熊野本宮大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第一回)~大斎原(おおゆのはら)・八咫烏
この春にお参りした南紀熊野三社・青岸渡寺とその周辺の由緒ある神社・仏閣を「熊野三山遠征記」として数回に分けてご紹介します。第一回は、熊野三社でも筆頭とされる熊野本宮大社です。
田辺市本宮町にある熊野本宮大社(旧官幣大社・熊野坐神社(くまのにますじんじゃ))は、崇神天皇六十五年(紀元前33年)に開創され、熊野速玉大社・熊野那智大社と併せた熊野三社の首座として、神代より全国4800社と云われる熊野神社の総本宮と仰がれてきました。
熊野本宮の主祭神は第三殿に祀られる家津御子大神(けつみこのおおかみ・素戔嗚尊)で、舟玉大神とも呼ばれる造船・貿易の神、熊野牛王神符に見られる誓約の神、富貴寿命神、交通の守護神、さらには温泉の守護神でもあります。
神門の内の瑞垣に囲まれた第一殿には家津御子大神の母神・伊邪那美大神(いざなみのおおかみ・夫須美大神)と事解之男神(ことさかのおのかみ)、第二殿に速玉大神(はやたまのおおかみ)と伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)、第四殿に天照大神(あまてらすおおかみ)が祀られています。伊邪那岐大神を除くこれら諸神は、今の大斎原(おおゆのはら)の上四社に祀られていましたが、明治二十二年(1889年)の大水害で辛くも難を逃れ、明治二十四年(1891年)に現在の社地に遷座したものです。
この際、忍穂耳命(おしほのみみのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)・彦穂々出見命(ひこほほでみのみこと)・鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)をお祀りしていた中四社、軻遇突智命(かぐつちのみこと)・埴山姫命(はにやまひめのみこと)・弥都波能売命(みづはのめのみこと)・稚産霊命(わくむすびのみこと)をお祀りしていた下四社は、大きな被害にあい、現在は大斎原(おおゆのはら)の二基の石祠のうち西の石祠に祀られています。
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熊野本宮大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第一回)~大斎原(おおゆのはら)・八咫烏 |
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◆熊野三山
「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の三社と江戸期まで「熊野那智大社」と一体であった「那智山青岸渡寺」を合わせて「熊野三山」と呼びます。「熊野古道・中辺路」で繋がる熊野三山は、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社(青岸渡寺)の順に参拝することが正式とされています。
◆熊野詣
『伊勢へ七度、熊野へ三度』と云われる熊野は、熊野詣で知られる古くからの聖地であり、多くの人々の信仰を集めてきました。平安中期~鎌倉期には皇族・貴族による熊野詣が盛んで、延喜七年(907年)に宇多法皇が参拝して以来、弘安四年(1281年)の亀山上皇の御幸まで、白河上皇の34回を筆頭に、白河上皇(9回)、鳥羽上皇(21回)、後鳥羽上皇(28回)と幾度も参詣を重ねる天皇・上皇も少なくありません。
また江戸期には、紀州・徳川頼宜公が熊野三山の復興に注力し参詣道を整備したことで、身分を問わず様々な人々が参詣するようになり「蟻の熊野詣」とも呼ばれる最盛期を迎えました。
境内図
表鳥居(大鳥居)
