切目神社(きりめじんじゃ)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第十三回)五体王子巡礼~熊野懐紙・平清盛・大塔宮~

切目神社(きりめじんじゃ)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第十三回)五体王子巡礼~熊野懐紙・平清盛・大塔宮~

和歌山県印南町の切目神社(きりめじんじゃ)は、熊野十二所権現のうちの若宮・禅師宮・ 聖宮・児宮・子守宮をお祀りすることから九十九王子社の中でも格式の高い五体王子社の一つ、切目王子社の流れを汲む神社で、かつては切部王子とも呼ばれていました。開創は崇神天皇の御世に遡り、切目神社東隣の「太鼓屋敷」と呼ばれる地に建てられた「五体王子宮」が始まりとされています。天正十三年(1585年)年の豊臣秀吉による紀州攻めによって焼亡した後、文禄元年(1592年)現在の場所に再建されました。
11世紀から13世紀にかけて数多の熊野御幸をお迎えする中で、鳥羽上皇のご一行は国宝「切目懐紙」に二十二首の和歌を残されました。また平治の乱では源義朝の挙兵を知った平清盛が切目より都に取って返し、さらに建武中興の折には幕府打倒を目指し熊野に雌伏していた大塔宮・護良親王が木津を目指す決断をするなど、切目王子はこの国の歴史に度々その名を留めています。江戸期には紀州徳川家に保護を受け、明治六年(1873年)に村社の社格を受けた後、明治末期の神社合祀令により、地域の中核神社として周辺の多くの神社が合祀されました。

境内図

切目王子・境内図

紀伊国日高郡名所図会・切目王子

19世紀初めに描かれた紀伊国日高郡名所図会の切目王子の図です。神輿蔵と社殿の位置は変わりませんが、現在と異なり長床の外側に鳥居があります。おそらく現在の長床に建て替える際に、鳥居の外側の敷地を利用したものと思われます。また現在と異なり、社殿に向かって左に末社はなく、その代わりに右手には中山王子他、境内末社が三社並んでいます。

紀伊国日高郡名所図会・切目王子

下の写真は、明治末期のものですが、上記の絵図と同様に、鳥居の内側に長床があります。末社の配置は現在と変わりありません。なお同じ印南町内にある王子神社(旧中山王子社)の鳥居と長床の配置もこの写真と同じです。再建を終えて間もない拝殿は現在と同じく瓦葺きで、背後のご本殿も今と同じ檜皮葺のようです。

長床

道路に面したこの建物は、「長床」で、建物の中央を通路が突き抜け、それを挟んだ両脇に部屋を配置する構造になっています。熊野地方の他の神社でも、同様の建物が古くから多く見られ、「割拝殿」とも呼ばれています。

長床に向かってすぐ右には、切目神社の社号標が建っています。

こちらは切目王子跡の説明板です。

昔は、鳥居又は長床の正面に掲げられていたと思われる「切目坐王子」の社号額で、現在は長床の通路内に掲げられています。

長床の奥には、すぐ前に鳥居が建っています。

由緒書

龍王神社・稲荷神社

道路を挟んだ向かい側は駐車場になっており、明治40年(1907年)に東浜より遷座・合祀された末社が祀られています。左手は龍王神社(主祭神・豊玉姫命)、右手は稲荷神社(主祭神・倉稲魂命)です。

鳥居

こちらは「長床」の内側に接するように立っている白木の神明鳥居です。向かって右柱の根元には百度石が据えられています。

手水舎

こちらは参道左手にある手水舎で、水盤は元禄六年(1693年)に奉納されたものです。手水舎の背後の小橋がかかっている流れは「梅の水」と呼ばれ、王子神の使い「姫蟹」が生息しています。

社殿

見事な熊野造のご本殿と拝殿です。本殿は江戸期に貞享三年(1686年)、明和四年(1767年)、文政十一年(1828年)と三回再建された記録があり、元治元年(1864年)にも修理されています。最近では昭和54年(1979年)と平成29年(2017年)に檜皮葺の屋根の葺き替えが行われています。拝殿の方は、さらに時代が下り明治41年(1908年)に再建されました。写真には写っておりませんが社殿に向かって右側に徳川頼宜公お手植えのナギの木があります。
境内の説明板を拝見しますと、現在の本殿の御祭神は、かつての国家神道の影響を受けて、「五体王子宮」の頃とはいつの間にか入れ替わり、天照大神、天忍穂耳尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊、鵜萱葺不合尊の五柱となっています。ちなみに和歌山県神社庁のサイトでは主祭神は誉田別命となっておりますが、一体何れが正しいのでしょうか?

