熊野那智大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第三回)~飛瀧神社(ひろうじんじゃ)・御縣彦社(みあがたひこしゃ)・大門坂
熊野本宮大社・熊野速玉大社とともに熊野三山を構成する現在の熊野那智大社は、仁徳天皇の五年( 317年)に、現在の別宮・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)の地より、那智山中腹に遷り成立しました。
さらに遡ること千年、「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の東征(紀元前662年)の折、「丹敷浦(にしきうら)=那智の浜」より、神光を放つ「光ケ峯」を目指し那智川を遡上する中、目の前に現れた雄大な「那智御瀧」を、「大己貴神(おおなむちのかみ)」の顕現としてお祀りしたことをその起源とします。
「那智御瀧」という強烈なインパクトを放つご神体をお祀りする熊野那智大社は、神仏相和す熊野修験の根拠地として長らく栄えて参りました。そのため熊野三山の他の二社と比べますと「修行の場」としての色彩が強く、宗教法人格は別としても隣接する西国三十三観音霊場一番札所の「青岸渡寺」と地理的に融合した配置を今も維持しています。
なお「熊野那智大社」を称するようになったのは昭和38年(1963年)のことで、明治六年(1873年)に県社に指定されると共に「那智神社」さらに「熊野夫須美神社」と改称し、大正期になり官幣中社に列せられてからは「熊野那智神社」と称していました。
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熊野本宮大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第一回)~大斎原(おおゆのはら)・八咫烏 |
熊野速玉大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第二回)~神倉神社・阿須賀神社・熊野御幸 |
熊野那智大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第三回)~大門坂・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)・御縣彦社(みあがたひこしゃ) |
那智山・青岸渡寺◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第四回)/西国三十三所(第一番)参拝 |
境内図
◆熊野那智大社の神階・社格
【神階】
天慶三年(940年)熊野夫須美大神 正一位
飛瀧神 従四位上
【社格】
明治六年(1873年):県社
大正十年(1921年):官幣中社
昭和二十三年(1948年):別表神社
大門坂
振ケ瀬橋から多富気王子跡を経て旧大門跡に至る大門坂は旧熊野古道の佇まいを今に残す267段の石段からなる参詣道で、距離は約1.3kmと手ごろなことから、熊野那智大社の参拝客には人気のルートとなっています。車は、坂下にある県道46号線沿いの大門坂駐車場(無料)止めておいて、帰りはバスで下りてくるのが便利です。
熊野に詣でた蹴鞠名人・藤原成通にあやかって日本サッカー協会のシンボルマークとなり、世界中に広く知られるようになった八咫烏像です。
県道48号線から左に枝分かれして進んで行きます。「大門坂」のおおきな石標が目印です。
この場所には、昔「那智山」で唯一の大鳥居があり、大正期に台風で倒壊したままになっていましたが、戦後になって大滝入口にあった石の鳥居を移築したのが現在の鳥居です。右端に見える石柱は「下馬石」です。
石の鳥居を潜ったっ直ぐ先にあるのが「振ケ瀬橋」で、聖域・俗界を振り分ける橋とされています。もともとは反り橋でしたが、昭和53年に現在の鉄筋コンクリートの橋となりました。
こちらは、那智七石の一つ鏡石です。
◆那智七石
大門坂の途上にある鏡石と唐斗石、実方院跡の平石、青岸渡寺参道の三ツ石、尊勝院境内の降石、青岸渡寺境内の笈掛石、第五殿前の烏石を指します。もとは北斗七星をイメージして配置されていたそうですが、今は移動されています。
