高徳院(鎌倉大仏)◆境内散歩◆

高徳院(鎌倉大仏)◆境内散歩◆

歴史の町・鎌倉の象徴として国内外を問わず広く知られる鎌倉大仏(造立:寛元元年(1243年)、像高:11.3m) は、江ノ電・長谷駅より大仏通りを北に数分歩いた突当りにあります。大仏様が鎮座するお寺は大異山・高徳院といい、鎌倉材木座の光明寺の末寺で「奥ノ院」というポジションになりますこめ。大仏様と云えば奈良・東大寺の盧遮那仏が有名で、造立が天平勝宝四年(752年)とかなり古く、像高 も14.7mと大きいのですが、仏像のパーツのうち造立当初から残っているのは、台座や大腿部など一部に過ぎません。しかし鎌倉大仏は、数百年ものあいだ屋外にありながら、若干の補修を除けば造立当初の状態がそのまま維持されている点で、歴史的・学術的に貴重な存在と云えます。

なお高徳院・鎌倉大仏のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒高徳院・鎌倉大仏へ

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高徳院・鎌倉大仏の魅力

◎鎌倉市内の仏像で唯一指定されている国宝・鎌倉大仏(銅造阿弥陀如来坐像)

◎少ない史料を吟味しながら膨らむ想像が楽しい謎に包まれたミステリアスな寺史

◎大修理や学術調査のたびに明らかになって来た鎌倉大仏の構造や技法から垣間見る造仏師たちの創意工夫

境内図

高徳院サイトにリンク

仁王門から境内へ

大仏通りの突当りが高徳院の入口になり「聖武帝草創東三十三箇国総国分寺 大佛」と銘のある江戸時代(享保元年)の石柱が立っています。時代の全く異なる聖武天皇が鎌倉大仏開創に関係しているとは思えませんし、「東三十三箇国総国分寺」というポジションは存じ上げませんが、信仰している方々にはそれほどまでに思い入れの深い仏様であることが窺い知れます。

直ぐ先に仁王門があります。阿形・吽形の仁王様もこちらをご覧になっておられます。

鎌倉大仏・阿形仁王像
鎌倉大仏・吽形仁王像

仁王門をくぐると、正面に棟門があり、その向こう側正面に鎌倉大仏が鎮座します。

棟門に向かって右手奥に、境内にある歌碑・句碑に関する案内板があります。場所は記載されていないのですが、次のような五柱の歌碑・句碑があります。

与謝野晶子・歌碑 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな
星野立子・句碑 大佛の 冬日は山に 移りけり
金子薫園・歌碑 寺々の 鐘のさやけく 鳴りひびき かまくら山に 秋風のみつ
飯室謙斉・句碑 春の雨 かまくらの名も 和らぎて
吉屋信子・句碑 秋燈火 机の上の 幾山河

棟門に向かって左手に券売所がありますので、拝観料を納めて中に入ります。

入口を潜ると、手水舎があります。なかなかにどっしりと風格のある水盤です。

鎌倉大仏・手水舎


国宝・鎌倉大仏(阿弥陀如来)

鎌倉大仏の由来

これほどの大きな仏様ですので、常識的には、時代毎に多くの記録が残っていてしかるべきなのですが、何故か創建当初から鎌倉大仏に関する記録はほとんどなく、創建の目的、造立の経緯はもとより、創建時の山号・寺名、開山・開基の名前すら残されておりません。「吾妻鏡」等に記された僅かな断片記録を頼りに、江戸中期(正徳年間)に現在の高徳院が成立する以前の鎌倉大仏を巡る由来をまとめてみました。

  • 源頼朝の侍女稲多野局(いなたのつぼね)が大仏造立を発願。「鎌倉大仏縁起」
  • 僧浄光により歴仁元年(1238年)より勧進が始まった。「吾妻鏡」
  • 寛元元年(1243年)大仏殿を含む堂宇が完成し、創建供養が執り行われた。「吾妻鏡」
  • 創建当初の鎌倉大仏は、木造であった。「東関紀行」
  • 建長四年(1252年)深沢の里で金銅八尺の釈迦如来像の鋳造を始める。「吾妻鏡」
  • 建武元年(1334年)大風により大仏殿が倒壊し、中にいた北条時行方の軍兵500人が下敷きになり死亡 。「太平記」
  • 応安二年(1369年)再び大風により大仏殿が倒壊する。「鎌倉大日記」⇒ 平成十二・十三年の境内発掘調査の結果、これ以降に大仏殿が再建された形跡は見出されていない。
  • 明応四年(1495年)地震・洪水(津波)により仏閣僧坊が全て流失する。「鎌倉大日記」「鎌倉大仏縁起」⇒ この時点で大仏殿が既に失われていたことは「梅花無尽蔵」の文明十八年(1486年)の記録に「無堂宇而露坐」とあることから確実視されており、この津波で流されたのは、当時まだ残存していた他の寺院施設である可能性が高い。