熊野本宮大社の表参道の入口です。生憎の雨でしたが、人出が少ない中、木々の緑が濃く、それはそれで厳かな雰囲気を醸し出していました。すぐ左手に駐車場があります。
「大鳥居」とも呼ばれる堂々とした木製の明神鳥居です。
正中に掲げられている「熊野大権現」の神号額は、明治天皇の皇女で、戦後は女性初の「神宮祭主」となった北白川房子氏の揮毫によるものです。「神宮祭主」は伊勢神宮の神職のトップで、北白川房子氏以来、皇籍を離れた皇女が代々務めており、現在は黒田清子氏が就いていらっしゃいます。
北白川宮家は旧聖護院宮家として、室町期以降、代々熊野三山を統括する「熊野三山検校」(現地統括者の熊野別当のさらに上席)を務める家柄でした。
鳥居の右手にはボリューム感のある「熊野本宮大社」の社号標があります。昭和47年(1972年)に建てられたもので、右上には熊野権現のキャッチコピー「日本第一霊験所」が刻まれています。
阿形・吽形の狛犬です。
参道
幟(のぼり)が両脇に立ち並ぶ参道は、杉木立を抜け神門に続きます。途中には158段の石段があり、高齢の参拝者にはなかなかに堪えますので、自信のない方は、車で裏鳥居に回って本殿裏の駐車場に乗り付けて神門に向った方がよいかも知れません。左手に見えるのが研修施設の瑞鳳殿です。
功霊社
歴代の宮司他、熊野本宮大社に功績のあった方々の御霊をお祀りします。
祓戸大神
「かけまくもかしこき・・・」から始まるおなじみの祓詞に「祓戸の大神等」として出てくるお祓いの四神です。総本宮は滋賀県大津市の佐久奈度神社で、瀬織津姫尊(せおりつひめのみこと)、速秋津姫尊(はやあきつひめのみこと)、気吹戸主尊(いぶきどぬしのみこと)、速佐須良姫尊(はやさすらひめのみこと)の四神が祀られています。熊野本宮では祠を置かず石碑の形をとっており、祓戸は神門の手前にあります。
手水舎
手水舎には自然の岩をイメージした水盤が据えられています。熊野三山ではおなじみの八咫烏のオブジェが隅に置かれています。
ここまで来るとすぐ先が神門となります。
宝物殿
熊野本宮大社の宝物は、過去の水害・火災等でその多くが失われてしまいましたが、それでも重文級の文化財がまだまだ残され宝物殿に収蔵されています。
残念ながらこの日、宝物殿は公開されておりませんでしたが、主な収蔵物をいくつかご紹介します。
熊野本宮并諸末社圖繒
「熊野本宮并諸末社圖繒」は、江戸中・後期の作と伝えられており、明治二十二年の大水害前の大斎原(おおゆのはら)の旧社殿が描かれています。社殿右側の太い川が熊野川、社殿左の細い川が音無川で、左上方部の街道が音無川を横切った地点の左上あたりが現在の境内地となります。
鉄湯釜(国重文)
鎌倉期・建久九年(1198年)に造られた「鉄湯釜」は、現存する中では東大寺の「鉄湯船」に次ぎ、国内で二番目に古い釜で、昔は湯立神事に使われていたようです。鉄と云いつつ実は鋳掛修繕には銅が使われており、その成分を分析したところ何と鎌倉大仏に使用されている銅と同じものなのだそうです。
豊臣秀頼公奉納の神額 (県重文)
江戸初期 慶長十八年(1613年)大坂冬の陣の前年に豊臣秀頼より奉納されたものです。黒漆塗の両脇に黄金色の龍という重厚感ある造りで「日本第一大霊験所 根本熊野三所権現」とあります。
斎館・千日詣結願碑
宝物殿の向側に千日詣結願碑があり、その奥に見えるのが斎館です。
旧社号標
「官幣大社 熊野坐神社」と刻まれたこの社号標は、戦後「熊野本宮大社」と改める前の昭和十五年に建立されたもので、現職首相であった近衛文麿の筆によります。明治四年に正式社号とした「熊野坐神社」は延喜式神名帳に記されている由緒ある社号です。
後鳥羽上皇歌碑
こちらは、幾度も熊野に御幸した後鳥羽上皇の御製で、藤原長清の私撰和歌集「夫木抄(ふぼくしょう)」にあります。
「はるばるとさかしき峯を分け過ぎて音無川を今日見つるかな」
祓戸
こちらが祓戸です。南国らしく緑の苔に覆われています。
授与所
神門の右手前に授与所があり、こちらでご朱印や熊野牛王神符を頂けます。