こちらは夫婦杉です。高さ54.5m、周囲8.5mという樹齢800年の二本の巨木の間を石畳が通ります。両側には132本といわれる杉が立ち並びます。
こちらは九十九王子のラストとなる多富気王子(たふけおうじ)跡です。御祭神の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)は、明治10年(1877年)に、熊野那智大社の一の鳥居を入ったところにある児宮(ちごのみや)に遷座なさっています。
こちらが那智七石の一つ「唐斗石」です。
石段はまだまだ続きます。
こちらが大門坂の終着点の大門跡です。町石がスタート地点の「十一文関跡」から六町(654m)となることを示しています。ちなみにここあった大門は、仏教系の建物であったことから昭和8年(1933年)に青岸渡寺に移設され、仁王門となっています。
振り返るとこんな感じ。
晴明橋の石材
花山法皇の頃、この付近に庵を結んでいた安倍晴明にちなんで名付けられた旧・晴明橋の部材が路面に埋め込まれています。
表参道
熊野那智大社の表参道は、那智山郵便局の左手が入口となっています。
実方院跡
那智山西座執行として力を振るった米良氏が拠っていた実方院は、尊勝院・廊之坊と並び「那智三坊」に挙げられる有力な宿坊(いわゆる宿坊としての機能に留まらず地方豪族の拠点としての色彩が濃い)で、天皇・上皇の行幸に際しての宿泊所として利用されていましたが、明治の神仏分離令に際して廃され、熊野那智大社の敷地内に組み込まれてしまいました。現在の建物は、熊野那智大社の参宿所として使用されていたもので、最近まで「瀧泉閣清涼亭」という茶店が営業していたようです。なお実方院という院号は、米良氏の始祖・藤原実方の名より取ったものです。
こちらは、和歌山県指定天然記念物の木斛(もっこく)の大樹です。樹高10m余、幹回り1.8m、樹齢400年余。
こちらは、那智七石の一つ「平石」です。
一の鳥居を見上げると木漏れ陽がとてもまぶしく、熊野那智大社での私は、このような神の光にずっと包まれていました。
一の鳥居
こちらが一の鳥居で、鉄筋コンクリート製の明神鳥居です。以前は神号額「那智山熊野権現」が掲げられていましたが、現在は額束が見えています。
一の鳥居も二の鳥居が現在の場所に建てられるようになったのは昭和に入ってからで、少なくとも神仏分離令以前には、この場所に鳥居はありませんでした。例えば、下の図は江戸期に描かれた「日本第一熊野那智御山絵図」ですが、境内近辺に鳥居は描かれておらず、現在の二の鳥居の場所に南門が見えます。
手水舎(石段途上)
一の鳥居を潜ったすぐ左手に手水舎があります。こちらは、本殿よりむしろ、児宮(ちごのみや)にお参りする方が清められるよう、この場所に配置されたものと思われます。
児宮(ちごのみや)
手水舎の前には、児宮(ちごのみや) があります。少し前に触れましたが、児宮は、大門坂途中にあった「多富気王子社」を明治10年(1877年)に遷座したお社で、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が祀られています。彦火火出見尊は、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の間にできた神で、神武天皇の祖父にあたり、記紀では「山幸彦」として登場します。なお児宮は、熊野那智大社では八社殿にも祀られており、熊野本宮大社・熊野速玉大社では第七殿に祀られています。
御創建一千七百年・熊野那智大社境内施設整備事業竣功記念碑
熊野那智大社では、御創建一千七百年を記念して、平成29年(2017年)より令和2年(2020年)にかけて、大がかりな塗装を中心とした施設整備事業が実施されました。現在の社殿を始めとした各施設の朱色が鮮やかなのは、この事業のおかげです。
神馬舎
こちらが、石段の曲がり角に立つ神馬舎です。後ろが崖という少し険しいところに建っています。その昔のリアル神馬もここで寝起きしていたのでしょうか?
