花窟神社(はなのいわやじんじゃ)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第六回)~産田神社(うぶたじんじゃ)

花窟神社(はなのいわやじんじゃ)◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第六回)~産田神社(うぶたじんじゃ)

 三重県熊野市有馬にある花窟(はなのいわや)神社は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と軻遇突智尊(かぐつちのみこと)をお祀りしており、その始まりは神代に遡ります。
 日本書記には、火の神・軻遇突智尊を生むときに陰部を焼かれて死んだ伊弉冉尊は、紀伊国の熊野の有馬村に葬られ、人々はその魂(みたま)を「花の時に花を以って祭」ったとあります。さらに社伝によれば、中古三十六歌仙の一人として知られる増基法師(生没年不詳・10~11世紀)が熊野を旅した折に花を以て祭ってより「花窟」の名が起こったとされています。
 花窟神社のご神体は、境内正面にそそり立つ高さ45mあまりの岩壁です。下部には伊弉冉尊が葬られた「ほと穴」と呼ばれる窪みがあり、その前に伊弉冉尊をお祀りする神籬(ひもろぎ)が設けられております。
 またその背後の岩塊は「王子の窟」と呼ばれ、こちらには軻遇突智尊をお祀りする神籬が設けられています。
 このように古くから知られていた花窟神社ですが、専ら伊弉冉尊の墓所として扱われていたため延喜式にその名はなく、社格を得たのは明治期以降となります。

記事リンク
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境内図

花窟神社・境内図

お綱茶屋


下部の建物は、花の窟活性化地域協議会が運営する「お綱茶屋」で、その背後右奥に花の窟神社があります。こちらの駐車場は花窟神社参拝者もご利用いただけます。

こちらが「お綱茶屋」となっています。昨年春にオープンしたばかりの新しい施設で、古代米(イザナミ米)を食べられる食堂、土産物店、資料展示室などがあります。

右わきの通路を通って花窟神社に向います。

口有馬竜宮塔

有馬を含む七里御浜の各河口では、海水の逆流による塩害を防ぐため河口に堤を築き、稲の花の咲く頃には、川の水の通りをよくするために堤を切り崩すという作業を毎年行っていましたが、安政六年(1859年)の切り崩しに際して大きな事故が起こり9名が流死しました。竜宮塔は、こうした事故の再び起こらぬことを祈念して、翌年に建てられたものです。

口有馬道標

「口有馬道標」と呼ばれるこの道標は、危険な高波を避けて内陸を通る熊野三山への道を指し示しており、上下に「右」「道」 、向かって右行に「くまのさん」、左行に「志〃ゆんれい」とあります。

鳥居

こちらが花窟神社の正面にある鳥居です。

社号標には「日本最古花の窟神社」とあります。

こちらの石碑には「史蹟 花乃窟」と彫られています。

向って左側の石碑の文字は読み切れませんでした。

参道

参道両脇には、花窟神社の幟旗がずらりと並びます。

稲荷神社

参道の左手には、赤鳥居が並んでおり、その奥には稲荷神社があります。

龍神神社

こちらは、稲荷神社の右隣にある龍神神社で、黄金竜神をお祀りしています。

参籠殿

正面の建物が参籠殿です。毎年10月2日の御縄掛け神事で使用する約170mの御縄を綯う作業がこの中と周囲で行われます。

手水舎

小ぶりな自然石の水盤が置かれています。ご神体と同じ凝灰岩のようです。

丸石

花窟神社のご神体の岸壁から転がり出たとされる丸石で、悩みや病を癒すご利益があると云われています。

狛犬

真っ赤な口が印象的なこちらの狛犬は、平成2年に奉納されたものです。

社叢

熊野市の天然記念物に指定されている花窟神社の社叢です。このあたりにはイヌビワ、ヤブツバキ等が自生しています。

中門

参籠殿の先にある中門です。こちらをくぐるとご神体の巨大な岩壁が視界いっぱいに広がります。

花の窟神社ご神体

この大岩壁が花窟神社のご神体で、高さ45mあります。窟の頂上からは約170mある「御縄」が海岸の杭まで渡されています。

岩壁のひょうたん型の窪みは、高さ6m、幅2.5m、深さ0.5mほどあって、伊弉冉尊が葬られた場所とされており、伊弉冉尊が火傷を負った陰部に由来して「ほと穴」と呼ばれています。
 「ほと穴」の前には白い玉石が敷き詰められて、伊弉冉尊をお祀りする神籬が設けられています。もしかしてオーブが・・・。

王子の窟

伊弉冉尊のご神体の背後にある岩塊は「王子の窟」と呼ばれています。もう一柱の御祭神・軻遇突智尊(かぐつちのみこと)のご神体とされており、その前にはやはり神籬が設けられています。

