華林山・最上院・慈恩寺◆坂東三十三観音霊場(第十二番)参拝◆
- 2024.03.02
- 坂東三十三観音霊場参拝
天長元年(824年)淳和天皇の代に、天台宗山門派の祖、慈覚大師・円仁により現在のさいたま市岩槻区に開かれた華林山・最上院・慈恩寺の名は、慈覚大師が入唐の際に遊学した長安(現在の西安)・大慈恩寺に由来します。行基や空海が全国至る所の寺院の開山・開基に名を連ねているように、慈覚大師は、出身地の下野国を始めとした北関東から東北地方にかけての多くの寺社の縁起にその名を残しています。慈恩寺は、創建以来、江戸期に至るまで時々の岩槻領主の庇護を受けつつ長らくその寺勢を保ち、中世には本坊42・新坊24の計66坊を抱え、江戸期には徳川家康より与えられた寺領100石の他、現在の表慈恩寺・慈恩寺・裏慈恩寺の13万坪余りに及ぶ広大な地域を守護不入地として支配下に置いていました。
なお慈恩寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒慈恩寺へ
慈恩寺の魅力
◎歴史のかなたから語りかけてくる慈恩寺七不思議
◎仏教史の一頁を彩る奇跡玄奘塔
◎行基・空海を彷彿とさせる関東一円に広がる慈覚大師の足跡
◆慈恩寺の七不思議
一 種無し桃
日光二荒山に籠る慈覚大師が桃の種を投げ、この桃が根を下ろした場所を仏教弘道の地とすることを天に誓い各地を行脚しました。やがて現在の慈恩寺の相の原に至った折、毘沙門天の化身の老人より今を盛りと赤い花を咲かせている桃の木に案内され、この地こそと慈恩寺を開山しました。庫裏の横にある桃の木は毎年種のない実を生らせたそうです(現状は不明)。
二 十二天車
大師が沼に潜む赤龍を退治する際、十二神将の一天・毘沙門天から授かった車のことです。その後も慈恩寺に凶事・災害が起る時には大音を轟かせたとのことです。
三 白狐・三足雉子(きじ)
大師が十二天車で沼に向かう際に、車を先導した白狐と三つ足の雉のことです。
四 夏島(げしま)
大師が慈恩寺鎮護のため沼に向って三十七日間不動護摩の秘法を修した際に、沼より現れた龍女が、その功徳の得祝として七つの夏島を浮かべたとのことです。
五 龍燈
龍女が七つの夏島を浮かべた際に、仏閣を照らすよう大師にささげられた燈籠のことです。
六 沼渡りの藤
大師が沼を渡る際に、毘沙門天が現れて藤の弦を引っ張り掛け渡したので、これを伝って無事対岸に辿りつけました。
七 倒さ富士
この沼に弁天様を祀ると、水が鏡のように澄んで、池の南に「逆さ富士」が映ったとのことです。
他に、上記の「夏島」と「龍燈」に代って「片葉の葦」と「一つ目魚」を挙げることがあります。これら不思議の舞台となっている沼は現在も慈恩寺の東に残っており「慈恩寺親水公園」として整備されていますが、その昔は陰惨な気を漂わせたおどろおどろしい池で、神龍が住んでいたと云われます。神龍が村の美しい娘を見つけてその家に白羽の矢を立てると、その娘を人身御供に捧げるという風習が長く続きました。江戸期には藁人形に替えられ、お祀りしていた智元坊が明治の神仏分離令の折に廃寺となるまで続きました。池には釣り堀もありますので「一つ目魚」などいかがでしょうか。
境内図
山門
現在の山門は、元禄四年(1691年)に建立された後、多くの火災をくぐりぬけて現在に至る慈恩寺境内最古の建物で、本来は正面にある「本坊」の門にあたります。
山門脇の「華林山慈恩寺」の石標は、昭和15年(1940年)に皇紀二千六百年を記念して建立されたものです。
正面手前が手水舎、後ろが鐘楼です。山門入って左手には藤棚が見えます。
こちらは山門の裏側です。手前の銀杏の黄色が鮮やかです。
境内の銀杏並木が本坊に続きます。
左手には藤棚があります。こちらは慈恩寺の七不思議のひとつ「沼渡の藤」にちなんで、昔から守られてきた藤で、春になればとても美しい花を咲かせます。