二の鳥居
こちらの石段を登り切ったところが二の鳥居です。一の鳥居と同じく鉄筋コンクリート造りの明神鳥居で、社号額「熊野那智大社」が掲げられています。一の鳥居と同様に、この場所に鳥居が建てられるようになったのは昭和以降のことです。
これが結構長いので・・・。神の光に包まれながらもうひと踏ん張り。大門坂入口から合計すると何段の石段を上ったことになるのでしょう。
二の鳥居の右正面に社殿が並んでいます。鳥居のすぐ裏が本殿の手水舎です。
社務所
斜面を活用してボリューム感ある鉄筋コンクリートの社務所が建っています。現代の建築技術があってこその土地の有効活用です。
こちらが正面。
斎館
こちらが斎館です。斎館の役割は、元来ご神職がお務めの前に身を清める場ということですが、実質的には、お食事を取ったり、内々の儀式・行事を執り行ったりする場所として利用されています。
斎館左手前の立派な桜が、平安末期に奥州藤原氏三代目・秀衡が熊野詣の際に奉納したという秀衡桜で、毎年4月14日には「桜花祭」が執り行われます。
宝物館(先徳堂)
こちらは天からの光に包まれる宝物殿(先徳堂)です。熊野那智大社御創建一千六百五十年祭奉賛会記念事業として昭和40年(1965年)に開館しました。国の重要文化財を始めとした多くの社宝が収蔵・展示されています。「先徳堂」の名は那智山を今日の隆盛へと導いた裸形上人・伝教大師、弘法大師を始めとする七人の先徳に由来します。
古銅印
こちらの印章は、孝徳天皇大化元年(645年)に牟婁郡が置かれた際に、郡司より賜った印章と伝えられており、重要文化財に指定されています。材質は鋳銅製で「牟婁郡印」とあります。
金銀装宝剣拵
寛永十三年(1636年)に徳川頼宣公より寄進された宝剣で「フツノミタマノ剣」と呼ばれています。神代より伝わるとされる刀身は無銘で製作時期も不明ですが、重要文化財に指定されています。
熊野那智山宮曼荼羅
こちらは、全国を布教に回った熊野比丘尼の「絵説き」で使用された唱導画「熊野那智山宮曼荼羅」です。丈夫な美濃紙に泥絵具で描かれた室町期のもので、持ち運びされる際についた折り目が、その歴史を感じさせます。現在は和歌山県の指定文化財となっています。
曼荼羅の上半分には現在と変わらぬ配置で熊野十三所権現や三重塔が描かれており、中央の回廊で繋がった二棟の建物は礼殿と如意輪堂=現青岸渡寺本堂です。また右中段には多くの社殿を持つ飛瀧神社が那智御瀧と共に描かれています。左下はおそらく市野々王子で、右下は補陀落山寺と熊野三所大神社で渡海船も見え、市野々王子から熊野那智大社に至る間には、振ケ瀬橋・大門坂・大門(仁王門)が描かれています。左端上段は阿弥陀寺、中段の建物は実方院と思われます。
礼殿
現在の礼殿は、昭和9年(1934年)に旧礼殿が倒壊したため、戦時中の昭和17年(1942年)に建てられたものです。その後、老朽化が進んだため「御創建1700年記念境内施設整備事業」の一環として令和2年(2020年)に改修されました。礼殿には、舞殿と幣殿が併設されています。
鈴門と瑞垣
こちらが重要文化財に指定されている本殿前の鈴門と本殿を囲む瑞垣(総延長112m)です。鈴門は御縣彦社前のものと併せて計七棟あります。何れも檜皮葺で江戸末期(1830年から1867年)に建てられたものです。
本殿
熊野那智大社の御本殿(何れも重要文化財)は、瑞垣に囲まれて六棟あり、熊野十二所権現と飛瀧神社の主祭神である大己貴命を合わせて計十三柱の神様が祀られています。各棟共、嘉永四年(1871年)から嘉永七年(1874年)にかけて建立されたものです。
上五社
礼殿の背後の五棟は「上五社」と呼ばれており、熊野本宮大社及び熊野速玉大社の上四社、及び大己貴命をお祀りする瀧宮から成っています。何れも檜皮葺で桁行三間の「熊野造」という同一構造ですが、主祭神の熊野夫須美大神をお祀りする第四殿だけが一回り大きく造られているのと、第一殿(瀧宮)は少し後ろに退いた位置に建てられている点が異なります。また千木は、第四殿・第五殿が内削ぎ、その他が外削ぎとなっています。
社殿の名称と御祭神は、向って右側より以下のようになります。
第一殿・瀧宮 大己貴命(おおみなつちのみこと)=飛瀧権現
第二殿・證証殿 家津御子大神(けつみこのおおかみ)、
国常立尊(くにのとこたちのみこと)
第三殿・中御前 御子速玉大神(みこはやたまのおおかみ)
