日光東照宮(後篇)~紅葉の日光遠征記2018(その10)~
- 2018.12.19
- 日光遠征記
「紅葉の日光遠征記」最終回(第十回目)となる今回は、前回に続き「日光東照宮」をご紹介します(今回は後篇です)。日光東照宮は始め「東照社」と称しており、「寛永の大造替」も終わった後の正保二年(1645年)に朝廷より宮号を賜り、初めて「東照宮」となりました。駿河からの改葬当初は質素だった建物ですが、「寛永の大造替」により日光東照宮の御本社は、拝殿・石の間・本殿(いずれも国宝)からなる豪華な権現造に生まれ変わりました。何れの建物も貝殻を原料に手間を掛けて作られた「胡粉(ごふん)」で真白に塗装され、金色に輝く金具が益々際ち、黒漆で塗装された家光公墓所の「大猷院」とは対照的に「華やかさ」が演出されています。大棟梁・甲良豊後宗広(こうらぶんごむねひろ)の指揮の下わずか一年半でこれ程の建物群を仕上げたスピード感は、戦国以来鍛えられてきた現場力の賜物でしょう。
境内図
ご朱印所
「陽明門」から東に延びる回廊(国宝)内に設置されています。私が参拝した日は平日でしたが、紅葉のシーズンということもあり、「日光東照宮」のご朱印を頂くのに1時間弱かかりましたので、先にご朱印帳は預けてご本殿を参拝することをお勧めします。
「日光東照宮」のご朱印は、こんな感じ。
神輿舎
「神輿舎」(重要文化財)は、「陽明門」をくぐって左手にあります。正面軒の唐破風に花灯窓と連子窓を組み合わせた唐風建築で、黒漆をベースに金色の金具で仕上げられています。
「神輿舎」には、「神輿渡御祭(しんよとぎょさい)」(通常「百物揃千人武者行列」と呼ばれる)で使用される三基の御神輿が格納されています。向かって正面が「東照大権現」、右側が「豊臣秀吉公」、左側が「源頼朝卿」です。
「東照大権現」
「豊臣秀吉公」
「源頼朝卿」
◆神輿渡御祭(百物揃千人武者行列)◆
家康公を駿河国・久能山から日光へ改葬した際の行列を再現したもので、春と秋の例大祭に行われます。特に春の例大祭では、三基の御神輿が全て出御し、二荒山神社境内から「上新道」「表参道」「中山通」を経由して約1km先の「御旅所」へ向かいます。行列は千人を超え、兵士鉾持ち100人、獅子、八乙女、神官、鉄砲持ち50人、弓持ち50人、槍持ち50人、鎧武者100人などで編成されます。「御旅所」では「八乙女の舞」「東遊」が奉納され、再び東照宮に戻ってきます。
神楽殿
「神楽殿」(重要文化財)は「陽明門」を潜って右側にあり、丁度「神輿舎」と対を為す形になっています。黒漆ベースの塗装は「神輿舎」と変わりませんが、軒下の造作には極彩色を多用し、ぐっと華やかな造りになっています。また例大祭において御神楽「八乙女の舞」を奉納する際に開け放てるよう、正面は「折戸」、他の三方は「蔀戸(しとみど)」で囲まれています。
祈祷殿
「祈祷殿」(重要文化財)は「神楽殿」の横にあり、結婚式や初宮等で使用され一般人にもなじみの深い建物です。私が参拝した時も、丁度結婚式が行われていました。こうした格式高い拝殿で結婚式を挙げられて、お二人とも幸せそうです。
「祈祷殿」の中は、こんな感じ。
唐門
「唐門」(国宝)は「陽明門」と比べると小振りですが、四方向すべてに唐破風がある珍しい「四方破風造」が特徴的です。また「陽明門」ほど原色は使用されておらず、左右の袖塀を含めて白・金・黒を中心にした重みある配色となっています。また彫刻の数は611体あり、「陽明門」の508体を上回っているそうです。
昇龍・降龍
正面の左右の柱には、龍の彫刻が施されており、向かって右側が「昇龍(のぼりりゅう)」、左側が「降龍(くだりりゅう)」となっています。また、この彫刻は柱に直接刻まれたものに黒漆等で着色したものではなく、黒檀に彫った龍を柱に埋め込んだ、贅沢な寄木造となっています。
「昇龍(のぼりりゅう)」
「降龍(くだりりゅう)」
舜帝朝見の儀
