金沢八景・称名寺◆境内散歩(その2)◆称名寺庭園~阿字ケ池・反橋/平橋~北条顕時/貞顕墓所等
- 2021.05.21
- 境内散歩
称名寺の見所と云えば、何と言っても関東有数の浄土式庭園「称名寺庭園」です。文保三年(1319年)から翌年の元応二年(1320年)にかけて、性一法師の手により造られた「称名寺庭園」は、梵字の「ア」を模したとされる「阿字ヶ池」とそれに架かる反橋と平橋を中心に広がります。七堂伽藍整備後の正中は金堂→平橋→中の島→反橋→仁王門の南北軸となりますが、金沢文庫に抜ける隧道手前の広場にあった創建当初の称名寺(=阿弥陀堂)の位置からも、東方向に阿字ヶ池を眺めることができます。
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境内図
阿字ヶ池
現在の阿字ヶ池は、鎌倉期の全盛期を模して南北中央に反橋・平橋が架かっておりますが、昭和62年(1987年)の改修までは、この場所に2本の橋はなく、幅広の地面でつながり一カ所短めの石橋が架けられているだけでした。その代わり、阿字ヶ池の西側に祀られていた荒神祠と弁天祠を結ぶ通路が池の中を通っていました。
3月下旬の 「阿字ヶ池」 周囲の桜は見事です。
反橋
仁王門を過ぎるとまずは反橋です。
中の島
反橋を渡りきったところが、阿字ヶ池に浮かぶ中の島で、平橋に続きます。
平橋
平橋を渡ると金堂前に出ます。こちらは平橋を渡り切ったところから仁王門方向を見たものです。
美女石
鎌倉時代に北条の姫君が阿字ヶ池で溺れ、それを助けようとした侍女共々に亡くなり「美女石」と「姥石」に姿を変えたという伝説ありますが、現在は「美女石」のみが残されています。かつては称名寺の「美女石」「姥石」、琵琶島弁天の「福石」、金龍院の「飛石」をあわせ「金沢四石」と呼ばれていたそうです。
確かに、被り物を羽織った高貴な女性の後ろ姿に見えます。
「姥石」が「美女石」の傍らにみられる昭和14年の写真が残されていますが、その後「姥石」の行方が分からなくなってしまいました。実は昭和62年(1987年)に行われた阿字ヶ池の発掘調査で発見されるものと期待されていたのですが、浚渫しても見つからなかったそうです。
青葉楓
称名寺の「青葉楓」は、室町時代・佐阿弥作の謡曲「六浦(むつら)」の謡蹟として知られています。金沢三山の数多の楓に先立ち唯一見事に紅葉しているこの楓に感嘆した鎌倉連歌の祖・冷泉爲相卿が「如何にしてこの一本に時雨けむ、山に先だつ庭のもみぢ葉」 と詠んだことを知り、この楓は「これにて功成り名を遂げた」と思い、以来色付くのを止め常緑の「青葉楓」となったとの行(くだり)が「六浦」にあります。 なお、現在の青葉楓は「?代目」で、平成20年頃に「謡曲史跡保存会」により植樹されたものです。なお2代目の切り株は保管されているそうです。
◆金沢八名木
金沢の八名木として「青葉の楓」「西湖梅」「黒梅」「桜梅」「文殊桜」「普賢像桜」「蛇混柏」「雀ケ浦一本松」が挙げられていますが、瀬戸神社境内で延宝八年(1680年)に倒れたまま残されている「蛇混柏」を除けば、残念ながら何れも失われています。実はこれら八本のうち前六者は、かつて称名寺境内にあったもので「青葉の楓」が現在の二代目の場所にあった他、「江戸名所図会」によれば「西湖梅」は「鐘楼」東側の阿字ヶ池畔に、「文殊桜」は阿字ヶ池東側の支院「一之室」の前庭に、「普賢像桜」は金堂裏手に描かれています。また「新編鎌倉志」によれば「黒梅」跡が「中の島」の西半に、「桜梅」が「西湖梅」の東隣に描かれています。あと「雀ケ浦一本松」は現在の野島公園内にかつてあった四望亭の岩上に生えていたそうです。
阿字ヶ池の祠
阿字ヶ池のに浮かぶ小島には「天神社」「荒神社」「弁財天社」の三社が夫々鎮座していました。寛政二年(1790年)に描かれた「称名寺境内古絵図」には細い池中の参道で繋がった三つの小島と祠が描かれています。
現在でも阿字ヶ池東半の小島に小さな祠が見えますが、こちらが天神社です。
改修前にかつてあった阿字ヶ池西半の二つの小島には、夫々「荒神社」「弁財天社」が鎮座していました。こちらがその付近の写真です。中央の小橋の左手が「弁財天社」のある小島と思われます。ちなみに、この石造りの小橋は、江戸の豪商・石橋弥兵衛が寄進したものです。
