佐白山・正福寺(佐白観音)◆坂東三十三観音霊場(第23番)参拝◆

佐白山・正福寺(佐白観音)◆坂東三十三観音霊場(第23番)参拝◆

佐白山(さしろさん)・正福寺(しょうふくじ)は、茨城県笠間市にあるお寺で、坂東三十三観音霊場第23番札所・佐白観音として知られています。
 白雉二年(651年)に、三白山三白院三白寺として、現在の境内とは道路を挟んだ向かい側にある佐白山の山頂に創建されたと伝えられています。この年はすぐ近くにある笠間稲荷神社の創建と同じで、どうやらその発祥を一つのようです。
 その後、鎌倉時代の初期には百を超える堂宇と千名以上の寺僧を擁する巨刹となったものの、13世紀には近隣の徳蔵寺との間の争いに介入した笠間時朝との確執から、全山が破却され多くの僧侶が虐殺されるという悲劇に見舞われました。しかし時を置かず、時朝により佐白山頂に建てられた笠間城の城地の中に観音堂が再建され、その後笠間氏の祈願寺として長く保護されました。天正年間(1573~1592年)に笠間氏が滅亡した際に堂宇は灰燼に帰したものの、 江戸期には、徳川家光より七石の朱印を下されるなど徳川家の保護を受け繁栄を続けました。
 明治の廃仏棄釈の中で二度も焼き討ちに遭いましたが、ご本尊と仁王像だけが、かつてのライバル徳蔵寺や近隣の玄勝院に預けられ難を逃れました。
 その後、檀家総代・石井家を中心とした勧進により昭和5年(1930年)に現在の場所に本堂が再建され、昭和58年(1983年)には寺号を観世音寺に改め単立寺院として独立しました。さらに平成24年(2012年)からは正福寺を名乗っていらっしゃいます。

なお正福寺(佐白観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒正福寺(佐白観音))へ

正福寺(佐白観音)の魅力

境内図

佐白山正福寺境内図

◆山号・寺号の由来
孝徳天皇の御世に粒浦(つうら)氏という狩人がおり、ある日、白馬・白鹿・白雉の三頭の霊獣が倒れた霊木を守るように囲んでいるのを目にし宿善の感ずるところあって、庵を結び日夜名号を唱えていました。やがて七年が過ぎた時、帝釈天の使臣で吠室羅麼那(べいしらなま)城主の毘首羯磨(びしゅかつま)が現れの、その霊木より千手千眼の像(ご本尊の千手観音像)を彫り上げたことから、粒浦氏は剃髪し、大悲閣(観音堂)を建ててこの像を安置し、三白(さじろ)山・松吟堂と号しました。

山門

こちらが、参道入口に立つ山門です。

納経所

山門をくぐると、すぐ前に納経所があります。以前はご本堂にて御朱印をいただいておりましたが、階段を上がれない参拝者に配慮して、こちらに納経所を移されたそうです。

参道

納経所が移転する前は、こんな感じで、まっすぐ参道が伸びていました。

屠畜供養塔

笠間市には、かつて茨城県の畜産試験場が置かれ、いまでもJA全農笠間乳肉牛研究所があるなど畜産の盛んな地域です。そうしたご縁からこうした家畜の供養塔が建てられたようです。

母のさくら

ご本堂付近にある「父のさくら」と対になるこちらの桜は、「母のさくら」と呼ばれ、現住職の祖母・曾祖母の、明治の廃仏毀釈以降の正福寺復興への貢献を讃え名付けられたそうです。

包丁刀塚

包丁、日本刀、ナイフ等の刃物を供養する塚です。

手水舎

こちらの水は、山手から引かれた「霊水」です。

龍頭観音

手水舎の霊水を護るかのように、背後の石組みの中に「龍頭観音」が祀られています。

御詠歌発祥一千年記念碑

昭和61年(1986年)に御詠歌の発祥千年を記念して建てられた石碑です。

馬頭尊碑

こちらは、馬車組合が寄進した「馬頭尊碑」です。笠間近辺では、明治22年の水戸鉄道開通以降も馬車が使われていたようです。

地蔵尊(お迎え地蔵)