第四殿・西御前 熊野夫須美大神(くまのふすみのおおかみ)…主祭神
第五殿・若宮 天照大神(あまてらすおおかみ)
中四社・下四社
礼殿に向って左手にある大きな社殿は、第六殿の「八社殿」で、熊野十二社権現の「中四社」「下四社」が祀られています。他の本殿と同じく檜皮葺ですが、規模が大きいためただ一つ「八間社流造」となっており、千木は外削です。御祭神は、以下のようになります。
【中四社】…地神五代(ちじんごだい)に属する神々
禅児宮 忍穂耳尊(おしほみみのみこと)
聖宮 瓊々杵尊(ににぎのみこと)
児宮 彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)
子守宮 鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
【下四社】…神代七世(かみよななよ)に属する神々
一万宮・十万宮 国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、
豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)
米持金剛 泥土煮尊(ういじにのみこと)
飛行夜叉 大戸道尊(おおとのぢのみこと)
勧請十五所 面足尊(おもだるのみこと)
◆熊野三山の御祭神グループ
【両所権現】
主に熊野速玉大社で主祭神の二柱(熊野速玉大神・熊野夫須美大神)を指します。
【三所権現】
熊野三社各々の主祭神(家津美御子大神・熊野速玉大神・熊野夫須美大神)三柱を「三所権現」と称します。10世紀には成立。
【五所王子】
熊野三社で共通してお祀りしている中四社に若宮を加えて五所王子と称します。なお熊野九十九王子のうち、この五所王子すべてをお祀りしている王子社を「五体王子」と呼びます。
【四所明神(ししょみょうじん)】
熊野三社で共通してお祀りしている下四社を指します。
【十二所権現】
三所権現・五所王子・四所明神の総称で11世紀には成立。
【十三所権現】
熊野那智大社では、十二所権現に滝宮を加えて「十三所権現」と称します。
烏石
第五殿の鈴門脇にあるこちらが那智七石のひとつ「烏石」です。「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の大和・橿原入りを先導した八咫烏が、羽を休め姿を変えたものと云われています。
法皇桜(伝・後白河法皇御手植)
「烏石」の横に立つ法皇桜は、後白河法皇お手植えの桜を今に引き継ぐ枝垂桜です。桜の頃に一度お参りしたいものです。
御縣彦社(みあがたひこしゃ)
礼殿に向って左手にある境内社・御縣彦社の御祭神は、京都・下鴨神社の御祭神としても知られる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。鈴門脇の柱にもある八咫烏は、賀茂建角身命の化身として「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」の大和国入りを導いたとされています。
御縣彦社の建立は、慶応三年(1867年)で、本殿各棟と同じく国の重要文化財に指定されています。屋根は本殿各棟と同じ檜皮葺ですが、造りは「一間社流造」となっており、御祭神が男神ですので千木は外削ぎです。
樟霊社
こちらは、和歌山県の天然記念物に指定されている平重盛の手植の大樟で、樹高が27m、幹周りが8.5mあります。中が空洞で人が入り込めるようになっており、この大木自体が「樟霊社」として祀られています。
こちらは、胎内くぐりの入り口前に立つ石の鳥居です。
胎内くぐりの入口は、樟の木の根元にあります。いったい何人の参拝者が、この穴を潜ったのでしょうか。願い事を記した絵馬を手に入ります。
出口からの眩しい光を見上げスチールの梯子を上ります。
胎内くぐりの出口から授与所の方向を見下ろすとこんな感じ。
授与所
こちらが、礼殿に併設された授与所です。ご朱印もこちらで頂戴できます。
長生殿
唐の太宗が、驪山(りざん)に建てた離宮「長生殿」より命名された展望休憩所です。とにかく絶景です。
東門
東門は、隣の青岸渡寺に続く便利な棟門です。すぐ前が青岸渡寺の御本堂になっています。
裏参道(御滝道)
飛瀧神社・一の鳥居から熊野那智大社・一の鳥居に向う石段続きの参道で、途中防災道路を横切ります。私が那智山にお参りした折には、青岸渡寺から飛瀧神社へ向かう下り道として利用させて頂きました。