こちらは昭和44年(1969年)の雪害により損壊した藤棚が昭和50年(1975年)に復興した際の記念碑です。
雷神塚碑
こちらは雷神塚碑で、嘉永五年(1852年)の建立です。
手水舎
観音経弘化四年(1847年)に寄進された手洗石は、正面に「奉納 清浄水」とあります。
寺号碑
こちらは本堂正面の市道に面して建つ「坂東十二番慈恩寺観音」の寺号碑です。
左側に見える宝塔は「法華五千部供養塔」で、文化十年(1813年)に建てられたものです。
こちらの庚申塔は舟形の光背を持つ「青面金剛」です。「花林山 慈恩寺 延宝九年(1681年)」とあり、境内の石碑・石仏の中でもかなり古いものになります。
こちらの案内板には、慈恩寺文書についての記述があります。慈恩寺には岩槻城主・太田資正の天文十八年(1549年)文書以下518点の古文書が伝えられさいたま市指定文化財となっています。
鐘楼
毎年大晦日には108人限定で「除夜の鐘つき」が行われています。
こちらの梵鐘の正面には「梵音海潮音」とあります。海潮音とは海鳴りのことで転じて、世界を満たす大自然の音を表します。宝暦四年(1754年)の銘があった先代の梵鐘は昭和18年(1943年)に戦時物資として供出され、長らく鐘楼には鐘がありませんでしたが、昭和51年(1976年)にこの梵鐘が寄進されました。
大香炉
本堂の正面にある大香炉は、昭和58年(1983年)に奉納されたものです。
蓋には大きめの鞠に前足を載せた唐獅子が置かれています。
本堂(観音堂)
慈恩寺の本堂(観音堂)は、焼失と再建を幾度も繰り返してきました。江戸期だけでも、寛永十一年(1634年)、文政十一年(1828年)、天保七年(1835年)と三度も焼失しています。寛永十一年(1634年)の火災では本尊の千手観音像も焼失したため、徳川家康のブレーンとして知られた天海僧正の計らいで現在のご本尊が比叡山から招来されました。現在の本堂は、天保14年(1843年)四十四世深乗上人により再建されたもので、昭和12年(1937)の改修で屋根の造りが寄棟から入棟に改められ、さらに平成28年(2016年)には平成大改修が行われています。本堂前の一対の天水桶は、百観音巡拝結願記念に昭和54年(1979年)に奉納されたものです。
こちらの鰐口は、大正二年(1913年)に改鋳されたものです。鰐口の上の丸い金具には、この鰐口を鳴らす際の鰐口紐が繋がれていたものと思われます。
本堂正面に掲げられた扁額「慈恩教寺」は、玄奘塔建立に尽力した五十世・大島見道師の筆で、昭和49年(1974年)に奉納されたものです。
向って左側の扁額「瑞雲」は、落款に「昭和五十年 小島耕平 八十三才」とあります。
向って右側の扁額には「慈航普渡」とあります。これは、「慈悲の心を持って現世の苦海を渡る衆生を普く済度する」という観音菩薩が立てた誓いを表したものです。
こちらは「びんずる尊者」です。
内陣正面の前立の千手観音像背後の厨子には、慈覚大師手彫りの千手観音が焼失した後の元禄年間(1688~1704年)に天海僧正が延暦寺より招来した本尊の千手観世音菩薩像が納まります。また両脇には、天保年間(1830~1844年)に造られた木造二十八部衆及び、鎌倉時代の作と伝えられる広目天立像が並び安置されています。
さらに天井には、幕末・明治に活躍した狩野寿信作の巨大な龍が描かれています。
◆本尊・千手観世音菩薩坐像
開山当初の慈恩寺の千手観音像は、慈覚大師が日光より投げた種から生えた桃の木の根から造られたとのことです。また、中ほどからは野島慈福寺(浄山寺)の本尊地蔵、梢からは慈林寺(川口市)本尊の薬師如来像が造られたとのことです。
本堂階段脇の仏足石です。
こちらの「鎮護国家」と刻まれた石柱は、昭和17年(1942年)に奉納された本堂前の旗石です。