こちらは王子の窟の側面です。

この付近にお百度石もあります。

御縄

2月2日及び10月2日に年2回執り行われる例大祭「お綱掛け神事」の主役である「御縄」は全長約170mあり、窟の頂上から境内脇の大柱を経由して海岸側の杭まで渡されています。「御縄」は七本の綱が束ねられたもので、一本一本には次の神々が宿っておられます。
風の神・・・級長戸辺命(しなとべのみこと)
海の神・・・少童命(わたつみのみこと)
木の神・・・句句廼馳(くくのち)
草の神・・・草野姫(かやのひめ)
火の神・・・軻遇突智尊(かぐつちのみこと)
土の神・・・埴安神(はにやすのかみ)
水の神・・・罔象女(みつなのめ)

下の版画は「花の窟図」(作・菱川廣隆)で、この版木は熊野市有形民俗文化財に指定されています。菱川廣隆は、和歌山に住した画家で、幕末から明治にかけて活動しました。

「御縄」から垂れている縄は「旗縄」といい、三組まとめて「三流の幡(みながれのはた)」と呼ばれています。
「三流の幡」にも夫々次のような神が宿っています。
太陽の神・・・天照大神(あまてらすおおみかみ)
月の神・・・月読尊(つくよみのみこと)
地上界の神・・・素戔嗚尊(すさのおのみこと)
昔は朝廷より毎年勅使が下向し三流の錦旗が下されていたそうですが、ある年に災害があってからは途絶えてしまい、それからは地元の人々が縄先に花を括り付けた「旗縄」を、扇を添えて結わえるようになりました。
「三流の幡」 は一度吊るされると自然に朽ちて落下するまでそのままとされていますので、過去に吊るされた「旗縄」が多く垂れて見えます。

「御綱」は窟の頂上をスタートします。

海岸側の社叢の上空を通過します。

大柱の頂上を経由します。

大柱の頂上から次第に地面に近づきます。

御縄の先は、こちらの石杭に結び付けられます。

実際にどのようにしてほどけないようにしているのかは定かではありませんが、反時計回りに7回巻いたあと、時計回りに1回巻いてあるそうです。

参籠殿には、「お綱掛け神事」の様子の写真が掲げられています。

本居宣長歌碑

こちらは国学の巨人・本居宣長の歌碑で「木の国や花のいは屋に引縄の長くたえせぬ里の神わざ」とあります。宣長は、60歳を過ぎた寛政期(18世紀末)に紀州を訪れていますので、その折に詠んだ歌だと思われます。

国道43号線沿いの様子

信号の先に「御綱」が見えます。

社叢脇の休憩所です。

参籠殿前から国道に出る通路がありますが、普段は閉じられています。

産田神社(うぶたじんじゃ)

産田神社は、花窟神社から内陸に1km弱入ったところにあります。花窟神社が伊弉冉尊(いざなみのみこと)の墓所とされるのに対し、産田神社は、伊弉冉尊が軻遇突智尊を産んで亡くなられた地とされています。
 主祭神は、伊弉冉尊と軻遇突智尊(=二所大明神)で、後に伊弉諾尊、天照皇大神、大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇も祀られるようになりました。
 成立は、崇神天皇の御世とされ、熊野年代記には長承元年(1132年)に崇徳天皇の行幸が記されています。
 それから後も、地元の信仰を集め平安・室町・安土桃山・江戸と長い長い歴史を刻み、明治四年(1871年)には郷社に指定され、現在に至ります。

こちらは、正面の鳥居です。

参道は真っすぐに社殿まで伸びています。

こちらは、鳥居脇の夫婦杉です。

境内にはお稲荷様が祀られています。

こちらは、熊野市の指定文化財の棟札を紹介した案内板です。最も古いものは永正十八年(1521年)となります。

本殿の周囲は、石垣に囲まれ、その周りには社叢が広がっています。

熊野地方の神社によくみられる参籠殿です。

こちらは昭和四年(1929年)に建立された御本殿です。女神ですので、千木は内削となっています。

社殿脇にあるこちらの神籬の跡は、神代に遡る産田神社の歴史の傍証として貴重なものです。

「産田神社・神籬跡」熊野市観光公社サイトにリンク

毎年1月10日の大祭には「奉飯の儀」が執り行われます。子供の成長を願って、汁かけ飯、骨付きさんま寿司、赤和え、御酒の膳が振舞われます。

ご朱印

祭礼と行事

2月2日 春季大祭
10月2日 秋季大祭

アクセス

住所 〒519-4325 三重県熊野市有馬町上地130番地
電話 Tel:0597-89-2881
URL https://hananoiwaya.com/index.html

【公共交通機関】
JR熊野市駅より三重交通バス新宮行5分、花の窟停下車
【車】
熊野尾鷲道路・熊野大泊インターチェンジ
 →国道42号線を新宮方面4km程度 。
駐車場有(無料) 。

最後までご覧いただきありがとうございました。岩石をご神体とする神社が多くみられる熊野ですが、花窟神社は圧巻でした。関東からはなかなか参拝しにくい場所になりますが、ほんとに行ってよかったと思ってます。熊野三山遠征記は、まだまだ続きます。