阿字ヶ池の黄菖蒲
桜の頃を過ぎ、5月になりますと「阿字ヶ池」の池畔は、鮮やかな黄菖蒲に埋め尽くされます。
なお黄菖蒲は、「菖蒲」と名付けられていますがアヤメ科の植物です。
池に沈んだ景石と橋脚
昭和62年(1987年)の阿字ヶ池の保存整備事業では、池の水を抜いて池の底の状況を詳しく調査しました。すると鎌倉期の造営当初のものと思われる景石と木製の橋脚が現れました。
阿弥陀堂跡地(金沢文庫旧館跡地)
現在、阿字ヶ池の西側に広がる広場は、現在の称名寺の元型である「阿弥陀堂」があった場所です。
「称名寺絵図」を右に90度回転し、このあたりを拡大すると以下のようになります。ここで「稱名寺」と記された寝殿造風の建物が、北条実時が念仏堂として造立し「阿弥陀堂」とも呼ばれていた元型の「称名寺」です。当初は、実時の舅にあたる乗台以下3名の僧侶が住する念仏寺でしたが、貞顕の頃には、称名寺絵図にあるような真言律宗の大伽藍の一部に組み入れられました。
後世になるとこの場所は「阿弥陀院」という境内支院の一つとなっていましたが、明治三十年の時点では、消滅しています。
広場の北寄りには孔子木が青々と茂っています。
広場の西側は崖になっていますが、二つの隧道があります。北側の現在使われていない隧道は鎌倉時代に掘削されたもので、「称名寺絵図」 にも「稱名寺」の建物の裏手に扉付きで描かれています。鎌倉時代の金沢文庫の位置は正確には特定されていませんが、この隧道の向こう側(文庫ヶ谷)にあったという説が有力です。
広場の周囲には、何本も銘木がありますが、下の写真は銀杏の古木です。
こちらは、現在の金沢文庫に向かう隧道の手前にある北条実時の胸像です。
北条顕時/貞顕墓所
広場の北側に、北条実時の子・顕時と孫の貞顕の墓所があります。
北条貞顕公墓所
向かって右側の 門扉の記載は「北條顕時公御廟」となっていますが、1935年に、こちらが北条貞顕の墓所であることが確認されました。
北条顕時公墓所
門扉の記載は「金澤貞顕公御廟」となっていますが、こちらが北条顕時公の墓所です。こちらから出土した顕時公の青磁の骨臓器は、重要文化財となっています。
新宮古址
こちらは、阿弥陀堂跡地の南側にある境内鎮守・新宮の古址です。もともとは八幡神をお祀りした八幡社でしたが、いつの間にか熊野神社系の社名となっています。古址とありますので祭祀は途切れているのでしょう。社殿は寛政二年(1790年)に再建され、昭和58年(1983年)に修理が施されました。
もともとの八幡社に掲げられていた亀山天皇御宸筆の扁額です。「八」の字は、鶴岡八幡宮と同じく、鳩をイメージした鳥虫書体で書かれています。
金沢文庫
北条実時以降、金澤北条家に蒐集されてきた書画、彫刻、書籍等の様々な文物は、金沢文庫に収蔵されていました。設立当初の金沢文庫の場所は、明確にはなっておりませんが、現在の金沢文庫と同じ「文庫ケ谷(ぶんこがやつ)」にあった可能性が高いと考えられています。称名寺境内からは、阿弥陀堂跡の広場の南辺に沿って進むと隧道があり、それを潜ると表玄関に出ます。
隧道の内側には、安藤広重の「武州金沢八景」図を焼き付けたセラミックの板ががはめ込まれています。 金沢八景と名付けたのは、中国・明からの渡来僧・東皐心越禅師で、故郷・杭州の瀟湘八景になぞらえ、能見堂からの絶景を「金澤八景」と名付け、八篇の漢詩に詠み上げました。
こちらが平成2年(1990年)に新築された現在の金沢文庫です。
こちらは「文庫ヶ谷」の道路側から見た金沢文庫です。
現在の場所に移転する前の金沢文庫は、現在の阿弥陀堂跡地の広場にありました。こちらは、伊藤博文の呼びかけで大宝院境内に再建された明治の金沢文庫が関東大震災で被害を受けたことから、昭和2年に実業家で政治家でもある大橋新太郎氏の寄付により建築された鉄筋コンクリートの立派な建物です。
最後までご覧いただきありがとうございました。次回は、金堂・釈迦堂・鐘楼及び金沢三山内の史跡をご紹介します。
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