拝殿(黎明殿)
こちらが黎明殿と呼ばれる拝殿で、神門を潜ることなく本殿(正面には主祭神が祀られている第三殿があります)に参拝できます。 明和七年(1770年)の火災で焼失した大斎原の旧礼殿は、桁行13間(約20m)という大きなもので、客僧の修行の場としても使われていたようです。
正面の左右に掲げられた大きな漢字は「大筆書き」と呼ばれ、翌年への思いを込めて毎年末に宮司が書き上げ1年間掲げられます。今年の文字は「今」と「力」です。
神門
第三殿の正面に建つ神門は元は熊野坐神社(=熊野本宮大社)が大斎原にあった頃の東御門にあたります。現在の大鳥居から進んで上にあがる石段の上に建てられていました。修理工事の際の報告書によると、部材に残る痕跡及び付着した泥などから、軒廻りや小屋組をの部材の多くが移築時に他の建物より転用された古材だそうです。
正面の絵馬は毎年掛け替えられます。今年は辰年ですね。
独特の形をしているこちらの注連飾りは八咫烏を象ったものです。
こちらは由緒書です。
社殿
現在の社殿三棟(何れも本殿)は、明治二十二年(1889年)の大水害の被害を免 れた上四社を、明治二十四年(1891年)に現在地へ遷座したものです。いずれも19世紀初めの白木造・檜皮葺の建物で、「熊野造り」社殿の代表格とされ国の重要文化財に指定されています。
熊野本宮の主祭神は、元は家津大神一座でしたが、10世紀になると熊野速玉大社と熊野那智大社の主祭神を勧請・合祀し「熊野三所権現」となり、さらに11世紀になると眷属神が加わり「熊野十二権現」が成立しました。
仏教との習合は奈良期より見られ、例えば主祭神・家津御子大神の本地仏は「阿弥陀如来」、伊邪那美大神の本地仏は「千手観音」、速玉大神の本地仏は「薬師如来」とされています。
何れの社殿も平成七年(1995年)に国の重要文化財に指定されています。
三棟の社殿全体は瑞垣に囲まれており、各社殿の正面には、参拝用に「鈴門」が設けられています。
本宮(第三殿/証誠殿)
神門正面に位置する「本宮・第三殿」は証誠殿と呼ばれています。主祭神・家津御子大神をお祀りする本殿で、江戸期・光格天皇の代・享和二年(1802年)に建立されました。桁行三間・正面切妻、内部が内陣と外陣に分かれる「熊野造り」で屋根は檜皮葺です。平成7年(1995年)に他の二棟と共に国の重要文化財に指定されました。
第三殿の千木は、第四殿(祭神・天照大神)と同じく何故か内削ぎで、祭神の家津御子大神は女神であることを示しています。平安期以来、伊勢神宮・皇室との関わりの中で素戔嗚尊と同一神とされてはいますが、本来は「紀伊続風土記」で「熊野奇霊御木野命(くまのくし『みけ』のみこと)」と呼ばれているように「みけ=御饌=食物」を司る女神だったのではないでしょうか。ちなみに「先代旧事本記」では素戔嗚尊に食事を提供する女神として「大御食都姫(おお『みけ』つひめ)」が登場しますし、出雲の熊野大社の主祭神も「神祖熊野大神櫛御気野命(かぶろぎくまののおおかみくし『みけ』ぬのみこと)」です。
結宮(第二殿/中御前・第一殿/西御前)
「本宮」に向って左手にある「結宮」は、第一殿(西御前)と第二殿(中御前)の相殿となっており「両所権現」と呼ばれています。第三殿と同じく、江戸期享和二年(1802年)に建立され、相殿ゆえに第三殿より間口は広く5間の入母屋造りとなっています。
第二殿には速玉大神(はやたまのおおかみ)と伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)が祀られています。速玉大神は、伊邪那岐大神が黄泉の国で腐乱した伊邪那美大神の姿を見て、縁を切ろうとした際に吐いた唾から生まれた神で、絶縁の神とされています。