正面唐破風の見事な透かし彫りの中でもっとも有名な「舜帝朝見の儀」は、古代中国伝説の五帝の最後「舜」が、多くの朝臣より新年の挨拶を受けている場面を題材にしています。東照大権現・徳川家康公が、参拝に来た諸大名を閲するという形を彫刻で表現したもので、「舜」の顔は、家康公に似せて造形しているとのことです。
恙(つつが)・龍
唐破風の頂上中央の「恙(つつが)」は虎よりも強い霊獣だそうで、夜の守りを司っていますが、暴れださぬよう四肢を金輪で拘束した姿をしています。左右の唐破風の上の龍は、昼の守りに就いていますが、ヒレが切断され、こちらも金の輪で胴体を拘束されています。何れも江戸初期の名鋳物師・椎名兵庫頭の作で、「恙(つつが)」一頭で200両、龍はそれぞれ250両だそうです。椎名兵庫頭は「二之鳥居(唐銅鳥居)」や「鐘楼」の鐘も製作しています。
本殿・石の間・拝殿
現在、本殿・石の間・拝殿(いずれも国宝)は、修復工事中のためすっきりした写真が撮りにくいのですが、透塀の外から拝殿を撮影してみました。透塀の屋根、拝殿正面の唐破風、唐破風の上の大破風、左右の切妻屋根の稜線等を縁取る金色がハーモニーを奏でるように美しく交わります。
拝殿と石の間には入ることができますが、撮影できないため、拝殿の入口までで申し訳ありませんが、こんな感じです。
「拝殿」は、「中央の間」と本殿に向かって右側の「将軍着座の間」、左側の「法親王着座の間」からなり、格天井には格子一つ一つに龍が描かれています。
「石の間」は、本殿と拝殿の間の空間で、神事を行う場として使われています。通常の神社の場合、屋根も壁もない屋外であったり、屋根があっても左右に壁がなかったり、屋根も壁もあるが単なる廊下であったりすることが多いのですが、このようにきちんとした部屋として造り込まれているのが権現造の特徴です。「石の間」と名付けられたのは、一般的な神社では、本殿と拝殿に挟まれた屋外青天井の石畳に相当する場所であるためと思われます。実際は畳敷きです。
「本殿」は、「外陣(幣殿)」「内陣」「内々陣」に分かれています(参拝者は入ることができません)。「内々陣」には「御空殿(ごくうでん)」という厨子があり、ご神体(家康公の衣冠束帯等身大像)が安置されています。また右殿には源頼朝卿、左殿には豊臣秀吉公がご祭神として祀られていますが、神仏分離令より前は、右殿には「摩多羅神」が、左殿には「山王神」が祀られていたそうです。何れも渡来系の神の為入れ替えたのではないかと推測されます。
坂下門
「坂下門」に入るすぐ手前を横切る回廊には、坂下門に続く通路用に「眠り門」が開けられています。
「眠り門」の欄間の表側にある透かし彫りが名工・左甚五郎の「眠り猫」です。そして裏側には、「雀」の彫刻があります。猫は雀を捕まえようとはせずただ眠りこけ、逆に雀は自由に羽ばたいている様を描くことで、天下泰平を象徴していると云われています。
「坂下門」は、奥宮への登り口にある門で、江戸時代には、将軍以外は、これより先に立ち入れず開かずの門だったそうです。デザインは「唐門」に準じた胡粉塗に金細工の様式です。
奥宮
これからが、徳川家康公の墓所となっている奥宮です。一般には、昭和49年(1965年)の「日光東照宮・三百五十年式年大祭」を機に、奥宮は公開されるようになりました。奥宮に続く通路は、玉垣が連なり、結構急で長い階段があります。
奥宮の手前から、境内を見下ろすと、御本殿の屋根の他、神楽殿、祈祷殿、ずっと向こうに鐘楼が見えます。
まず「銅鳥居」(重要文化財)です。創建当初は、木製だったものが、石造に変わり、さらに慶安三年(1650年)に五代将軍徳川綱吉公が奉納した現在のものから唐銅製となりました。「東照大権現」と書かれた後水尾天皇の勅額が掲げられています(この写真は裏側から撮ったため勅額の文字が見えません)。
狛犬も重要文化財に指定されています。「寛永の大造替」の造営奉行を務めた松平右衛門太夫正綱と秋元但馬守泰朝の奉納によるものです。
「阿形」
「吽形」
銅鳥居をくぐったすぐ前にあるのが、「銅神庫」(重要文化財)です。かつては「宝蔵」とも呼ばれ、徳川家康公愛用の兜や甲冑が収められていましたが、現在は宝物館に展示されています。