鎌倉大仏の 外観

手水舎の右前方には、大仏様が鎮座します。鎌倉大仏は、浄土宗のお寺らしく阿弥陀如来ですが、「上品上生」の定印を結んでいらっしゃいますので、釈迦如来と間違えられる場合があります。例えば、境内の歌碑にある与謝野晶子の短歌には「・・・美男におはす釈迦牟尼は・・・」と詠み込まれています。


「上品上生」の定印

背面には、窓が二つ開いています。姿勢は、頭が前に傾き少し猫背に見えますが、こうみると仏像というより建造物ですね。

階層的に鋳込んでいったため、接続面毎に横縞が入っています。

大仏の右頬には、金箔の跡がわずかながら残されています。保存の工夫が何もされていなように見えるのが心配です。

大仏の左肩には、大仏殿が崩落した際に付いたとおもわれる窪みの補修跡があります。

鎌倉大仏背後の地面には、蓮の花弁を模した青銅製の部材が並んでいます。これらは、元文二年(1737年) の修復に続き大仏を蓮華座に載せた形に仕上げようとして準備していたもので、残念ながら 全ての蓮弁を鋳造することができず現在に至っています。

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次の諸元表をもとに奈良大仏と比べると、鎌倉大仏の方が小柄ではありますが、体重が軽く、頭が小さいバランスの取れた体型であることが分ります(髪の毛も多いです)。

◆鎌倉大仏・奈良大仏・諸元比較表

諸元 鎌倉大仏 奈良大仏
台座を含む総高 13.35m 18.03m
仏身高 11.312m 14.98m
面長 2.35m 5.33m
重量 121t 250t
螺髪数 656個 492個

鎌倉大仏鋳造工程

鎌倉大仏は、このように下から順繰りに、複数の層に分けて鋳造していき、最後は小山に埋まったような状態になります。足・胴部が7層、頭部前面が5層、頭部後面が6層になっています。なお、大仏で用いらている青銅は、成分分析の結果、主に中国から輸入した宋銭を鋳つぶしたものであることが判明しています。でも121t・・・ものすごい量ですね。

「鎌倉大仏と研究の”曼荼羅”」レジュメ抜粋
「鎌倉大仏と研究の”曼荼羅”」レジュメ抜粋

鋳あがったら山を崩し、大仏の内側の土も背面の窓を利用するなどして掻き出します。

「鎌倉大仏と研究の”曼荼羅”」レジュメ抜粋

各層の接合面は、このようになっています。接続には「鋳繰り(いからくり)」という技法が三種類ほど使用され、シッカリと噛み合わされています。

鎌倉大仏の内部

鎌倉大仏の内部「胎内」には、胎内拝観料20円で入ることができます。

鎌倉大仏の内部を見ると、外見以上に接続部がはっきりと見えます。

関東大震災後の修理について記した銘板がありました。戸田組(現在の戸田建設)が工事を担当なさったようです。

上を見上げると、首の接続部分が見えます。樹脂系の茶色い帯は、昭和三十四年~三十六年(1959年~61年)にかけての耐震補強工事に際して用いられた繊維強化プラスチックです。この時、地震の揺れを吸収するため大仏をステンレス板の上に乗せる耐震構造としました。

大仏の胴体下部は、このように大きな鉄のアーチで補強されています。

仏像背面の二つの窓からは、光が差し込んでいます。

鎌倉大仏前の仏具

鎌倉大仏の前には、いろいろな青銅製・銅製の仏具が並んでいます。燈籠、蓮華飾りは何れも江戸時代中期のものですが、賽銭箱、大香炉は明治以降のものです。

青銅燈籠(左右一対有)
青銅蓮華飾(左右一対有)
大香炉
賽銭箱

高徳院の成立

鎌倉大仏は、南北朝期から江戸前期にかけて建長寺が管理しておりましたが荒廃は進み、元禄16年(1703年)の元禄地震でさらに被害を受けてしまいました。このことを知った増上寺三十六世法主・祐天上人は、正徳2年(1712年)に浅草の豪商・野島新左衛門から寄進を受けて、材木座の浄土宗大本山・光明寺の奥之院「獅子吼山清浄泉寺高徳院」を念仏専修の寺院として開創し、鎌倉大仏の別当寺としました(いつから「大異山高徳院清浄泉寺」となったのかは存じ上げません)。なお、祐天上人が高徳院を光明寺・末寺として興したのは小石川伝通院(でんづういん)の住職であった時代であるとも云われていますが、堂宇整備が完成したのが正徳年間であることは間違いありません。
普通の寺院と異なり高徳院には歴代住職の関係者からなる檀家が二十数軒しかありませんが、このように専ら鎌倉大仏の護持を目的とした念仏専修の寺院として開創されたことに理由があるようです。なお、初代住職には養国上人が就き、元文2年(1737年)には大仏修理が行われました。