第一殿には家津御子大神の母神・伊邪那美大神(いざなみのおおかみ・夫須美大神)の「和魂(にぎたま)」と事解之男神(ことさかのおのかみ)が祀られています。伊邪那美大神は、熊野市有馬町にある花窟(はなのいわや)神社より遷座されたものとの記録が残っています。また事解之男神は、速玉大神が生まれた唾を、掃く(祓う)時に生まれた神で、速玉大神と同じく絶縁の神とされていますが、事態を収拾させる神としての側面があり、伊邪那美大神と伊邪那岐大神との間のわだかまりを解き、伊邪那美大神の「荒魂(あらたま)」を鎮める役割を担っています。
若宮(第四殿/東御前)
「本宮」に向って右手にある「若宮(若一王子)・第四殿 」には、天照大神が祀られています。 現社殿は、旧社地・大斎原に文化四年(1810年)に建立されたものを他の社殿と同じく移築したもので、第三殿とほぼ同規模です。
満山社
上四社の右側にあるのが満山社で、結いの神・祓いの神・八百万の神が祀られています。御神体は「玉石」で、平成19年(2007年)に社殿が建てられるまでは、いわゆる「要石」のような外観で地上にお祀りされていました。なお、明治の大水害前の大斎原・旧社地を描いた「紀伊國名所図会」中の境内図では、向かって左から上四社・中四社・下四社と並ぶさらに右手に「八百万神」として社殿が描かれています。向かって右端の満山社に結いの神をお祀りすることで、左端にある第一殿の絶縁の神・事解之男神、第二殿の絶縁の神・速玉大神とのバランスを取っています。
◆熊野本宮大社の神階・社格
【神階】
時期不明 従五位下
貞観元年(859年)正月 従五位上
貞観元年(859年)二月 従二位
延喜七年(907年)正二位
天慶三年(940年)正一位
【社格】
延喜式:名神大社
明治四年(1871年):国幣中社
大正四年(1915年):官幣大社
昭和二十三年(1948年):別表神社
後白河上皇歌碑
こちらは昭和61年(1986年)に建てられた「後白河上皇歌碑」です。
新古今和歌集に収められた御製で「咲きにほふ 花の景色を 見るからに 神のこころそ そらにしらるる」とあります。 書は、秩父宮勢津子妃の筆です。
和泉式部祈願塔
こちらは、和泉式部祈願塔で、もともとは大斎原の旧社地にありました。
和泉式部が、熊野詣に伏拝の付近まで来たところ、急に月の障りとなってしまったため参拝を諦めて「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」と詠んだところ、 夢枕に立った熊野権現より「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」とのお告げがあり、そのおかげで参拝することができたというお話が残っています。
裏鳥居
裏参道の鳥居です。中辺路から祓殿王子脇を通って熊野本宮に入る際には、本殿の裏側にあるこちらの鳥居から入ってくることになります。すぐ近くに駐車場がありますので、石段を上るのが難しい方は、こちらから参拝なさるとよいのではないでしょうか。
社務所
社務所の入口には「熊野山」との扁額が掲げられていますが、神仏一体となり信仰を集めていた頃の香りが感じ取れます。
神饌所
拝殿に向って左手にある銅板葺きの神饌所は、日々の供物を整えるための建物で、昭和五年(1930年)に、当時の内務省神社局の設 計で建てられました。
八咫烏ポスト
社務所前の多羅葉の木の下に、黒色の八咫烏ポストがあります。多羅葉の木は、昔はその葉を紙代わりにして文字を書いていたことから、「葉書」の語源となった植物です。社務所では、葉書として投函可能な「八咫烏ポスト絵馬」が頒布されています。八咫烏ポストから手紙を出す場合に限り、社務所で専用スタンプを押して頂けます。。
◆八咫烏
熊野本宮大社では、八咫烏は主祭神・家津美御子大神(素盞鳴尊)の眷属とされていますが、一般的には、初代・神武天皇の東征に際し、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)によって遣わされ、九州より大和国・橿原まで天皇を先導し「導きの神」として信仰されてきました。