南蛮鉄燈籠
こちらは、天正十七年(1589年)に岩槻城主・北条氏房の家臣・伊達房実が「天下泰平万民豊楽」を願って奉納したもので、願文が「蠟付け」技法で鋳込まれており、さいたま市指定文化財となっています。岩槻城はこの1年後に豊臣秀吉の北条攻めにより落城しています。
銅造・阿弥陀如来坐像
こちらは「八百屋お七」で知られる天和二年(1682年)の振袖火事の被災者供養のために造立されたもので、蓮弁には供養道師学頭三十四世法印亮全・宝永七歳(1710年)とあり、多くの奉納者の名が共に刻まれています。
如意輪観音坐像
右手の「如意輪観音坐像」は、寛政八年(1796年)に「女人成仏」を願って栢間村・医王院に奉納されたものですが、明治期に廃寺となり、こちらに遷座されたものです。
本坊
こちらは、昭和62年(1977年)に完成した本坊です。
慈恩寺の院号「最上院」の扁額です。
本坊復興記念燈籠
こちらのモダンな石灯籠は、昭和62年(1977年)の本坊竣工記念碑で、天台宗開祖・伝教大師最澄の言葉「一隅を照らす」が刻まれています。
納経所
こちらの納経所で、ご朱印を頂けます。
納経所では、十句観音経を配布しています。
歴代墓所
歴代ご住職の卵塔が並びます。手前の大きな宝篋印塔は、寛永十九年(1635年)の灌仏会に建てられたもので、正面に「権大僧都竪者亮雄法印逆修」左面に「奉読誦大乗妙典三千部所」とあります。
この付近には慈恩寺の旧境内各所にあった仏像・石碑がまとめて祀られています。中央左の地蔵菩薩坐像は享保十九年(1734年)のもので願主は平野村一同となっています。
開山堂
こちらは、現在慈恩寺親水公園となっている池の端にあった「行堂」を移設したもので、内部には慈覚大師像が安置されています。
こちらが慈覚大師像です。
◆慈覚大師
慈覚大師円仁は、平安初期に第三代天台座主を務め、天台宗山門派の祖とされており、下野国(栃木県)の豪族壬生氏の出身であることから、関東から東北にかけての多くの寺院で開山に仰がれています。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人に数えられるように、会昌廃仏の逆風の中、仏教経典・儀典の招来に大きな業績を残しました。殊に在唐約十年間の見聞を日記にまとめた「入唐求法巡礼行記」は、マルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「大唐西域紀」と並んで、世界三大旅行記の一つに数えられています。また、五台山から長安への行旅の途中には、大興善寺の元政和尚から灌頂を受け、伝教大師最澄以来の悲願であった金剛界大法を授かっています。
聖徳太子堂
日本の天台宗では、隋の時代に天台教学を大成した天台大師智顗は聖徳太子の生まれ変わりであるという伝承があり、さらに伝教大師最澄も聖徳太子の生まれ変わりと云われています。
そのため天台宗の寺院では、よく聖徳太子が祀られており、私の地元・鎌倉にある宝戒寺にも太子堂があって毎年1月には聖德太子講(しょうとくたいしこう)が催されています。
こちらは、聖徳太子堂内に安置された聖徳太子の丸彫立像です。台石には寄進者の名が刻まれていますが、造立年代を示す記載はありませんでした。
こちらは、昭和四年(1929年)に建てられた「太子堂移転修繕碑」です。
こちらは明治四十四年(1911年)に建てられた太子社修繕記念碑です
白馬堂
白馬堂は宝暦年間(1751~1764年)に建立されたものです。日光東照宮など各地の神社では神馬を飼う厩舎が建てられていましたが、飼育の負担から次第に馬の彫像に置き換わってきました。こちらの白馬堂に神馬が飼われていたかどうかは存じ上げませんが、現在は白馬像が祀られています。