遠く那智御滝が見えます。
那智御滝の最上部・銚子口には注連縄が張り渡されており、毎年7月9日と12月27日の年二回、約13mの注連縄の張替えを行う「御滝注連縄張替行事」が斎行されます。
飛瀧神社(別宮)
飛瀧神社は、熊野那智大社の元宮で「別宮」と呼ばれています。ご神体は「那智御滝」自身で、まさに那智山信仰のルーツと云える神社です。飛瀧神社から直接見えるのが「一の滝(三筋の滝)」で、さらに上流には「二の滝(木の葉返しの滝)」「三の滝(扇の滝)」があり、他と併せて計48滝(那智四十八滝)があるそうです。
一の鳥居
社号額には「熊野那智大社別宮・飛瀧神社」とあります。近年の御創建一千七百年・熊野那智大社境内施設整備事業で、落ち着いた色にきれいに再塗装されました。
昭和天皇御製碑
こちらは、昭和天皇の御製碑で「そのかみに 熊野灘より あふぎみし 那智の大瀧 けふ近く見つ」とあります。約50年の長きにわたり昭和天皇の侍従一筋、歴代侍従長の代表格とされる入江相政氏の書となります。
鎌倉積の石段
一の鳥居から御瀧本へ、「鎌倉積」と呼ばれる石段の参道が続きます。
視界が開け、二の鳥居が見えてきます。二の鳥居の真正面が「那智御滝」となります。
参道を下から見上げるとこんな感じ。
こちらは、「神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)=神武天皇」が目指したという「光ケ峯」の遥拝石です。参道石段脇にあります。
二の鳥居
こちらが、那智御瀧の正面を仰ぐ二の鳥居です。一の鳥居と同様に、近年、再塗装されました。
神籬(ひもろぎ)
こちらにある金の御幣を立てられた四角い岩は、ご神体である那智御瀧の200mほど手前に神の依り代として設えられた神籬(ひもろぎ)です。
社務所
二の鳥居に向って左手が社務所となっておりまして、飛瀧神社のご朱印もこちらで頂けます。
江戸期にはこのあたりに旧那智山・飛瀧権現の本地仏である千手観音をお祀りする極めて重要な施設「本地堂(千手堂)」があり滝衆六十六名がご奉仕しておりました。
神仏相和していた江戸期までの那智山では、飛瀧権現の本地仏たる千手観音こそがあくまでもご本尊であり、青岸渡寺の如意輪観音は西国三十三所一番札所・如意輪堂の札所本尊というポジションでしたので、12世紀に西国三十三所が現在の形に落ち着くまでの過渡期には、西国三十三所の一番札所本尊の如意輪観音に並び立つ形で千手観音が二番札所本尊に挙げられる例も見られました。
しかし、本地堂は、明治の神仏分離令の折に廃され、千手観音像も失われてしまい、このあたりが神社側の管理地となったことから再建されることもなく現在に至っております。なお、現在の青岸渡寺・三重塔には本地仏・千手観音がいらっしゃいますが、こちらは新たに製作されたものです。
社務所横の料金所で300円をお支払いすると、「飛瀧神社拝所」の舞台への参道に入ることができ、下の写真の手水はその入口にあります。水盤左の岩を挟んでさらに左脇にある龍口からはとてもきれいな「お瀧水」が流れており、自由に汲んで帰ることができます。私も2リットルのペットボトルを満たして自宅でおいしく頂きました。
御瀧本祈願所(護摩堂)・神霊石
手水から少し石段を上ったところにある御瀧本祈願所は、江戸期までは飛瀧権現の護摩堂があった場所で、那智御瀧や那智山修験にまつわる神様をお祀りしています。
那智御滝御祭神:大己貴命 修験道開祖:役小角 御滝守護:不動明王
御滝行者:花山法皇・弘法大師・伝教大師・安倍晴明・一遍上人・文覚上人
毎月18日には権現講祭が斎行されており、随時、特別祈祷も受付ていただけます。
祈願所の正面の銅の護摩釜の中で護摩木に囲まれた丸い石が那智御瀧より見つけられた「神霊石」です。
飛瀧神社拝所・舞台
さらに、石段を上がりますと飛瀧神社拝所の舞台が見えてきます。
こちらの「飛瀧神社拝所」の石碑は、昭和25年(1950年)に「鬼印釣針本舗」オーナーで伝説の釣針商・大岩甚之助氏夫妻よりダイヤモンド婚を記念して奉納されたものです。氏は、当時、熊野那智大社の責任役員を務めていらっしゃいました。
こちらからは素晴らしい那智御滝の全景を目にすることができます。
那智御瀧
こちらが、大雲取山から流れ出る那智御瀧の全景です。落差は133m、三筋に分かれた銚子口の幅13m、滝壺の深さは10mという大滝で、華厳の滝・袋田の滝と並び日本三名瀑の一つとされています。
