鎌倉・円応寺◆境内散歩◆
- 2019.04.14
- 境内散歩
新居山(あらいざん)円応寺(えんのうじ)は、建長寺の境外塔頭で、県道21号線を挟んで建長寺の向かい側にあります。ご本尊の閻魔大王を始めとする「十王」が祀られていることから「閻魔堂」「十王堂」とも呼ばれ、毎年8月16日には大施餓鬼会が執り行われます。また鎌倉二十四地蔵尊霊場の第八番札所、鎌倉十三仏の第五番札所もお務めです。
なお円応寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒円応寺
※クリックすると拡大します。
円応寺の魅力
◎ご朱印帳の裏に染み透るほど墨を含ませた力強い「十王」のご朱印
◎閻魔大王像、初江王像を始めとした創建当初より伝わる重要文化財の宝庫
◎民衆に深く根差した「新居の閻魔さま」への信仰の証として伝わる閻魔大王に纏わる伝承の数々
円応寺の歴史
創建について
円応寺は、建長二年(1250年)に、鎌倉大仏の南東側、甘縄神明社の裏山にあたる見越嶽(御輿ケ嶽)に 創建されました。建長二年(1250年)といえば、建長寺が創建された建長五年(1253年)より前になりますので、創建年が正しいとすれば、開山当初は別の宗派に属していた可能性があります。また開山とされる智覚禅師(桑田道海)の没年は延慶二年(1309年)で、仮に80歳で没したとしても建長二年(1250年)の時点ではまだ21歳でしかなく、開山に据えられるには少し年齢が足りないと思われます。さらに、智覚禅師が師事した蘭渓道隆は1246年に来日したばかりで、そのわずか4年後(まだ蘭渓道隆 が建長寺を開山する前)に弟子が師匠を差し置いて一山を開くというのも考えにくいところです。開山を智覚禅師と称したのは、円応寺が現在の山ノ内に移転し、建長寺の塔頭としてのポジションが確定した後のことではないかと思うのですがいかがでしょうか。
滑川河口の荒居(新居)への移転
その後、鎌倉幕府滅亡時の由比ヶ浜合戦の戦死者を弔うために、足利尊氏により、由比ヶ浜の滑川河口付近の荒居(新居)に移転し「荒居(新居)閻魔堂」となったと伝えられています。現在その場所には、旧鎌倉町青年団の手により「荒居閻魔堂跡」の石碑が立てられています。銘文には「滑川ノ下流ヲ閻魔川ト称スルハ 、往昔此ノ辺ニ閻魔堂アリシタメ ニ生ゼシ名ナリト云ヒ、其ノ堂ハ後山ノ内ニ移サレ、今新居山円応寺ト唱エラルルモ、其ノ移転ノ年代ハ詳ナラズ」とあります。
◎円応寺の閻魔像に纏わる伝承
◆笑い閻魔
重要文化財に指定されているご本尊の木造閻魔王坐像は、運慶作と伝えられています。まだこの像を制作する以前の話ですが、あるとき、その運慶が突然死んで地獄に落ちてしまいました。地獄で閻魔大王にお会いしたところ、閻魔大王の像を造るのであれば生き返らせてやると云われました。もちろん運慶はそれを承知して生き返らせてもらうことができたのですが、生き返った喜びを隠せない運慶が、約束の閻魔像を笑いながら彫ったため、閻魔様まで笑っているかのようなお顔になったとのことです。
◆人食い閻魔
円応寺が滑川河口の荒居(新居)にあった頃、御本尊の閻魔様には瘧(おこり)を直すご利益があるとされていました。ある日、瘧にかかった子供を連れた親が「この子の願いを聞いてください(聞こし召し下さい)」と願った後、子供をお堂に一人籠らせてその場を離れたのですが、戻ってくると子供はおらず、閻魔様の口に子供の帯の端がぶら下がっていました。どうも閻魔様が「この子を召し上がってください」と聞き違えて子供を食べてしまったようなのです。
◆子育て閻魔
元禄大地震の際に、閻魔様が舌をのばして、津波にさらわれた子供達を救い上げたとの伝承から「子育て閻魔」とも呼ばれています。
山ノ内への移転
由比ヶ浜にすっかり根付いていた「荒居(新居)閻魔堂」ですが、元禄十六年(1703年)に発生した元禄大地震による津波で壊されてしまいました。このため翌宝永元年(1704年)に、ご本尊の閻魔大王像等は、建長寺の旧塔頭・大統庵の跡地である現在の場所に移転することになり、由比ヶ浜の故地名を山号にして新居山円応寺を名乗ることになった訳です。おそらく、建長寺の塔頭の列に加わったのもこのタイミングからと思われます。
境内の様子
円応寺は、境内での撮影に制限があるため、山門付近の写真しかありませんが、山門前の石段はこんな感じです。
正月
正月の山門です。円応寺では、しめ飾りは地面に置くようです。
桜の頃
盛夏(大施餓鬼)
8月16日の大施餓鬼の日には、一般の参拝客は、ご本堂に入ることができません。私は、閻魔大王の御影を頂きました。
円応寺の諸仏
ご本堂には、十王像(初江王を除く)を中心に文化財としても貴重な諸仏が安置されています。
木造閻魔王坐像(重要文化財)
木造閻魔王坐像は、胎内文書より創建年と同じ建長二年(1250年)の作とされており、重要文化財に指定されています。別項でご紹介したように「笑い閻魔」とも「人食い閻魔」とも呼ばれ、民衆に根差した信仰を集めてきました。
木造初江王(しょこうおう)坐像(重要文化財)
木造初江王坐像は、十王像のうちのひとつで、胎内文書より創建翌年の建長三年(1251年)の作とされており、重要文化財に指定されています。宋風の複雑な衣紋が特徴で、現在鎌倉国宝館に寄託されています。
俱生神(くしょうじん)坐像・二体(重要文化財)
人は生まれた時から、其々二体の俱生神を背負って生きているそうです。俱生神は、自分が担当する人の時々刻々の行動・発言を記録し、死後は閻魔大王による裁判の証拠として提出します。現在の監視社会を彷彿とさせる神様で、あまり一緒にはいたくないのですが・・・。現在鎌倉国宝館に寄託されています。
檀拏幢(だんだとう) (重要文化財)
檀拏幢(だんだとう) は、 閻魔大王の持つ杖で、人頭杖(にんずじょう) とも呼ばれます。閻魔王庁で亡者を裁く際に、その眼と鼻で、罪業の軽重を計る役割を果たします。男女の首がワンセットになっており、男性は太山府君、女性は暗闇天女です。 鎌倉国宝館に寄託中。
鬼卒立像(重要文化財)
閻魔大王の眷属で、地獄に落ちた亡者を責める役割を果たします。こちらも鎌倉国宝館に寄託中です。
奪衣婆(だつえば)坐像(県指定文化財)
閻魔大王の眷属の一人で、地獄に落ちた亡者の衣を剥ぐ役割を果たします。室町後期の作で、ご本堂に安置されています。
最後までご覧いただきありがとうございました。円応寺をお参りする場合は、鶴岡八幡宮にある鎌倉国宝館にもぜひ足を延ばして、初江王をご覧ください。
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