白馬堂の右手の宝篋印塔は宝暦十二年(1762年)3月2日に建てられたもので、笠の正面に「卍」が刻まれています。塔身の四面には各々梵字で「種子」が刻まれています。
忠魂碑
右側の忠魂碑は明治45年(1912年)に、日露戦争の戦没者の慰霊碑として建立されたもので、「忠魂碑」の書は名筆家として有名な陸軍元帥・乃木希典の筆によるものです。裏面には「福原栄之助謹書 岩槻町石工田中忠次郎・関野源太郎謹刻」とあります。
左側の大きい忠魂碑は昭和29年(1954年)に建立されたもので、支那事変から大東亜戦争にかけての戦没者を慰霊・顕彰します。正面には「忠魂碑 靖国神社宮司筑波藤磨」とあり、裏面の碑文の最後に「慈恩寺村新井彦太郎謹言 石工田中忠次郎謹刻」と刻まれています。
菊花展
境内の石碑群
堂閣修繕記念碑
こちらの石碑は大正十年(1921年)に建立されたもので、表には「慈覚大師開基坂東十二番 千手観音尊霊場 八十叟柳伝大作暘書」とあります。
本堂改修記念碑と本堂改修募縁碑
左手の石碑には「本堂改修記念碑 権大僧正大見書」とあり、右手の石碑には「本堂改修募縁記」とあって昭和12年(1937)の改修に寄与した皆さんの名が刻まれています。二つの石碑はペアで建てられたようです。
善光寺参拝記念碑
(財)善光寺保存会の旧慈恩寺村在住者により大正七年(1918年)に建立された善光寺参拝記念碑です。
稲荷大明神
こちらは文化五年(1808年)に建てられた稲荷大明神の石祠です。
赤井薬師
赤井薬師は、慈恩寺山門を出てすぐ左の四つ角を進んだ左手にあります。その昔は慈恩寺の塔頭の一つ閼伽井坊境内に祀られていたようです。堂内の厨子は、小さいながらも立派な造りで、近年に奉納されたものらしく金色も褪せておりません。
玄奘塔
玄奘塔は、本堂(観音堂)の南東・雑司山にあります。昭和17年(1942年)に、日本陸軍が南京郊外に稲荷神社を建設しようとした際、石棺に入って発見された玄奘三蔵(三蔵法師)の霊骨(頭骨)の一部が水晶の壺に収められています。<br>
霊骨は、金・モンゴルに圧迫された宋代に、演化大師可政により長安(現:西安)から南京にもたらされたもので、太平天国の乱で行方不明となっていました。発見後、昭和19年(1944年)に南京玄武山に玄奘塔を建立し奉安されるとともに、日本へも分骨され芝増上寺に納められていました。<br>
その後、空襲の激化に伴い、蕨市の三学院を経て、玄奘三蔵が住した「大慈恩寺」に由来する寺名を頂く「慈恩寺」に移され、戦後の混乱がやっと落ち着き始めた昭和25年(1950年)に、日本仏教会及び台湾国民党政府の賛同を得た当時の慈恩寺住職大島見道師の尽力により、当時1,200万円を掛けて玄奘塔が建立され、昭和28年に落慶を迎えました。<br>
さらに、昭和30年(1955年)には台湾・日月潭の玄奘寺、昭和56年(1981年)には奈良の薬師寺・玄奘三蔵院へ分骨されています。
現在の日本仏教において最も親しまれている般若心経を中国語訳したのは、玄奘三蔵であり、その霊骨が収められているこの地こそが日本の「心経故地」と云えます。
牌楼(ぱいろう)
中華街などで見慣れた中華様式の門で、一般に牌楼(ぱいろう)と呼ばれており、玄奘塔のような供養塔に設置されるものは「陵墓祠堂牌坊」に分類されます。道教との習合が進んだ中国の寺院の山門などはこうした様式ですが、日本では八百万の神々との習合が進むなか、古来より培われてきた神社建築のノウハウと融合し、太い木材をふんだんに使用した大規模な寺院建築が進歩を遂げます。 このように様々な意味で現地と融合しながら根付いていくのが仏教の特徴のようです。
