鎌倉・円覚寺◆境内散歩(その1)◆総門・三門・馬道・白鷺池等

鎌倉・円覚寺◆境内散歩(その1)◆総門・三門・馬道・白鷺池等

鎌倉五山の第二としてあまりにも有名な円覚寺は、建長寺開山・蘭渓道隆遷化の後に南宋より招来し建長寺五世に迎えられていた無学祖元を開山として、元寇の戦没者の霊を弔うため弘安五年(1282年)に、時の執権・北条時宗により建立されました。その後重厚な歴史を積み重ねつつ、現在も境内に計十八の塔頭を抱えるなど、建長寺と並ぶ鎌倉・臨済禅の中核寺院として重きをなしています。数多ある禅刹の中でも殊に特徴的な円覚寺の 事績として、明治から昭和にかけての二百七世住持・洪嶽宗演(釈宗演)とその弟子・鈴木大拙による禅文化の国際化への貢献が挙げられます。それまで欧米で仏教と云えば、スリランカやインドシナに南伝する「上座部仏教(じょうざぶぶっきょう)」がイメージされていた訳ですが、日清戦争に先立つ1893年シカゴ万国宗教会議での釈宗演の講演を嚆矢とし、さらにその後の鈴木大拙による「大乗起信論」の大胆かつ挑戦的な英語訳をはじめとした多くの英文著作と長年にわたる欧米での精力的な講演・講義等を通じて、中国を経た北伝・大乗仏教とりわけ日本の風土に根付き洗練された独特の禅文化が欧米インテリ層に広く認知されるようになりました。
円覚寺・境内散歩の第一回目となる今回は、総門・三門(山門)・馬道・白鷺池を中心にご紹介します。

境内図

円覚寺境内絵図

こちらが重要文化財に指定されている「円覚寺境内絵図」で、建武元年(1334年)頃に製作されたものです。 今は失われた法堂・華厳塔・三門回廊なども描かれており当時の七堂伽藍の様子がよくわかります。

馬道(うまみち・めどう)

「円覚寺境内絵図」をご覧いただければわかるように、大船から鎌倉中心部に抜ける旧・鎌倉街道が円覚寺境内の西南端を横切っていたことから、昔はその出入口二カ所に「北外門」「南外門」 が設けられていました。そのために牛馬の通行、閉門後の夜間通行で利用するために設けられたう回路が、境内南西の石垣の外側に沿って100mほど続く「馬道(うまみち・めどう)」で、今も実際に使用されています。なお明治43年(1910年)には県道21号線が開通し外門内を通行できるようになっています。
こちらの横断歩道付近が、関東大震災で倒壊した大船側の「北外門」のあった場所です。交番前を左手に入る小道が「馬道」です。

馬道北側入口
馬道

左側に見える小道が「馬道」で、ここが南側の入口になります。右手に見えるバス停が鎌倉側の「南外門」のあった場所です。「南外門」も関東大震災で倒壊しています。

馬道南側入口

白鷺池(びゃくろち)

円覚寺はJR横須賀線の北東側にあるというイメージが強いですが、実は県道21号線(旧・鎌倉街道)の南西側までが円覚寺の境内となっており、「大本山円覚寺」とある寺銘碑と五重石塔が総門正面の参道入口両脇に建っています。

この参道の両脇が「白鷺池」となっており、桜の頃には水面にピンクに映り込んだその姿を楽しめます。「白鷺池」の名前の由来は、開山・無学祖元が鎌倉に来た際に、鶴岡八幡宮の八幡大神が白鷺となってこの池に舞い降りたとの説話によります。なお現在の「白鷺池」は、昭和37年(1962年)に整備されたものです。

石橋を渡って、明治21年(1888年)以来境内を横切ることになったJR横須賀線の踏切を渡れば、総門前の石段下に出ます。

総門

横須賀線の窓越しに映る総門前の石段付近の風景は、まるで移ろう季節を切り取った一枚の写生画のようです。神奈川県にお住いの皆さんでしたら、子供の頃に遠足や校外学習でご覧になった記憶もお有りでしょう。

石段下には、いろいろな案内板が立っています。

円覚寺・由緒書
円覚寺・文学案内板
円覚寺・座禅会等案内板

これほどの大寺でありながら、誠に簡素な四脚の総門ですが、築地塀には、門跡寺院級の格式を示す五本の白線がしっかりと刻まれています。万延元年(1860年)に「総門」が修復された旨の記録がありますが、実際に建築された正確な年は分かっていません。