銅鳥居のすぐ脇が「拝殿」(重要文化財)になっております。「寛永の大造替」に際し建替えられたもので、黒漆で塗装されています。金の金具も控え目で、墓所らしく落ち着いたデザインです。
拝殿の裏手に回ると「鋳抜門」(重要文化財)があります。唐銅製の丈夫そうな門ですが、もともとは石造だったそうです。
「鋳抜門」(表)
「鋳抜門」(裏)
「鋳抜門」裏手の「前卓(まえじょく)」の上には、寛永二十年(1643年)に朝鮮国王から寄進された青銅製の「三具足(みつぐそく)」があります。燭台(鶴亀)・香炉(獅子つまみ)・花瓶の三点からなりますが、こうした仏具があるのも神仏習合の名残です。
こちらの唐銅製の宝塔が、徳川家康公の神柩が納められたお墓です。当初木造で後に石造に改められましたが、天和三年(1683年)の大地震で破損したため、綱吉公の代に現在の唐銅製となりました。高さ5mもある大きなもので、鋳物師・椎名伊予藤原良寛の作です。
こちらの木は、ご神木の「叶杉」です。その名の通り、お祈りすると願いが叶うそうです。
奥宮のご朱印は、書置のものをこちらのご朱印所で拝受できます。
大変珍しい自動販売機を見ました。なんと全部お茶です。墓所という場所柄に配慮したものと推察されます。
御旅所
「御旅所」(重要文化財)は「神橋」から「本宮神社」の参道を少し上ったところにあります。もともとこの地にあった山王社の社殿を利用したもので、江戸時代には「山王堂」とも呼ばれていました。社殿は、朱塗の本殿・拝殿と素木造りの神饌所からなり、何れも重要文化財に指定されています。
「御旅所」は、春と秋の「神輿渡御祭(百物揃千人武者行列)」の目的地となっており、日光二荒山神社を出た行列は、上新道、表参道、中山通を経由してここに到着すると「御旅所祭」が始まります。「御旅所祭」では「三品立(さんぼんだて)七十五膳」と呼ばれる豪華な神饌が供えられ、「東遊」「八乙女の舞」が、奉納されます。
日光東照宮宝物館
現在の「日光東照宮宝物館」は、徳川家康公没後400年式年大祭の記念事業として2014年に建てられたもので、旧建物は「下新道」に残っています。
二階が展示室になっており、窓の外から見えるのは、以前「神輿舎」に納められていた御神輿三基です。各々が何と1トンもあるそうで数十人がかりで担ぎ上げていました。現在、春と秋の例大祭で使用されている現役の御神輿は800kgに減量されたそうです。
徳川家康公愛用の「南蛮胴具足」(重要文化財)などが展示されている他、シアターにてオリジナルの映像作品が放映されています。
「南蛮胴具足」(日光東照宮サイトより)
この日、宝物館前の広場では、菊花展が開催されておりました。
最高の評価を得たのがこの菊です。
ギャラリーにまとめてみました。
(※サムネイル画像をクリックすると拡大します。)
武徳殿
「武徳殿」(登録有形文化財)は、大正4年に東照宮300年祭を記念して建てられた「参拝人休憩所」が始まりです。後にこれを改装し昭和4年からは「日光東照宮奉納武道大会」の会場として使用されていました。戦後は、GHQの占領政策により禁止されていた剣道が復活するきっかけとなった「日光剣道大会」が開催された場所でもあります。
日光東照宮美術館・社務所
日光東照宮の旧社務所は、現在、近代日本画を中心とした美術館となっており、前庭も綺麗に整備されています。
新しい社務所は、とても近代的な建物です。
日光東照宮美術館の様子をギャラリーにまとめてみました。
(※サムネイル画像をクリックすると拡大します。)
最後までご覧いただきありがとうございました。この回を以て「紅葉の日光遠征記」を終わらせていただきます。お付き合いいただきありがとうございました。湘南鎌倉から外れた番外編ですので、五回くらいにまとめるつもりだったのですが、思ったよりボリュームが膨らんでしまい恐縮です。しかし、この一連の投稿をまとめる過程で私自身いろいろと勉強になったことも多く、とても満足しております。
ギャラリー
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