス・三重交通バスにて「権現前」停下車。
所要時間5分程度
【車】
熊野尾鷲道路・熊野大泊ICで下りて国道42号線を南下。無料駐車場有り。

最後までご覧いただきありがとうございました。熊野三山遠征記シリーズでは、熊野ならではのディープな神代の世界を楽しませて頂いております。次の記事をお楽しみに。