鎌倉宮◆境内散歩(前編)◆一の鳥居・拝殿・本殿・御土牢など

鎌倉宮◆境内散歩(前編)◆一の鳥居・拝殿・本殿・御土牢など

御祭神の大塔宮護良親王にちなみ「大塔宮(おおとうのみや・だいとうのみや)」とも呼ばれる鎌倉宮は、鎌倉市北東部の二階堂にあります。鶴岡八幡宮から金沢街道を少し東に進み、「岐れ路」交差点から北東にまっすぐに伸びる参道「お宮通り」を進むと、赤い笠木を渡した白塗の鳥居が遠くに見えます。創建は明治二年と比較的新しいのですが、明治天皇の勅願により唯一建立された神社として旧・官幣中社に列し、鎌倉では鶴岡八幡宮(旧・国幣中社)を上回る高い格式を誇り、毎月数多くの祭礼が執り行われます。また「建武の中興」に尽くした南朝方の皇族・貴族・武将を主祭神とする神社が集まる「建武中興十五社」の一社でもあります。
境内散歩(前編)の今回は、「一の鳥居」から「御土牢」にかけてをご紹介します。

◆大塔宮・護良親王
御祭神の護良親王は、後醍醐天皇の皇子として「建武の中興」に大きな役割を果たし征夷大将軍となりましたが、後醍醐天皇の勅勘を受け、当時この地にあった東光寺に幽閉され、翌年「中先代の乱」による鎌倉占拠の混乱の中、足利直義の家臣・淵辺伊賀守義博により殺害されました。親王の御首は、東光寺境内(現在の鎌倉宮境内の「御構廟」)に打ち捨てられましたが、旧・理智光寺の住職により現在の護良親王陵墓に葬られました。護良親王陵墓は、鎌倉宮より旧・二階堂大路を挟んだ向こう側にあります。なお護良親王のお墓は、親王の子息・日叡上人が住持を務めた妙法寺(鎌倉市大町)の境内にもあります。

◆東光寺
鎌倉宮が建立されたこの地には、関東十刹にも数えられた東光寺(臨済宗)があり、護良親王が幽閉され最後を遂げた寺院として歴史に名を残しています。廃寺の時期は、はっきりと記録には残されていませんが、15世紀半ばと考えられています。廃寺に際して、ご本尊をはじめとする諸仏は、かつて名越にあった医王山長善寺に移されましたが、長善寺もその後移転を繰り返しながら廃寺となり、現在では薬師堂のみが大町の「辻薬師堂」として残されています。そして旧東光寺から引き継がれてきた薬師如来(県重文)以下の諸仏は、現在鎌倉国宝館に保管・陳列されています。また、東光寺の故地は、護良親王墓のあった旧・理智光寺と併せて東慶寺の管理下にありましたが、鎌倉宮創建に際して供用されました。なお、現在鎌倉市寺分にある真言宗天照山薬王院東光寺は別の寺院です

鎌倉宮の魅力

◎鎌倉で最も重みのある旧官幣中社の社格

◎見通しのよい拝殿で奉じられとても拝観しやすい数多の祭礼

◎護良親王を中心に展開される建武の中興の物語

◆建武中興十五社
建武中興に功のあった南朝方の皇族・貴族・武将などを祭神とする以下の15社で「建武中興十五社会」が結成されています。

社名 主祭神 所在地 旧社格
吉野神宮 後醍醐天皇 奈良県 官幣大社
鎌倉宮 護良親王 神奈川県 官幣中社
井伊谷宮 宗良親王 静岡県 官幣中社
八代宮 懐良親王 熊本県 官幣中社
金崎宮 尊良親王・恒良親王 福井県 官幣中社
小御門神社 藤原師賢公 千葉県 別格官幣社
菊池神社 菊池武時公・菊池武重公・菊池武光公 熊本県 別格官幣社
湊川神社 楠木正成公 神戸市 別格官幣社
名和神社 名和長年公 鳥取県 別格官幣社
阿部野神社 北畠親房公・北畠顕家公 大阪市 別格官幣社
藤島神社 新田義貞公 福井県 別格官幣社
結城神社 結城宗広公 三重県 別格官幣社
霊山神社 北畠親房公・北畠顕家公・北畠顕信公・北畠守親公 福島県 別格官幣社
四條畷神社 楠木正行公 大阪府 別格官幣社
北畠神社 北畠顕能公・北畠親房公・北畠顯家公 三重県 別格官幣社

