鎌倉宮◆境内散歩(後編)◆宝物殿・護良親王墓所など

鎌倉宮◆境内散歩(後編)◆宝物殿・護良親王墓所など

鎌倉宮が明治天皇の勅願により創建されたことは、前編でも述べましたが、明治天皇における護良親王への追念の深さにはひとかたならぬものがおありでした。ご存じでない方も多いと思いますが、最初に明治天皇が護良親王をお祀りしたのは、何と即位に先立つ明治元年7月23日(親王の御命日)のことで、京都・河東操練場(京都市左京区聖護院町)に神座を設けてその御神徳を謝しました。そしてわずか半年後の明治2年2月には戊辰戦争がなおも打ち続く中で造営の地を二階堂・旧東光寺跡に定め、営繕司(営繕知事:岩尾助之丞)を設けて造営に着手しました。その後3月11日に鶴岡八幡宮神主大伴上総による地鎮祭、6月14日に宮号を「鎌倉宮」と定めての勅額下賜、7月21日の御鎮座祭及び7月23日(後に新暦換算され8月20日) の例大祭執行と異例のスピードで創建が進められた訳です。 また明治天皇ご自身も明治6年4月の陸軍攻撃演習に際しての鎌倉行幸の折鎌倉宮にご参拝され、6月9日には官幣中社に列せられます。未だ国体定まらぬ中、北朝系の明治天皇が何故にここまでの情熱・エネルギーを南朝・護良親王の祭祀に注ぎ込まれたのか・・・。「建武」と「明治」が、武家支配が確立して以降稀有な「天皇親政」という政体で共通しているのは確かなのですが、果たしてそれだけなのでしょうか?その真の理由を知るには、明治維新に隠された深い闇を探るより他なさそうです。
境内散歩(後編)の今回は、「神苑」から「太平殿」にかけて、さらに境外の「護良親王墓所」をご紹介します。

なお鎌倉宮のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒鎌倉宮へ

また、今回の記事の「前編」につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒「鎌倉宮◆境内散歩(前編)◆一の鳥居・拝殿・本殿・御土牢など」へ

鎌倉宮の魅力

◎鎌倉で最も重みのある旧官幣中社の社格

◎見通しのよい拝殿で奉じられとても拝観しやすい数多の祭礼

◎護良親王を中心に展開される建武の中興の物語

境内図

神苑

今上陛下(当時の徳仁皇太子殿下)のご成婚を記念して1994年に造園されました。

鎌倉宮碑

明治6年の明治天皇行幸の折、陛下が三条実美公に漏らされた行幸の御感想をもとに「明治の三筆」に挙げられる書家・巖谷修が撰した文を、大正10年になり伏見宮貞愛親王の篆額、松方正義侯爵の書により碑としたものです。

御構廟(おんかまえびょう)

淵辺義博が護良親王の御首を置いて逃げたとされる場所です。

神石

こちらの神石は、福島県宇津峰神社より鎌倉宮御鎮座百周年の記念に奉納されたもので、宇津峰城跡から運ばれてきました。三つ並んだ神石は、中央が後村上天皇、向って右が護良親王、左が後亀山天皇に擬されています。宇津峰城は後醍醐天皇の側近として有名な北畠親房卿の次男で奥州鎮守府将軍の北畠顕信公が籠った奥州における南朝方最後の拠点でした。

多宝塔

鎌倉宮の案内板によりますと、ここにある小振りな多宝塔は、応永15年(1408年)8月に建立された日賢上人の供養塔です。何故、日蓮宗の僧侶の供養塔が臨済宗の旧東光寺にあったのでしょうか?

献茶の塔

「献茶の塔」は、茶人・保利宗久の歌碑です。「一服の御茶を献じて親王の御霊やすかれと念ずる吾は 」 と詠まれています。

教育勅語碑

教育勅語碑は、昭和34年に、上皇陛下(当時は皇太子明仁親王殿下)のご成婚を祝して第22代内山宮司により建立されたもので、「教育勅語」「五箇条の御誓文」が刻まれています。

宝物殿(旧・明治天皇陛下行在所)

有料エリアの出口に近いところに、鎌倉宮ゆかりの品々が陳列された宝物殿があります。この建物は、鎌倉で実施された陸軍攻撃演習の折、明治6年4月16日に明治天皇が行幸された際の行在所(あんざいしょ)として建てられたものです。

宝物殿(明治天皇行在所)

こちらは、明治天皇が鶴岡八幡宮裏手の大臣山より陸軍攻撃演習を閲兵されたことを記念して建てられた碑の在処(現在立入禁止)への上り口に立つ碑です。鶴岡八幡宮・本宮の東側の若宮に下る階段の降口脇にあります。ご参考までに。

深い庇の下から、ガラス越しに様々な陳列品を拝見できます。以下、その陳列品の一部をご紹介させていただきます。

護良親王乗馬御木像

東京美術学校(現・東京芸術大学)教授であった山田鬼齋作の「護良親王乗馬御木像」は、第三回内国勧業博覧会で賞を得たもので、高さ2mを超える大作です。 明治26年9月に所有者の林九兵衛氏により奉納されました。

護良親王御直垂模造

長州藩湯川家に伝わる護良親王下賜の直垂(現在は靖国神社遊就館に収蔵)を模して造られたものです。

乃木希典の書「忠孝」

日露戦争・旅順攻略戦で有名な陸軍大将・乃木希典の筆です。乃木大将は、名筆家としても知られています。

幕末の三舟の書

幕末から明治初期にかけて活躍した旧幕府の遺臣で、その名に「舟」の字を有する著名なお三方「勝海舟」「山岡鉄舟」「高橋泥舟」を指して「幕末の三舟」と呼びますが、宝物館にはそれぞれの書・計三幅が掲げられています。