大塔神社・地宗神社

向かって左手の大塔神社は、御祭神を護良親王とし、もともと切目王子があったとされる太鼓屋敷跡より明治40年(1907年)に合祀されました。
向かって右手の地宗神社の御祭神は、猿田彦神・市杵島姫命・保食命の三柱で、大塔神社と同じく明治40年(1907年)に、印南町内の字丸山より合祀されました。

浦安神社

浦安神社の御祭神は事代主命で、大塔神社と同じタイミングに本村東浜よりこの地に遷座・合祀されました。

ホルトの木

こちらは、県の天然記念物のホルトの木です。樹齢は約三百年で、周囲4 m高さ16 mと、県内のホルトの木としては湯浅町深専寺のものに次ぐ大木です。右端に写る建物は、社務所となります。

切目懐紙・歌碑

正治二年(1200年)12月の後鳥羽上皇・熊野御幸の折に催された「切目王子和歌会」にて11名のご一同が2種づつ詠んだ計22首の和歌は11枚の熊野懐紙にしたためられ、国宝「切目懐紙」として西本願寺に残されています(切目神社にもこの写が残っています)。平成10年(1998年)に建てられたこちらの歌碑に刻まれた歌は、そのうち後鳥羽上皇の御製二首です。
御題「遠山落葉」
 あきのいろ はたにのこほりに とどめをきて こずゑむなしき をちのやまもと
御題「海邊晩望」
  うら風に なみのをくまて 雲きえて けふみか月の かげぞさびしき
なお歴代の天皇・上皇が逗留された場所は、太鼓屋敷跡のさらに東側の御所屋敷跡と伝わっています。

切目懐紙・後鳥羽上皇御製二首

福本鯨洋句碑

高浜虚子に学んだ俳人・福本鯨洋の句碑で「したひ来しくまの懐紙の鵯の宮」とあります。 鯨洋は、歯科医を開業する傍ら、熊野古道に残る王子跡を吟行し、昭和44年(1969年)「句集くまの九十九王子」にまとめました。

切目王子を巡る伝説

清姫の松

安珍を追う清姫が、よじ登って安珍を探したという松が、昔、境内にあったそうです。

平治の乱の平清盛評定の地

平治元年12月熊野詣途上の平清盛は、切目にて藤原信頼と源義朝が兵を挙げたとの知らせを受けました。切目王子に戦勝を祈願した清盛は、熊野別当及び湯浅党の加勢を得てただちに都に取って返し、義朝らを討って平家の最盛期を招来しました(平治の乱)。

大塔宮御旅寝の社

鎌倉末期、元弘の乱に敗れ、奈良から逃れて切目に至った大塔宮護良親王は、「南に行くと賊軍に遭遇する」旨の夢に出た童子からのお告げにより、急遽行き先を十津川に変更しました。 大塔宮が、お泊りになったのは、切目神社のすぐ近く上道(うえど)の太鼓屋敷跡と呼ばれる地で、天正十三年(1585年)の豊臣秀吉の紀州攻めで焼け落ちた旧・切目王子社があった場所です。現在の場所に切目王子社が遷座した後も太鼓屋敷跡には大塔神社があり長く大塔宮をお祀りしておりましたが、明治40年(1907年)に切目神社の境内に遷座なさいました。現在は「大塔宮御旧跡地」の石塔が建っております。

秀吉紀州攻め

天正十三年(1585年)年の豊臣秀吉による紀州攻めによって、現在の太鼓屋敷にあった旧・切目王子社は焼亡しましたが、何処から現れた比丘尼により七か月の間に現在の場所に再建されたと云います。 その後、この比丘尼は、切目神社の海寄りにあった妙心寺に住したそうですが、かつての熊野比丘尼・神倉本願で知られる新宮市神倉の妙心寺と関係があると思われますので、再建の資金も、そちらからもたらされたのかも知れません。なお江戸期の切目神社の別当は西蓮寺で、今は切目神社の南東に150m程度離れたところにありますが、文化年間までは、すぐ北側にあったそうです。

御朱印

こちらが、切目王子社の御朱印です。書置きのストックがなく、残念ながら頂戴して帰ることはできませんでしたが、サンプルがありましたので写真だけ撮らせて頂きました。

祭礼と行事

1月1日 歳旦祭
1月2日 祈祷祭
2月1日 厄除け祈祷祭
3月18日 祈年祭(春祭)
7月18日 夏祭
10月18日(第3週の日曜日) 例祭
12月18日 お戻り祭(冬祭)

アクセス

住所 〒645-0013 和歌山県日高郡印南町西ノ地328
電話 Tel:0738-44-0239
URL

最後までご覧いただきありがとうございました。切目王子で五体王子社の二つ目のお社となりますが、熊野三山遠征記は、まだまだ続きます。