東日本大震災に際して、左に45度回転し、参拝者を迎えるかのようにお顔を参道入口方向にお向けになったことから「お迎え地蔵」 と呼ばれるようになりました。

ご本堂

こちらがご本堂で、黄檗山万福寺七代山主・悦山禅師の筆による「佐白山」の山号額が掲げられています。

◆六坊の盛衰と寺号の変遷
江戸期までは、正福寺は佐白山の笠間城内にあり、鎌倉期には以下の六坊が存在していました。中心となった宝勝坊、後に三重塔が建てられた桜本坊、大黒石付近にああった座禅坊、東沢口の秀林坊、大手門に向かって左手の閼伽井坊、旧観音堂付近にあった松本坊がそれです。天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による笠間家改易に伴い正福寺は解体され、宝勝院以外の五坊は廃されました。残る宝勝院は山上に移され勝福寺と号するようになりました。正福寺を再び名乗るようになったのは、貞享三年(1686年)のことで、続く元禄期には諸堂宇も整いました。その後、明治の廃仏毀釈で荒廃しましたが、昭和5年(1930年)に、ご本尊・佐白観音像を保管していた近隣の玄勝院住職(天津忠道師)や旧信徒によって宝勝坊の旧地にあたる現在の場所に再建されました。下って昭和59年(1984年)には、先代の天津忠興師(忠道師のご子息)が宗教法人格を得て普門宗・観世音寺として曹洞宗より独立しました。もとの正福寺に寺号を復したのは、現住職・天津蓮照師(忠興師のお嬢様)の代になった後、平成24年(2012年)のことです。

回向堂(弁財天堂)

回向堂(弁財天堂)は、以前の鐘楼堂があった場所に平成26年(2014年)に建てられました。笠間富士の中腹に昔あったという弁財天堂に由来するものなのでしょうか?ちなみに現在の正福寺の位置は、笠間富士の中腹になります。

旧鐘楼堂

かつて存在したこちらの鐘楼堂は、佐白山麓公園の「時鐘楼」に貸し出されている鐘がいずれ戻ってくる時に備えて、笠間市の所有物として現在の回向堂(弁財天堂)の場所に建っておりましたが、鐘が「時鐘楼」で長く保管される流れとなったことから、正福寺に所有権を移転した後、回向堂建設に伴い取り壊されました。

時鐘楼

江戸期に笠間城主の浅野家の下屋敷であった佐白山ろく公園には、「時鐘楼」があり、江戸期には正福寺にあった梵鐘が吊られています。少し経緯が複雑なのですが、順を追ってお話します。
①浅寛文二年(1662年)に当時の笠間藩主であった井上河内守正利の家臣・中島友重が、正福寺から借りた梵鐘を極楽寺(現・八坂神社)境内に置き、時の鐘を撞き始めた。
②藩主が浅野家に変わった後、鐘楼を浅野家の下屋敷に移転した。
③安永七年(1778年)に、真壁郡田村の鋳物師・小田部氏により現在の鐘が鋳造された。
④明治22年(1889年)に、明治初期より一時途絶えていた時鐘が復活した。
⑤昭和45年(1970年)に、鐘楼は正福寺(当時は観世音寺)に移築され、時鐘は正福寺が撞くことになった。
⑥平成13年(2001年)に、現在地に「時鐘楼」が建設され、正福寺の鐘を迎えて現在に至る。

時鐘楼・笠間市サイトにリンク

父のさくら

「母のさくら」と対になるこちらの桜は、現住職の祖父の貢献を讃え「父のさくら」と名付けられました。

大黒石

鎌倉初期に正福寺が徳蔵寺と争った折、徳蔵寺の僧兵が攻め込んできましたが、佐白山の山頂付近にあったこの大黒石が突然転がり出し、徳蔵寺勢を蹴散らしたそうです。

大黒石・かさま歴史交流館井筒屋サイトにリンク

木造 佐白観音坐像

こちらは正福寺ご本尊の佐白観音で茨城県文化財に指定されています。像高58cm、寄木造、白毫、玉眼嵌入の千手観音座像で、もともとの胎内仏(像高7.7cmの青銅鍍金の鋳造仏)は、別に祀られています(こちらは笠間市文化財です)。明治の廃仏毀釈の折には、近隣の曹洞宗・玄勝院に移され難を免れましたが、昭和5年(1930年)に本堂が建てられたと同時に、現在の場所にお戻りです。また佐白観音には姉妹仏があって、こちらは京都・蓮華王院(三十三間堂)に寄進されているとのことです。なお、佐白観音の両脇侍「不動明王立像」「毘沙門天像」は、もともと嘉吉四年(1444年)に極楽寺へ奉納された仏像です。明治の廃仏毀釈の際、佐白観音と同じく玄勝院に移され、昭和5年(1930年)より佐白観音の脇侍となりました。

木造 佐白観音坐像・茨城県教育委員会サイトにリンク

最後までご覧いただきありがとうございました。次回参拝の折には、周辺の佐白山麓公園、玄勝院、笠間城跡まで歩いてみたいと思っています。