関東大震災で倒壊した後に旧外門より転用された薄手の門扉には向こう側が透けて見えるよう大ぶりな斜め格子がはめ込まれ、暑さの厳しい鎌倉にお似合いの涼しげな表情を見せてくれます。

山号「瑞鹿山」と白書された扁額は、数々の天災を免れてきたもので、15世紀に在位された後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の御宸筆とされています。開山・無学祖元が円覚寺創建にあたり法話を説いていると、山中から現れた白鹿も聞き入ったとの逸話から、この山号が付けられたのだそうです。

総門・裏側

総門とその手前の石段付近では、四季折々の表情を楽しむことができます。

春の顔

  

円覚寺・早朝

夏の顔

  

秋の顔

  

円覚寺・開山忌

冬の顔

  

受付付近

総門を入って左手に受付があり拝観料を納めて境内に入ります。

受付に向かって右手に御朱印所があります。

受付の向かい側にある休憩所では、ジュース類の自販機があるほか、グッズも販売しています。

裏門

こちらは、総門の南側にある裏門です。関係者の車両は、こちらから境内に入って行くことができますが一般車両は進入できません。

こちらは裏門の守衛所になっている「看門寮」です。「看門寮」 に向かって右奥に「般若水」が湧き出ています。

円覚寺・看門寮
円覚寺・般若水

三門(山門)

現在の「三門」は、天明三年から五年(1783~1785年)の間に、円覚寺中興開山として知られる第189世住持の大用国師(だいゆうこくし)誠拙周樗 (せいせつしゅうちょ)により再建されたもので、神奈川県の指定重要文化財となっています。建長寺の三門と比べると一回り小さく、唐破風なども設けずシンプルな造りとなっています。

◆誠拙周樗
大用国師(だいゆうこくし)誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)は、江戸時代後期、伊予国宇和島の人で、天明元年(1781年)に正続院僧堂の師家となって以降、現在の「三門」の再建を果たすなど荒廃していた円覚寺の再興に努め、後に円覚寺第189世住持となりました。ちなみに円覚寺の歴代住持の中で国師号を得た最後の住持でもあります。

三門は禅寺における「七堂伽藍」を構成する建造物の一つで「三解脱門」の略です。三解脱とは、涅槃に至るための 三つの三昧である「空」「無相」「無願」を指しますが、「三解脱門」は、それらの境地を三次元空間に象徴的に表出させた物理的存在として位置付けられます。つまり円覚寺の伽藍配置は、解脱に至る三つのステップの象徴である「三門」を潜り抜けて、涅槃世界の象徴である「仏殿」に至るというストーリーが織り込まれた造りになっているという訳です。

◆七堂伽藍
一般に禅宗では山門・仏殿・法堂(はっとう)・庫裡(くり)・僧堂・浴室・東司の七つの建物を指します。建物の配置及び独立性を別にすれば、現在の円覚寺には「法堂」以外の建物・設備は揃っています。


◆三解脱
三解脱とは、涅槃に至るための三つの三昧である「空」「無相」「無願」を指しますが、その境地を敢えて文字に起こせば、それぞれ次のように表現できます。
「空」・・・この世=宇宙は云わば遍く広がるn次元スクリーンに映し出された高次立体映像に過ぎません。
「無相」・・・この世は様々な「存在」に満たされ、それらは一見独立した別々の実体であるかのように捉えられています。しかしそれらは何ら実質を持たないn次元スクリーン上の高次立体映像であるという点で、まったく差はありません。
「無願」・・・このような実質のないn次元スクリーン上の高次立体映像は、たとえある瞬間手にしたように感じても、次の瞬間には別の映像に変化していくだけです。とりとめなく変化し続ける「存在」という名の映像に執着し「永縁に自分のものとしたい」「いつまでも変わらずにいたい」などと願ったところでそれは詮無いことです。

正面に掲げられた扁額には「圓覺興聖禪寺」と書かれていますが、こちらは延慶元年(1308年)頃の最初の「三門」再興の折に伏見上皇より賜った御宸筆の額草をもとに製作されたものです。

楼上の窓は、禅寺らしく、中国風の火灯窓となっています。

三門の軒は、放射状に垂木を配した禅宗様式の扇垂木で、楼上隅の組物は三手先となっています。 裏手から見るとよくわかります。

十一面観音、十二神将、十六羅漢像が安置されている楼上には、こちらの階段から登るようになっていますが、一般には公開されていません。

最後までご覧いただきありがとうございました。今回、これまで最も気になっていた円覚寺の「境内散歩」にやっと取り組むことができました。断続的になるとは思いますが、これから数回に分けてご紹介いたしますのでよろしくお付き合いください。