金沢八景・称名寺◆境内散歩(その1)◆赤門・仁王門・光明院等

金沢八景・称名寺◆境内散歩(その1)◆赤門・仁王門・光明院等

最近の横浜市金沢区といえば、 沖合の人工島に造られた水族館と遊園地の複合リゾート施設「八景島シーパラダイス」が有名で、その海岸線には工場と倉庫が立ち並び、もともとの入海「瀬戸の内海」とその周辺は東京・横浜のベッドタウンとして大小の商業施設と住宅に埋め尽くされています。しかし平安期以降、 武蔵国久良岐郡金沢村とその周辺は東日本有数の景勝地として知られ、江戸期には中国の「瀟湘八景」に倣い「金沢八景」と名付けられるほど風光明媚な土地でした。今回ご紹介する称名寺も「称名寺の晩鐘」として「金沢八景」のアイテムに組み込まれています。称名寺は、鎌倉執権・北条氏の一族「金沢流」の事実上の始祖・北条実時の屋敷の中に建てられた念仏堂の「阿弥陀堂」が始まりで、そもそも寺号字体が、阿弥陀仏の名号である南無阿弥陀仏を称える「称名」に由来しています。実時が真言律宗に帰依した後、鎌倉幕府滅亡直前の貞顕の時代には真言律宗の関東における一大拠点として七堂伽藍を擁する大寺となりました。現在その伽藍の多くは失われていますが、1988年に保存整備事業を終えた「阿字ヶ池」を中心とする浄土式庭園は、北条得宗家が檀那となった建長寺・円覚寺クラスの大寺の庭園を上回る「さぞや」のスケールで、往時の金沢流北条家の繁栄が偲ばれます。

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境内図

称名寺境内図
案内板
案内板の中心部アップ

称名寺絵図(鎌倉期)

国の重要文化財に指定される「称名寺絵図並結界記」は、元享三年(1323年)に、七堂伽藍が整った直後の最盛期の境内を描いたものです。現在はもう存在しない金堂裏手の伽藍群、三重塔(瑜祇塔)、阿弥陀堂(阿字ヶ池西側の「称名寺」と記された建物)、阿字ケ池東側の伽藍群等が描かれています。

「称名寺境内図」(江戸期)

17世紀後半に描かれた「称名寺境内図」は、ほぼ現在のスケールに縮小した称名寺境内が描かれています。阿字ヶ池の西側には、小さな建物が二つ描かれていますが、上方の建物は「塔」と記されており往時の三重塔の一層目が残されていたもので「あかざ堂」と呼ばれていました。なお同時期の貞享二年(1685年) に刊行された「新編鎌倉志」では「弥勒堂」と記されていますが、称名寺では「弥勒堂」は「金堂」の別名であり恐らく誤りと思われます。下方の建物は昔の寝殿造風の贅沢な造りと比べかなり簡素となった阿弥陀院です。また赤門東側の小高い場所には、今はない観音堂が描かれています。現在、金堂の東側にある「釈迦堂」は文久二年(1862年)に建立されたものですので、この時点では存在しません。

称名寺明治絵図(明治期)

「称名寺明治絵図」には、明治三十年(1897年)に 伊藤博文が大宝院内に再興した金沢文庫が描かれています。三重塔の場所にあった鎌倉期唯一の遺構「あかざ堂」は、明治16年頃に焼失してしまったため「跡地」として記載され、阿弥陀堂も消滅しています。釈迦堂の前には、鐘楼と共に、それを再興した江戸の米問屋・石橋弥兵衛の宝篋印塔(現存)が描かれています。

寺前参道

金沢区寺前の金澤八幡神社前の交差点を北東に入って行く道が、称名寺正面の参道です。この付近には「寺前」「町屋」といった称名寺門前町の地名の名残が見えます。

今は住宅が立ち並ぶ参道ですが、称名寺赤門前にある薬王寺西側の石垣と白壁がわずかに当時の面影を残します。

赤門(惣門)

