鎌倉・東慶寺◆境内散歩◆

鎌倉・東慶寺◆境内散歩◆

「縁切寺」「駈込寺」の別称で知られる東慶寺は、夫婦間・家庭内の様々な事情を抱えた女性を庇護・救済する尼寺として、江戸時代には「縁切寺法」に則り幕府公認の特別な地位を与えられていました。廃仏毀釈の影響もあり、明治時代に一旦尼寺としての歴史は閉じましたが、20世紀になって釈宗演ら円覚寺の禅匠を核とした男僧の寺として中興開山され現在に至ります。一年を通して参拝客が多く訪れる境内は、堂塔も整備され、樹木・花卉の手入れも行き届いています。文化人の御墓が多く集まっていることでも有名で、釈宗演・鈴木大拙・西田幾多郎・和辻哲郎といった日本を代表する宗教・哲学の巨魁もこの地に眠っておられます。

なお東慶寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒東慶寺へ

※写真をクリックすると拡大します。

東慶寺の魅力

ミシュラングリーンガイド三ツ星評価の手入れの行き届いた境内を彩る四季折々の花々

◎千姫、春日局、天秀尼など歴史上の女性達を巡る戦国の世の後始末の様相

◎公的文書を含む生の史料に裏付けられた「縁切寺」の実情

◎鈴木大拙・西田幾多郎を始めとする日本の近代文化史に残る巨魁たちの墓所

境内図

山門まで

北鎌倉駅西口を出て、横須賀線沿いに鎌倉方面に4分程歩くと、右手に東慶寺の門柱が現れます。昔は、ここに総門があったそうですが、今は左に「東慶寺」右に「松ケ岡」と掘られた門柱があるだけです。

山門に続く石段までの石畳を進むと、右手に「夏目漱石参禅百年記念碑」があります。小説「門」に描かれている円覚寺の塔頭「帰源院」への参禅を記念してのものと思われますので、直接東慶寺とは関係ないはずですが、釈宗演が円覚寺管長を辞し東慶寺の住職に就いた後の漱石来訪と結びつけてのことでしょうか?

石畳の左側には喫茶「吉野」があります。今度入ってみようと思います。

山門に向かう石段の夏の風景です。中国画の枯淡とした禅刹と異なり、日本の禅寺は、青々とした生命の躍動に彩られています。

山門

茅葺の山門です。特に山号額はありません。

山門をくぐった右手が受付となっており、拝観料を納めます。ご朱印もこちらで拝受します。

ここから最奥の墓苑まで続く石畳が、伸びています。

山門を入った左手に、田村俊子の記念碑があります。現代ではあまり知られておりませんが、明治末期から大正に掛けての女流流行作家です。老舗のお嬢様&高学歴&海外居住歴有と超元祖女性高等遊民で、当時のデカダン系アイコンの一人(高学歴系「椎名林檎」??)。

鐘楼

天井に龍が描かれた鐘楼は、境内唯一の関東大震災生き残りです。梅の古木にオーバラップすると、禅寺らしい味のある風合いです。今の梵鐘は、元々補陀落寺にあったもので、戦国期のどさくさにこちらに引き取られました。逆に開山当初の東慶寺の梵鐘は、鎌倉幕府滅亡の折に伊豆韮山に移され、現在は本立寺にあります。

本堂(泰平殿)

本堂入り口脇には、四賀光子の歌碑「東慶寺開山覚山尼賛歌」があります。
「流らふる 大悲の海に よばふこゑ 時をへだてて なほたしかなり」
時空を超え遍く広がる慈悲の海をわたり、悩める女性にやさしく語り掛ける覚山尼の声が聞えたのでしょうか。

中門から、本堂(泰平殿)が見えます。現在の建物は、昭和に入ってからのもので、室町時代に建てられた元の仏殿は、原コンツエルンに引き取られ、横浜の「三溪園」に移築されています。

中門を入った右手の立派な石塔は「宗光塔」です。最も期待していた愛弟子の植村宗光を日露戦争で失った際に、釈宗演が建立したものです。「殺しに行ったら殺された」因果応報の解りやすい構図がそこにあります。悟りに達しても、肉体を伴いこの世に身を置く限り業は生じ、世の無常から逃れることはできません。

本堂前に、母娘と思われるご婦人二人がいらっしゃいました。何を想い仏と向き合っていらっしゃるのでしょうか。

本堂の内部です。日曜座禅会に参加すると上がることができます。

扁額には、蘭渓道隆の名で「波羅蜜」とあります。三溪園に移築された仏殿でも掲げられたものなのでしょうか。

正面には、ご本尊の釈迦さまがお坐りです。

向かって左側の檀には、二十世住持の天秀尼像が安置されています。天秀尼の残された事蹟からは、豊臣家直系最後の生き残りとして、誇りを持って勤められた様子が伺えます。

書院

本堂に向かって右手には、禅寺らしい落ち着いた佇まいの書院があります。かなり広い建物です。関東大震災で倒壊後、建て直したものが現存していますが、それ以前の建物は、改易された徳川忠長屋敷から、移築されたものだそうです。