熊野牛王神符
過去の記事でもご紹介したとおり「熊野牛王神符(牛王宝印)」は、熊野三山夫々に異なるデザインとなっており、熊野那智大社のご神符には七十二羽のカラスが描かれています。こちらは「那智瀧宝」と書かれているそうですが、「那智」しか読めません。熊野牛王神符は、厄除けのご神符となる他、誓約書や起請文の用紙としても利用されていました。
ご朱印
那智熊野大社のご朱印
御縣彦社のご朱印
那智御瀧のご朱印
祭礼と行事
元旦 | 歳旦祭(飛瀧神社…午前3時、熊野那智大社…午前6時) |
元旦 | 迎水秘事(御瀧本秘所) |
元旦 | 御瀧本祈願所初祈祷(御瀧本祈願所…午前4時) |
元旦~1月3日 | 二夜三日特別大祈祷(熊野那智大社) |
1月2日 | 牛王神符摺初式(熊野那智大社…午前6時) |
1月2日・7日 | 牛王神璽祭(熊野那智大社…午後4時) |
1月3日 | 元始祭(熊野那智大社…午前7時、飛瀧神社…午前9時) |
1月6日 | 手釿初式(熊野那智大社…午前9時) |
1月8日 | 別宮牛王神璽祭(飛瀧神社…午前10時) |
2月3日 | 節分祭(熊野那智大社…午前8時) |
2月3日 | 大檀那追儺式(熊野那智大社…午前10時・午後1時) |
2月最初の午の日 | 初午祭(熊野那智大社、御縣彦社) |
2月11日 | 紀元祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
2月17日 | 祈年祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
2月23日 | 天長祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
3月20日 | 春季皇霊祭遙拝式 |
4月3日 | 神武天皇祭遙拝式 |
4月14日 | 桜花祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
4月29日 | 昭和祭 |
6月14日 | 紫陽花祭(熊野那智大社…午前9時) |
6月30日 | 夏越大祓式 |
7月9日 | 御瀧注連縄張替式 |
7月11日 | 扇神輿張替式 |
7月13日 | 宵宮祭 |
7月14日 | 例大祭(那智の扇祭り) |
9月22日 | 秋季皇霊祭遙拝式 |
10月17日 | 神嘗祭遙拝式神嘗奉祝祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
11月1日 | 祈醸祭(熊野那智大社…午前9時) |
11月3日 | 明治祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時) |
11月14日 | 氏神祭紅葉祭(熊野那智大社…午前9時、飛瀧神社…午前10時半) |
11月23日 | 新嘗祭・献穀講祭(熊野那智大社…午前11時) |
12月18日 | 御瀧本祈願所例祭 |
12月27日 | 御煤払式(熊野那智大社…午前9時) |
12月27日 | 御瀧注連縄張替式(那智御瀧銚子口…午前10時半) |
12月31日 | 年越大祓式(熊野那智大社…午後4時) |
12月31日 | 除夜祭(飛瀧神社…午後3時、熊野那智大社…午後4時半) |
毎月1日 | 朔日祭 |
毎月14日 | 月次祭 |
毎月18日 | 権現講祭(熊野那智大社…午前9時) |
アクセス
住所 | 〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山1 |
電話 | Tel:0735-55-0321 |
URL | https://kumanonachitaisha.or.jp/ |
【公共交通機関】
JR紀勢本線・紀伊勝浦駅より熊野御坊南海バスで「那智山」停下車。
所要時間30分程度
【車】
紀勢自動車道・すさみ南インターより国道42号線で那智勝浦町へ。
勝浦臨海交差点を左折し県道46号線(那智山勝浦線)で那智山へ。
駐車場有(神社防災道路通行料:800円) 。
最後までご覧いただきありがとうございました。熊野三山遠征記は、まだまだ続きますので、引き続きよろしくお願いいたします。
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