明和八年(1771年)に建立された赤門より内側は、「称名寺境内」として国の史跡に指定されています。大正十一年(1922年)に指定された当初は「称名寺絵図並結界記」の清浄域のみでしたが、昭和四十七年(1972年)には裏山・金沢三山(金沢山・稲荷山・日向山)、赤門から仁王門に至る参道、光明院・大宝院の両塔頭地域が追加指定されました。

総本山・西大寺を中心に叡尊が確立した真言律宗は、極楽寺に拠った忍性により関東にも地盤を広げて行きました。さらに称名寺建立によって鎌倉幕府の中枢・金沢流北条氏とも緊密な関係を築くことができた訳で、称名寺はまさに真言律宗・別格本山という寺格に相応しい存在と云えます。

赤門脇の桃の花が、本当に鮮やかで・・・。

境内参道

桜の頃は、こんなに華やかな参道が、仁王門に向けてまっすぐに伸びます。

振り返るとこんな感じ。

葉桜の頃になりますと、一転して緑一色です。

仁王門

阿形・吽形の仁王様がにらみを利かせる仁王門は二層の楼門です。中を通り抜けることはできませんが、真正面の阿字ヶ池に掛る赤い反橋が期待を膨らませてくれます。現在の仁王門は文政元年(1818年) に、江戸の豪商・石橋弥兵衛の寄進により建立されたものです。

仁王門脇のケヤキ

扁額には山号の「金澤山」とあります。

仁王様は、元享三年(1323年)に院興を大仏師として造像されたもので、初代の仁王門とほぼ同時期のものと考えられます。像高は4m弱と関東では最大級の巨体で、神奈川県の重要文化財に指定されています。

阿形
吽形

仁王様の全身像は、こんな感じ。

阿形(「金沢文庫資料」より)
吽形 (「金沢文庫資料」より)
裏手
裏手左側の登り口

桜越しに見るとこんな感じ。表と裏です。

仁王門手前・庚申塔・石碑群

仁王門を背に右手前の墓地入り口に数柱の庚申塔及び石碑が集められています。

この中で、赤い前掛けが掛けられている石碑には「金澤札所第二番」とありますが、これは江戸期まで赤門に向かってすぐ右手にあった長浜山慈眼寺の「金澤三十四観音霊場第二番札所」石標です。

向かって左から三つ目の下部が失われた石標にも「金澤札所」の文字が読み取れますが、こちらも長浜山慈眼寺の敷地内にあったものだそうです。

仁王門右手広場

金沢文庫古地碑

称名寺の敷地内に金沢文庫が置かれていたことを示す記念碑で、もともとは阿字ヶ池の中の島にあったものです。寛永六年(1794年)に、金沢流北条氏の子孫とされる旗本・金沢安貞の撰文があります。 旗本・金沢氏は江戸時代に、佐渡奉行、長崎奉行などを輩出する実務官僚の家で、金沢文庫・称名寺の保護に努めました。

金沢文庫古地碑

忠魂碑

本庄繁大将筆の大きな忠魂碑です。向かって右手には立派なケヤキが。

忠魂碑
けやき

観音堂跡

鎌倉時代、赤門に向かってすぐ右手の岩山の上には長浜山慈眼寺という寺院があり、「海中出現正観世音(通称:長浜観音)」が安置されていました。今は、短い階段をちょこちょこと上ったところに小さな祠があるだけです。

長浜観音は、長浜の漁師が海から引き揚げたもので「貝付観音」とも呼ばれていました。もともと長浜の「長浜山慈眼院福聚海寺」にあったのですが、廃寺となり「長浜山慈眼寺」に安置されていました。昭和十年(1935年)に称名寺の背後にある金沢山頂に八角堂(観音堂と呼ばれていました)が建てられると一時期そちらに移されましたが、現在では金堂に安置されています。