水月堂

本堂に向かって左手、枝垂れ桜の裏に見えるのが、水月堂となっています。

ここには、神奈川県指定重要文化財の「木造彩色水月観音坐像」が安置されています。
まるで老荘の仙人のようなくつろいだ柔らかな姿勢が特徴的です。

「水月観音坐像」(「神奈川縣文化財圖鑑」より)

本堂中門を出てすぐ右側には「金仏(釈迦如来の銅像)」があります。「かねぼとけ」と読めばよいのでしょうか。

寒雲亭(茶室)

本堂中門の迎え側の建物が茶室の「寒雲亭」です。もともと京都の裏千家にあった茶室を、複数の持ち主を経て移築したものです。屋根は銅葺で外壁や雨樋もきちんと整備されており、内部もリニューアルされています。もともとお弟子さんを指導できるよう茶室としてはかなり広い造りになっており、毎月、一般の方も参加できる茶道や香道の講座が開かれています。
梅の頃の全景は、柴垣越しですが、こんな感じです。

茅葺の門は、苔生して昔の風情を残しています。桜の頃はこんな感じ。

松岡宝蔵

松岡宝蔵です。重要な寺宝を安全に保管できるよう堅牢な造りになっております。

内部には重要文化財の聖観音菩薩立像が安置されています。以前は鎌倉国宝館に預託されておりましたが、堅牢な松岡宝蔵ができ、あるべき場所にお戻りになりました。おかげで一般拝観もできます。

「聖観音菩薩立像」(「重要文化財」より)

松岡宝蔵前の「さざれ石」です。

白蓮舎

立礼式の茶室です。定期的に挿し花や写経の講座が開かれています。また2・3月の梅の頃、5・6月の花菖蒲の頃限定で茶店が開かれ抹茶をいただけます。

白蓮舎の前は、菖蒲畑になっています。季節の頃の写真がなく恐縮ですが、2月にはこんな感じです。

墓地

墓苑の入り際にあるのが、 松ヶ岡文庫の入口です。現在は扉が閉まっていますので、松ヶ岡文庫には、北鎌倉駅西口の方から向かいます。 松ヶ岡文庫は、鈴木大拙が設立した文庫で、コロンビア大学を辞し米国から帰国した後、最晩年の研究生活を送った場所です。

鈴木大拙のパトロンで安宅産業創設者の安宅弥吉の頌徳碑です。このあたり書き始めると切りがありませんので、別の期会に譲ります。

釈宗演師の御墓

東慶寺中興開山・釈宗演師の御墓です。

釈宗演師の号「楞迦窟」と刻まれた無縫塔「楞迦塔」

「楞迦塔」の顕彰盤

桜塚(永代供養塔)

女性専用の永代供養塔です。男性もいたほうが賑やかでよいのでは??(笑)

西田家の御墓

鈴木大拙の同志、西田幾多郎が眠っています。西田が戦後も生きていれば、鈴木はコロンビア大学で教鞭を取ることはなかったかも知れません。

鈴木大拙夫妻の御墓

鈴木大拙とその妻ベアトリスの御墓です。世界史レベルで評価される業績を残した禅の巨魁は、同時に一つの禅居士として世にあった証をこの小空間に残しました。その名はホモサピエンスのバイタルメモリからは消えつつありますが、仏教カテゴリ上のキーワードの一つとしてネット空間に永遠の足跡を留めることになります。

出光佐三夫妻の御墓

このありふれた五輪塔が、出光興産の創業者、海賊とよばれた男、真の愛国者の御墓です。「人間たるものこうあるべきだと示す」ことこそが事業の真の目的であると主張して止まなかった出光佐三は、死して後の「俗名」の扱い方までをも、ここに示しているのかも知れません。

小林秀雄の御墓

ブログを書きながら、高校生の頃に読んだ「無常という事」のことを思い出しました。当時は、試験問題の題材としか捉えていなかった小林秀雄ですが、今の私なら、どんな風に解釈するのか・・・近々にリアル書店の文庫本棚で探してみようと思いました。

最後までご覧いただきありがとうございました。
老若男女、国内外を問わず何れにも人気のあるお寺ですが、確かにその人気に相応しい魅力を備えたお寺です。北鎌倉駅を下車後、とてもアクセスのよいところにありますので、ぜひお立ち寄りください。

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