鎌倉・延命寺◆境内散歩◆

鎌倉・延命寺◆境内散歩◆

延命寺は、下馬四つ角から大町通りを逗子方面に少し進んで、JR横須賀線・大町踏切手前右側にあります。逗子・鎌倉近辺に住んでいる人は車で移動する際に大町通をよく利用しますので、お寺の名前はご存じなくともそこにお寺があることだけは、ご存じの方が多いと思います。こじんまりとした境内ですが、鎌倉三十三観音霊場の第十一番札所、鎌倉二十四地蔵尊霊場の第二十三番札所として知られています。また「身代り地蔵」の伝説、赤穂四十七士との関係、「古狸塚」の由来等も中々に興味深いお話です。

なお延命寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒延命寺へ

※写真をクリックすると拡大します。

延命寺の魅力

◎どうしても親近感が湧いてしまう「身代地蔵尊」の伝説と「古狸塚」の由来

◎意外な広がりを見せる赤穂四十七士討入後のエピソード

境内の様子

下馬四つ角から逗子方面に向かい大町踏切の手前、カドキホールの真ん前に門柱があります。

門柱の脇には、ご本堂に鎮座する諸仏の御名を記した寺名碑があります。

ご本堂を正面から見るとこんな感じ。

ご本堂の中は、こんな感じです。正面はご本尊の「阿弥陀如来坐像」です。円応寺の閻魔大王像を彫った際の余りの木を利用して製作されたことから「余り弥陀」とも呼ばれています。また、ご本尊の向かって右脇の厨子に鎌倉三十三観音霊場第十一番札所本尊の「聖観世音菩薩立像」が安置されています。さらに向かって左奥の紅白の錦の幟の裏に隠れているのが鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十三番札所本尊の「伝・運慶作 身代地蔵尊」です。

◆「身代り地蔵」の伝説
北条時頼夫妻が双六に興じた際、負けた夫人が衣服を脱がなければならなくなり、困り果てた夫人が地蔵菩薩を念じたところ、裸の地蔵菩薩が表れて身代わりになってくれました。以来、夫人はこれを守り本尊として深く信仰し、人々も身代わり地蔵様として敬ったとのことです。こうした伝説を背景に持つ身代地蔵尊は、非常に珍しい裸身の女性を象っており、普段は赤い衣を着て双六の上に安置されています。元々延命寺は、この「身代り地蔵」を安置するための地蔵堂だったようです。それにしても夫人はやんちゃな方だったようですね。

◆「古狸塚」の由来
江戸時代の末期に、延命寺と隣の教恩寺に一匹の古狸が住み着いており、延命寺の住職が酒を買ってくるように頼むと、お使いに行ってくれたそうです。周りの人々にも可愛がられたこの狸が亡くなった際に葬られたのが下の写真の「古狸塚」です(うちの墓より立派です)。この時代は、延命寺も教恩寺ももっと広い境内をお持ちで、隣接していたんですね。

◆赤穂四十七士の一人・岡嶋八十右衛門との関係
江戸時代中期に赤穂四十七士の一人・岡嶋八十右衛門の長男・藤松が延命寺の住職をお勤めで、この方が書いた「義士銘々伝」が現存します。以前は「義士画像」もあったとのことですが散逸してしまいました。四十七士の遺児で十五歳以上は流罪等になりましたが、出家した者は罪を許されましたので、藤松が出家したのもこうした背景があったものと思われます。なお、岡嶋八十右衛門には二男一女計三名の子供がいて、次男・五之助は江戸長昌寺の住職になり、娘・お園さんは赤穂で亡くなっています。また、鎌倉市内の四十七士関係の史跡としては、大石内蔵助の遠縁にあたる大石平左衛門が営んでいた本陣跡が雪ノ下にあるとのことです(今度、探してみます)。

鎌倉三十三観音霊場第十一番、及び鎌倉二十四地蔵尊霊場第二十三番のご朱印は、庫裡で頂けます。

最近建てられた永代供養塔「月かげ堂」です。

隣に、代々住職の供養塔も新調されました。

目立たないところに石の祠がひとつありましたが、石扉が閉められており、何が祀られているのか不明です(おそらくお稲荷さんではないかと・・・)。

最後までご覧いただきありがとうございました。
ビジュアル的には地味な延命寺さんですが、これほど深みのある歴史的背景をお持ちとは、流石に鎌倉三十三観音と鎌倉二十四地蔵尊の札所を兼ねるお寺だけのことはあると再認識致しました。

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