なお鎌倉宮のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒鎌倉宮へ

また、今回の記事の「後編」につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒「鎌倉宮◆境内散歩(後編)◆宝物殿・護良親王墓所など」へ

境内図

鎌倉宮境内図

一の鳥居

鎌倉宮境内入口に立つ「一の鳥居」は真っ白なコンクリート製で、笠木の部分が赤く塗られ、島木には花菱系の紋が三か所デザインされています。反りのついた笠木が島木に乗り、柱が斜めに立つ所謂「転び」があることから明神系の鳥居に分類できますが、貫が柱を貫通せず額束もない変わった形状です(創建当初は丸木の典型的な神明鳥居でした)。鎌倉宮は神社本庁に属さない単立系の神社ですが、もしかすると神社本庁=伊勢神宮=神明鳥居というラインと一線を画す意図があるのかも知れません。

初期の神明鳥居に掲げられていた明治天皇御宸筆の神額が、宝物殿に展示されています。

一の鳥居の脇には、「官幣中社鎌倉宮」の社銘碑や、掲示があります。鳥居の傍らに咲く小振りな河津桜は毎冬楽しみにしています。

こちらは、由緒書と社頭暦(2月)です。社頭暦は毎月更新されます。

鎌倉宮は、三浦半島八景の一つ「大塔の夜雨」として選ばれています。どんな感じになるのか、一度写真を撮ってみたいです。

境内は、こんな感じです。一枚目は「一の鳥居」を入った左脇のところから、二枚目は「二の鳥居」からの撮影です。

結都実参道(むつみさんどう)

境内の北側沿いの少し高い位置に設けられたバリアフリーの参道が「結都実参道(むつみさんどう)」です。

正月の元始祭の日に、神饌を頂くため「結都実参道」にできた行列です。

手水舎

こちらは二の鳥居手前、向かって左脇にある手水舎です。

こちらは、手水舎脇に植えられた梅の木です。護良親王の弟君で熊本・八代宮の御祭神でいらっしゃる懐良親王(かねよししんのう)がお手植えになった久留米の「将軍梅」の株を八代宮に移植したものを、明治期になってさらに鎌倉宮に移植したものだそうです。八代との交流の中で八代名物の「高田みかん」も「一の鳥居」脇に移植されています。

懐良親王の梅
高田みかん

厄割り石

こちらが「厄割り石」です。二の鳥居前の石段に向かって右側にある「盃割り舎」の中に置かれており、素焼きの盃を投げ当て割ることで、厄払いができます。

高野槇(こうやまき)

こちらは、悠仁親王のご誕生を記念して植樹された高野槇(こうやまき)です。高野槇は、悠仁親王の御印です。

二の鳥居

こちらが拝殿前の二の鳥居です。一見したところ一の鳥居にそっくりですが、一の鳥居より小振りで花菱紋がなく、また笠木が紅白の二段に分かれたデザインになっています。

拝殿

鎌倉宮の拝殿は、白木を用いた妻入りの切妻造で神明造の本殿とはかなり異質な造作です。舞殿を兼ねているため、壁がない開放的なデザインをとっており、周囲を回廊が取り巻いています。

こちらは、本殿に続く通路に降りる階段です。

鬼板には、金色に輝く菊の御紋がくっきりと浮かびます。

こちらは珍しい拝殿前の雪降桜。

中門(神門)

拝殿から本殿にかけての通路には屋根があり、雨に打たれることなく行き来できる構造になっています。またこのエリアは「幣殿」の役割を果たし、祭礼の際には御神職や参列者の皆さんの拝礼の場ともなります。本殿を囲む瑞垣のライン上に庇の深い「中門(菊の御紋の門幕が掛かっています)」があり、拝殿から中門手前の庇下までの通路には壁がなく床には砂利が敷き詰められています。祭礼に際しては、簀子(すのこ)が敷かれます。