◆祐天上人について
徳川将軍家菩提寺である芝・増上寺の住持までお務めになった江戸時代前中期の高僧ですが、江戸時代ナンバーワンとも云える大変な法力の持ち主でした。ちなみに現在の東京の地名「祐天寺」は、祐天が隠居した目黒の寺院「祐天寺」に由来します。
【逸話1】若くして死んだ娘の幽霊が出るようになった家の天井裏を調べたところ膨大な数の恋文が発見されたが、これらの恋文を焼却処分したことで幽霊は現れることがなくなった。
【逸話2】有名な怪談「累ヶ淵(かさねがふち)」は、実際に茨城県の水海道で起こった実話に基く物語ですが、怨霊となった「累(るい)」を念仏にて成仏させたのは、当時、下総国飯沼の弘経寺に住していた祐天上人です。
【逸話3】子宝に恵まれなかった祐天上人のご母堂は、祐天が生まれる時に、月輪が庭の木の枝に降臨し、光る珠を授けられるという夢を見たとのことです。

境内の様子

大仏殿礎石

鎌倉大仏は、もともと大仏殿内に安置されていました。大仏殿には60個の礎石が使用されていましたが、現在も境内のあちらこちらには53個の礎石が残されています。

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観月堂

観月堂は高徳院の回廊の北庭にあるお堂で、鎌倉三十三観音霊場二十三番札所本尊の聖観音像(伝・江戸幕府二代将軍・徳川秀忠公持仏)が安置されています。なお観月堂の建物は、韓国ソウルの朝鮮王宮にあったものを大正時代に移築したものです。

与謝晶子の歌碑

この歌碑に刻まれた「かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな」の歌は、晶子が明治三十八年に詠んだもので、この歌碑自体は「鎌倉大仏造立七〇〇年を記念して、昭和二十七年に奉納されたものです。

稲多野局(いなだのつぼね)の塔婆

鎌倉大仏の造立を発願した稲多野局(いなだのつぼね)の名を刻んだ塔婆で、大仏様の背中側にあります。
【表面】 「南無阿弥陀仏」と、左下に小さく「増上寺大僧正祐天」の文字と祐天上人の花押
【右面】「稲多野殿」の文字と、その御命日「建長五癸丑年五月二十三日 」
【裏面】 稲多野局の戒名「松誉誓心信女」他

境内の石碑

「与謝野晶子歌碑」「稲多野局卒塔婆」の他にも高徳院の境内には、沢山の石碑がありますが、目についたものをいくつかご紹介します。

まず、てっぺんに大国天がいらしゃる珍しい塔です。おそらく甲子信仰に基くものと思われ、庚申信仰と習合していたのかもしれません。観月堂に向かって左側に庚申塔が集められいる一角がありますが、これが一番目立ちました。

こちらは、仏教国スリランカの元大統領ジャヤワルダナ氏の碑です。「法句経(ダンマパタ)」からの引用で「人はただ愛によってのみ憎しみを越えられる。人は憎しみによっては憎しみを越えられない」と刻まれています。大乗仏教中心の日本とは異なり、スリランカでは、お釈迦様の説いた本来の教えをベースに仏教が成り立っています。シンプルな「法句経」の教えは、構えて仏教を勉強していなくても、皆の心にスッと入っていきます。

高徳院を開いた祐天上人の200年忌を記念 した石碑で、「當山中興祐天大僧正二百年御遠忌報恩記念」と刻まれています。

こちらは、明治医学会の重鎮・長与専斎の顕彰碑「松香長與先生紀功之碑 」です。

梅かまくら寺社特別参拝

2019年の「梅かまくら寺社特別参拝」に参加した際の様子です。棟門に向かって右端に書院に通じる通用門があり、この日は特別に入ることが許されました。高徳院境内の東側の壁の裏側に沿って進んで行きます。

塀越しに、大仏様のお顔が見えます。梅の花もとてもきれいです。

少し進むと書院裏の日本庭園に入る棟門が見えます。扁額には「観月」と書かれています。となりに茶室があります。

こちらが書院の入口です。

書院では、高徳院ご住職で慶応大学文学部教授でもいらっしゃる佐藤孝雄先生より、考古学的視点から見た鎌倉大仏について講演をいただきました。会場はこんな感じです。丁度桃の節句の頃でしたので赤い打掛や、平飾りのお雛様が華やかでした。

書院の広い縁側からは、見事な日本庭園を眺めることができます。この日本庭園は「孤高の庭匠」と称された名人・ 田中泰阿弥(たなかたいあみ)の手によるものです。

長谷の灯かり

毎年8月に開催される長谷地区の夏のイベント「長谷の灯かり」では、夜間に境内を解放してくれます。いつもと違うライトアップされた大仏様のお姿が印象的です。

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最後までご覧いただきありがとうございました。鎌倉のアイコンとして親しまれてきた鎌倉大仏ですが、その物理構造や縁起を調べてみると、未だ謎多き箇所が随所にあります。