鎌倉・光触寺◆境内散歩◆

鎌倉・光触寺◆境内散歩◆

光触寺は、地理的に逗子市街からの方が近く、逗子ハイランド住宅地を金沢街道に下りた付近の鎌倉・十二所にあります。もともとは比企ヶ谷にあった真言宗・岩蔵寺が弘安元年(1278年)に現在地へ移転し、翌弘安二年(1279年)に作阿上人(さくあしょうにん)が時宗の寺院として改めて開山したものです。この際「岩蔵」を山号に残し「岩蔵山光触寺」となりました。鎌倉の中心地から離れていることが幸いし南北朝から戦国時代に掛けての兵火に見舞われることは免れたものの、江戸時代には大地震により二度大きな被害を受けています。現在は、そうした災害を免れた国の重要文化財の阿弥陀三尊像を始めとする多くの貴重な文化財を有することで知られ、また鎌倉三十三観音霊場第七番札所、鎌倉二十四地蔵尊霊場第五番札所を兼ねておられます。

なお光触寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒光触寺へ

※写真をクリックすると拡大します。

光触寺の魅力

◎大きな災害を免れた重要文化財「阿弥陀如来三尊像」を始めとする仏像・寺宝群

◎意外なことに鎌倉市内で時宗開祖・一遍が開山・開基に名を連ねる唯一の寺院

◎早朝の爽やかな金沢街道の空気を味わえる鎌倉駅の喧噪から最も離れた鎌倉三十三観音霊場の札所

境内の様子

鎌倉逗子ハイランドから坂を下り金沢街道を右に曲がって少し進み、さらに右斜め前方に入っていく道を行くと、滑川の上流を渡る光触寺橋があります。

橋を渡ってさらに進むと、光触寺の山門が見えてきます。車で参拝する場合は、この山門の右側に回り込むと、駐車場があります。

山門はこんな感じで、寺号額が掲げられています。

山門の手前向かって左側には、寺名碑が建っています。

右側には、ご本尊の通称「頬焼阿弥陀」を刻んだ石碑が建っています。

山門を入って正面には、開基・一遍上人の銅像が建っています。

銅像前を左に向くと正面がご本堂です。こちらでお寺の方をお呼びするとご朱印もいただけます。

ご本堂(火印堂)には、国の重要文化財「阿弥陀如来三尊像」が安置されています。また、他にも伝・定朝作の「聖観音菩薩立像」、旧・大慈寺のご本尊であった阿弥陀如来の「仏頭」などが安置されています。

観世音菩薩立像
(伝・快慶作)
阿弥陀如来立像
別名:頬焼阿弥陀
(伝・運慶作)
勢至菩薩立像
(伝・湛慶作)

「神奈川縣文化財圖鑑」(神奈川県教育委員会)より

◆「頬焼阿弥陀」の伝説ご本尊の阿弥陀如来は、町局(まちのつぼね)という女性の持仏として、鎌倉を訪れていた仏師・雲慶(運慶)が製作したものですが、ある時、町局に仕えていた萬歳法師という僧が、盗みの疑いを掛けられ頬に焼印を押される始末となりました。ところが何度焼き鏝を押し付けても萬歳法師の頬には焼印が付きません。その夜、阿弥陀如来が現れ「何故、私の頬に焼印を押すのか」と仰しゃる夢を見た町局が、翌朝、阿弥陀仏のお顔を拝したところ、不思議なことにその頬に焼痕が残っていました。阿弥陀如来が念仏を欠かさない萬歳法師の身代りになられたとの霊験を感じた町局は、比企ヶ谷に岩蔵寺を建立し阿弥陀三尊を安置しましたが、阿弥陀仏の頬の焼痕は何度修復しても直らなかったそうです。また室町時代になって光触寺に施入さられた「頬焼阿弥陀縁起絵巻」(鎌倉国宝館・収蔵)では、この霊験に関わった者は皆、極楽往生を遂げたと描かれています。比企ヶ谷の岩蔵寺は、後に十二所に移転し現在の光触寺となりましたが、この出来事があったことから、光触寺の本堂は火印堂と呼ばれています。

ご本堂の向かって右側の地蔵堂には、塩嘗地蔵(しおなめじぞう)と小ぶりな六地蔵が安置されています。

◆「塩嘗地蔵」の伝説このお地蔵様は元々金沢街道沿いにありましたが、ある日、六浦の塩売りがお地蔵様の前を通る際に塩を供えていったところ、帰りには塩が無くなっていたことから、人々はお地蔵様が嘗めてしまったのだろうと思ったという逸話です。

ご本堂に向かって右奥は庫裡となっています。

庫裡の前には小さな池があり、傍らに七重の石塔が立っています。

夏場、この池はアメンボで一杯になります。

私がお参りした日には、池の周りの草にシオカラトンボが止まっていました。

最後までご覧いただきありがとうございました。
鎌倉の中心部からはかなり離れていますので、ご朱印を頂きにくる参拝者以外の観光客はあまり多くありませんので、落ち着いてお参りできます。

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