北側から撮影
南側から撮影

例大祭等に際しては、参列者の皆さんが、このスペースにて拝礼なさいます。

中門及びその内側本殿寄りにある通路の床は江戸期に流行した権現造の「石の間」をイメージさせる石畳となっています。 中門より内側の通路の側面は、格子状の腰壁があるのみで、風通しのよい簡素な造りとなっています。正面の階段上の扉は、本殿の扉です。

本殿

本殿は、平入りの切妻屋根に風切りを明けた千木(ちぎ)を立て、鰹木(かつおぎ)を五本乗せた典型的な神明造です。本殿の周囲は棟塀と瑞垣で囲まれており、このエリアには一般人は立ち入ることができません。御神体である「護良親王御甲 御胴前後 御袖左右」は、かつて大塔宮が丹波国氷上郡(現在の兵庫県丹波市市島町)にある妙高山神池寺(じんちじ)に奉納したもので、梶井宮門跡(=三千院門跡)に貸し出されていましたが、創建に際して鎌倉宮に納められたものです。

瑞垣の内、本殿手前の小振りな屋根は摂社の南方社(みなみのかたしゃ)です。

本殿北側
東側から見た本殿裏手
本殿南側

南方社(みなみのかたしゃ)

瑞垣の内にある南方社(みなみのかたしゃ)は、明治七年に創建された鎌倉宮の摂社で、ご本殿に向かって左手に寄り添うように鎮座されます。御祭神の「持明院南御方(じみょういんみなみのおんかた)」は中納言・藤原保藤卿の息女で、大塔宮・護良親王の鎌倉行及び土牢幽閉に付き従い身の回りの世話をなさった方です。淵辺伊賀守により親王が害された後、上洛し後醍醐天皇に拝謁し親王の御最期の様子をお伝えなさいました。 なお南御方は、山梨県都留市の雛鶴神社の御祭神・雛鶴姫に比定されることもありますが定かではありません。南御方につきましては、摂社の例祭とは別に3月3日に「南方祭」が斎行されています。

もともとは瑞垣の外、拝殿に向かって左手の山裾に、もう一柱の摂社・村上社と並んで建てられていましたが、平成17年に現在の位置に移築されました。なお南方社の建物は、旧鎌倉第一国民学校内の奉安殿を第二次大戦後に移築したものです。 下の絵で描かれている摂社の建物は、移築以前のものです。

村上社

村上社は、ご本殿に向かって右手前、瑞垣の外に鎮座される鎌倉宮の摂社で南方社と同じく明治七年の創設です。もとは南方社と並んで、拝殿に向かって左手の山裾に建てられていました。御祭神の村上彦四郎義光(むらかみひこしろうよしてる)公は、元弘三年(1333年)の吉野挙兵の折、護良親王の身代わりとなって幕府軍に包囲された吉野城からの親王の脱出を助けた忠臣として知られ、明治になってから従三位が追贈されています。 なお村上社の建物は、旧鎌倉第二国民学校内の奉安殿を第二次大戦後に移築したものです。

社殿に向かって右手にあるのが、義光公の「撫で身代り像」です。平成17年の社殿移築の際に、台風で倒れた境内の欅を利用して制作されたものです。

拝観料受付所

拝殿に向かって左手に、御土牢、神苑や宝物殿への入り口があります。こちらは授与所を兼ねており、縁起物や神札等も拝受できます。

御土牢

本殿の裏手には、護良親王が9か月間幽閉されていたと伝わる「御土牢」があります。本殿北側の瑞垣に沿って進むと石碑があり、菊の御紋が入った白い石扉と白塗の塀で本殿と隔てられたその先のところに、木戸が閉じられた御土牢があります。ただ太平記の記述をきちんと読むと明り取りの窓を塗り込んで「土籠(つちごめ)」した建物であると思われ、「土籠」を「土牢」と書き換え、現在の横穴をその場所に比定したのは、後世のことと考えられます。

御土牢への通路
本殿側から見た御土牢前の扉
御土牢側から見た扉

最後までご覧いただきありがとうございました。鎌倉宮には、その格式にふさわしく多くの祭礼・行事がありますが、何れも見通しの良い拝殿で執り行われ拝観が容易ですので、神事の進行にご興味がお有りの方には是非お勧めです。次回は、宝物殿・太平殿などを取り上げた境内散歩(後編)となります。