仏教的に云えば、弘法の地に鎮まる地元の神様は森羅万象の現れであって、数多ある「現象」という名の「幻影」の一つに過ぎず、キリスト教やイスラム教のように現地の宗教と同じ土俵に降りて仁王立ちし、バトルロワイアルを繰り広げるヤハウェ的宗教観とは明らかに次元が異なります。神代から続く長く重厚な歴史を背景に、仏教的なものの見方が根付いた日本では、利益誘導と脅しを交えつつ、古代ギリシャ以来のレトリックを駆使した宗教論をいかに仕掛けようともキリスト教に靡く者が増えないのは当然で、まさに「釈迦に説法」といったところです。
石灯籠
対になっている立派な石灯籠は、もとは、将軍・徳川家斉(院号:文恭院)逝去の折、天保十二年(1841年)に信州・上田藩主・松平忠優及び奥州・棚倉藩主・松平康爵より、家斉が眠る東京上野・寛永寺に奉納されたものです。松平忠優は当時の寺社奉行で後に老中にまで上り詰めています。江戸期以降、慈恩寺は東叡山寛永寺の末寺でしたので、その縁から移築されたものと思われます
大摩尼車
こちらの大きな摩尼車は、平成25年(2013年)に玄奘三蔵1350年遠忌を記念して奉納されたものです。記されている梵字は、梵字悉曇の大家・児玉義隆(種智院大学副学長)の筆によるもので、仏教誕生の地で玄奘三蔵も訪れたネパールで製作されました。
玄奘塔
こちらの大香炉は、本堂前の大香炉と対になるもので、こちらの唐獅子には、鞠がありません。
こちらが「唐玄奘三蔵霊骨塔(玄奘塔)」です。
全高15mにも及ぶ十三重の石塔で、玄奘三蔵の命日にあたる昭和二十五年(1950年)2月5日に建立されました。東武鉄道の根津嘉一郎(二代目)が寄贈したもので、設計は平安神宮・築地本願寺といった重文級の近代寺社建築を手がけた伊藤忠太です。ここでは毎年この日に「玄奘祭」が執り行われます。
こちらは「玄奘塔」建立に尽力した方々の「顕徳之碑」です。本坊復興を記念して、昭和61年(1986年)に建てられました。
一対の笠塔婆で、梵字が刻まれています。
玄奘三蔵銅像
天竺に向かう玄奘三蔵の姿です。
◆玄奘三蔵
中国・隋の仁寿二年(602年)に現在の洛陽に生まれた玄奘三蔵は、郊外の浄土寺で得度した後、中国の各地を遊学しました。そして貞観三年(629年)にはインドに旅立ち16年間学んだ後、多くの経典を唐に持ち帰り、唐・太宗の命により長安・大慈恩寺にて翻訳に努め、「大般若経」の翻訳を終えた100日後に示寂しました。この間、日本僧の道昭は、玄奘に教えを受け、帰国後、弟子としたのが東大寺毘盧遮那仏造立で知られる行基です。
上院大権現
慈恩寺の開創にあたり慈覚大師を幾度となく導いた毘沙門天(多聞天)が、本坊の裏手に上院大権現として祀られており、毎年11月16・17日は秋大祭が執り行われます。かつての秋大祭は、それはそれは賑やかで、昭和初期には近隣の白岡町の「めがね橋」まで出店が並んでいたそうです。また、このお祭りには新嫁が姑とともに参詣し、赤飯を奉納する風習がありました。
◆本尊鎮守利生の話
永正年中に松山宿に寺嶋善六という人がおり、常日頃から慈恩寺観音と上院大権現を信心していましたが、60歳を過ぎて病に倒れ余命幾何かとなったことから、妻子に慈恩寺への代参を頼みました。すると「徐病延命を願うよりは臨終正念往生仏土を願うべし」とのお告げが下ったので、その後一心に往生成仏を念じたところ、四日目になって千手観音・上院大権現が多くの聖衆を引き連れ空を覆っていると言い残し、眠るように往生を遂げました。その後50日間、家の周囲はよい香りに包まれたとのことです。
最後までご覧いただきありがとうございました。実はこの記事はもう少し手早くとりまとめ公開するつもりだったのですが、調べ始めますと何気ない一つ一つのアイテムの背後に奥深い歴史の積み重ねが垣間見られ、圧倒される思いがいたしました。9世紀より続く古刹だけに「さすが」としか言いようがありません。
-
前の記事
鶴岡八幡宮・三月の祭礼と行事~草木萌ゆる弥生~ 2024.01.22
-
次の記事
安国論寺~梅かまくら寺社特別参拝(2024年)~ 2024.03.10
コメントを書く