◆長浜観音由来
鎌倉時代初期、今の長浜公園あたり(富岡と柴町の間)は、「長浜千軒」と呼ばれるほどに繁栄していましたが、応長元年(1311)の大津波で全て流されてしまいました。しかし、一緒に流された「福聚海寺」の観音様が身代りになって下さったおかげで、一人として死人を出さずに済みました。観音様は、その後3年間、海中で光を放ち、鳴動を続けたそうです。 さらに海中に没してから37年後の貞和3年(1347)には、柴村の漁師が観音様を発見し、海中より引き上げお祀りしました。その際、牡蠣殻が付着していたため「貝付観音」とも呼ばれるようになりました。

なお、応長元年(1311)の大津波で流された漁民が、柴町に漂着して、そこに居を構えた際に立てたお寺がこの近辺にありまして「此木山(このきさん )西方寺(さいほうじ)寶蔵院(ほうぞういん)」と云います。また廃寺となった「長浜山慈眼院福聚海寺」の他、この付近に「慈眼」又は「福聚」の文字を頂き観音様を本尊とする寺院が今でも三カ所あります。第一に、釜利谷東の真言宗御室派 「福松山(ふくしょうざん)慈眼寺(じげんじ) 自性院(じしょういん) 」、第二に港南区港南の高野山真言宗「南光山(なんこうざん)慈眼寺(じげんじ)福聚院(ふくじゅいん)」、第三に高野山真言宗「福聚山(ふくじゅさん)慈眼院(じげんいん)光明寺 (こうみょうじ)」です。「法華経」の「観世音菩薩普門品第二十五」に「具一切功徳、慈眼視衆生、福聚海無量、是故應頂禮」とあり「慈眼」「福聚」「無量」の三つのワードから一つ又は複数選んで「山号」「院号」「寺号」に借用するケースは少なくないのですが、同じ地区にこれだけ集中するのは、相互に何らかの関連性があるのかも知れません。金沢の目の前に広がる「無量」の「海」がキーワードとなっているような気がします。

光明院(称名寺塔頭)

現在、称名寺には、「光明院」と「大宝院」の二院の塔頭が残っています。江戸期には他に阿字ケ池西側の「阿弥陀院」、阿字ケ池東側の「一之室(いちのむろ)」、赤門西側の「海岸寺」の三つの支院が存在しましたが、「新編武蔵国風土記稿」に「光明院、仁王門に向かって左にあり、五院第一臈なり」とあるように、光明院はその筆頭とされ、今も多くの文化財を所有しています。なお戦国期の終わり頃の「五院」には「海岸寺」は含まれず「宝光院」がその一角を占めていました。

茅葺の表門は、寛文5年(1665年)の造立で、三渓園の燈明寺三重塔のように市外から移築された建物を除けば、横浜市で造営年代が判明している最古の建造物だそうです。

こちらがご本堂です。

平成18年になって運慶作であることが判明した大威徳明王像です。制作時期は称名寺創建よりも古い建保四年(1216年)で
江戸時代には現在の釈迦堂の東側の敷地にあった子院「一之室(いちのむろ)」に安置され、称名寺三十三霊宝の一つに数えられてはいましたが、弘法大師御作と伝えられており小像で破損していることからもあまり注目されていなかったのでしょう。 実は、以前に東京国立博物館で拝見したことがあるのですが、こんなに小さいの???と誰しもが思うコンパクトサイズで、手足をもがれたお気の毒な保存状態ですが、正面の恐ろしいながらもどこか「品」と「余裕」を感じさせるお顔と、胸元にのびるたった一本残された右腕のしなやかなカーブのバランスが「一級品」のそれと感じられました。

運慶作・大威徳明王像(「金沢文庫資料」より)

大宝院(称名寺塔頭)

光明院の向かい側の小路を20mほど入ったところに、もう一つの塔頭大宝院がありますが、現在は無住で、ご本尊の聖観音立像も称名寺金堂内に移し安置されています。

明治三十年(1897年)に 伊藤博文が横浜の実業家であった平沼専蔵の出資を仰いで大宝院内に再興した金沢文庫が描かれている「称名寺明治絵図」の拡大図です。

こちらは当時の金沢文庫・書見所の写真です。

再建後・金沢文庫書見所玄関

最後までご覧いただきありがとうございます。次回は、阿字ヶ池とその西側の旧蹟をご紹介します。