勝海舟
山岡鉄舟
高橋泥舟

伊藤博文の書

明治の元勲・初代首相伊藤博文の書です。

伊藤博文

山本五十六の書「至誠奉公」

第二次世界大戦開戦時の連合艦隊司令長官・山本五十六元帥の書「至誠奉公」です。

御神輿

鎌倉宮には、子供神輿二基を含め計三基の御神輿があります。

護良親王の令旨

太山寺(神戸市)宗徒に向けて北条家打倒のための挙兵を促す護良親王の令旨です。

明治天皇御下賜扁額

明治2年の創建に際して明治天皇より下賜された扁額で、当時の一の鳥居に掲げられていました。明治天皇17歳の折の御宸筆です。

授与所(宝物殿前)

宝物殿前にある授与所です。こちらは普段使用されていないようですが、神札・縁起物は拝観料受付所で頂けます。

冠木門

有料拝観域の出口の門で、社務所前に出てくることになります。門柱には「明治天皇御座所」と記されています。

社務所

祭礼に際し、御神職の皆さんは社務所内で威儀を整え、社務所前庭園にある祓戸(はらえど)で潔斎の後、拝殿に向かわれます。また一般の各種ご祈祷は、社務所内で受けることになり、御朱印もこちらで頂戴します。

正月の社務所玄関
御朱印受付

社務所前庭園

こじんまりとしていますが、新緑の頃も紅葉の頃も、とても美しい庭園です。

小賀玉(おがたま)の木

こちらは、庭園内にある小賀玉(おがたま)の木です。鎌倉市の天然記念物に指定されています。

祓戸(はらえど)

こちらは、社務所前の庭園にある祓戸です。祭礼に際しては、拝殿に向かう前に、御神職一同が、こちらで修祓を受けます。

源氏門

「源氏門」は、かつて二階堂にあった邸宅の庭園に入る門を移築したものだそうで、二本の門柱に平入り切妻の棟門です。優美なむくり屋根のカーブが醸し出す和の風情は、しっくりと日本庭園に馴染みます。

外側正面
内側正面

こちらは春の雪の源氏門です。

太平殿

太平殿は、建武中興六百五十年を記念して昭和58年(1983年)に建設された儀式殿で、一階は参拝者休憩所、二階は結婚式場として利用されています。

二階の結婚式場には、社務所前からこちらの通路を通って入ることができます。

一階の参拝者休憩所には、護良親王が兜の中に蔵して戦に臨まれたことから鎌倉宮のシンボルとなっっている大小の獅子頭が陳列されています。かつては拝殿の正面にも大きな獅子頭が置かれておりました。

参拝者休憩所には平成30年4月より、三体の鹿の剥製が置かれていますが、これらはかつて鎌倉宮内で飼育されていた神鹿(かみしか)です。鎌倉宮の神鹿は、昭和34年に仙台市より「太郎」と「初子」の二頭が奉納されたのが始まりで、昭和39年には三嶋大社よりさらに二頭が奉納されました。その後平成4年に最後の一頭が亡くなるまで「大塔の宮の神鹿」として親しまれてきました。

護良親王墓所

鎌倉宮創建の折、護良親王が葬られた場所につきましては、旧・理智光寺跡の裏山と妙法寺の裏山の二カ所が比定地として挙げられていましたが、明治11年(1878年)に旧・理智光寺跡の裏山に決定しました。なお、表に親王の幼名である「尊雲法親王」と書かれた親王の御位牌は、はじめ浄光明寺に祀られておりましたが、その後、墓所のある旧・理智光寺に移され、理智光寺の廃寺後は、東慶寺に移されて現在に至ります。ちなみに東慶寺五世の用堂尼は護良親王の妹君で、護良親王を弔うため鎌倉に入られたとされており、全ては深い御縁で繋がっています。

旧・理智光寺跡の護良親王墓所

鎌倉宮の南東に沿って瑞泉寺に向かう二階堂大路を渡ったところが旧・理智光寺の跡地です。春先には、河津桜と沈丁花がとても美しい。

護良親王の墓所は、この裏山の階段を二百段近く登った頂上にあります。

登って・・・。

また登って・・・。

上方の金属製の門扉の向こうに、少し変わった形をした宝篋印塔様式の墓石があります。相輪の石は先が欠けている他、塔身の石と基礎の石が逆に積まれているものと思われます。

護良親王墓(鎌倉宮・宝物殿パンフレットより)

妙法寺裏山の護良親王墓所等

妙法寺の中興の祖と云われる日叡上人は、護良親王と南御方(みなみのおんかた)との間に生まれた方で、裏山にお二人のお墓を立てられました。まずこちらが護良親王の御墓です。旧・理智光寺の御墓とは異なり五輪塔です。

護良親王の御墓とはだいぶ離れたところに南御方の御墓があります。

日叡上人の御墓も、日蓮上人の供養塔等と並んで、この裏山にあります。下の写真の一番右手の五輪塔がそれです。

最後までご覧いただきありがとうございました。明治天皇が北朝系の御血筋であったにもかかわらず、何故に、ここまで護良親王を始めとする建武中興に功のあった南朝系の方々の祭祀に力を入れたのか・・・。明治維新の裏面史を掘り下げてみると面白いかも知れません。