八咫烏の「八咫」とは大きく広いという意味で、太陽の化身とされていますが、中国では漢の時代、ほぼ同じキャラクタが「金烏」と呼ばれていました。日本でもキトラ塚古墳の壁画に描かれるなど極めて古くからモチーフとして登場しています。
蹴鞠名人・藤原成道は、蹴鞠上達のために五十回以上も熊野詣をして、名技「うしろまり」を奉納したということですが、ボールをゴールに導いてもらうという願いを込め、日本サッカー協会のキャラクタには八咫烏が採用されています。
なお、八咫烏は神話上の存在というだけではなく、天皇家をお守りする集団としても実在しており、三重県津市香良洲(からす)町などは、そうした一族が代々住み続ける地として知られています。
瑞鳳殿
こちらが平成26年(2014年)に再建された瑞鳳殿です。 旧瑞鳳殿は平成23年(2011年)の台風で被災しましたが、現在の瑞鳳殿は、過去の水害時の水位を踏まえて高床構造を採用した鉄筋コンクリートの堅牢な建物で、参拝者休憩所、氏子の祭事・直会の場、研修者用寄宿舎の三つの役割を担っています。
産田社(うぶたしゃ)
産田社は、熊野本宮から大斎原に向う参道の曲がり角に鎮座します。黄泉の国から伊邪那岐命を追いかけた伊邪那美命の荒御魂がお祀りされ、 伊邪那美命の和魂をお祀りする第一殿とは対になっています。
大斎原(おおゆのはら)
熊野本宮大社の旧社地で、日本一の大鳥居がひと際目を引く大斎原(おおゆのはら)は、熊野川・音無川・岩田川の合流点にあります。この地は、千年の時を越えて数多の参拝者が目指した魂の生まれ変わる聖地です。
第十代崇神天皇の御代に中洲の櫟(いちい)の巨木に、三体の月(空飛ぶ円盤???)が降臨し「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ。」と「天火明命(あめのほあかりのみこと)」の子孫「熊野連(くまののむらじ)」に神勅を下したことから、大斎原に社殿が建てられたのが三所権現(熊野本宮大社)の始まりとされています。明治の大水害の前は、約1万1千坪の壮大な境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台などが備わっていました。 なお「熊野連」すなわち熊野国造家(初代・大阿刀足尼)は物部氏に繋がる一族で、その後橘氏、さらに和田氏を名乗りながら、明治期に至るまで代々禰宜を務めてきました。
下図は幕末に編集された紀伊國名所図会に収録されている大斎原の旧社殿の絵図です。赤い実線で囲まれている建物はそのまま現在の熊野本宮の社地に移されています。赤い点線で囲まれた建物は、明治二十二年(1889年)の大水害で失われ、別の形で今に続いています。
旧・二三ノ宮・・・・現・熊野本宮第一殿及び第二殿として移築
旧・一ノ宮・・・・・現・熊野本宮第三殿として移築
旧・若宮・・・・・・現・熊野本宮第四殿として移築
旧・中四社/下四社・・現・大斎原の西の石祠に改祀
旧・八百万神社・・・現・熊野本宮満山社に改祀
旧・音無社/地主社・・現・大斎原の東の石祠に改祀
旧・泉式ブ塔・・・・現・熊野本宮内の和泉式部祈願塔として移築
旧・東御門・・・・・現・熊野本宮神門として移築
旧・礼殿・・・・・・現・熊野本宮黎明殿に相当
大斎原大鳥居
入口には、高さ約34m、幅約42mの日本一の巨大鳥居がそびえます。平成十二年(2000年)に建てられたものです。
大斎原参道
杉並木が続くこちらの参道の右手に二基の石祠が祀られています。参道入口に和歌山では至る所に見られる世界遺産の登録記念碑が置かれています。
大斎原旧社地の石祠
参道から大斎原旧社地には、かつて東御門があった場所あたりから入っていきます。今は一面の草原です。
この日は、新興宗教・阿含宗の行事があって石祠前にテントが張られています。
二基並ぶ石祠は、明治24年(1891年)に建てられたもので、向かって左側・西の石祠に、旧「中四社」及び旧「下四社」の御祭神が鎮座します。また、右側・東の石祠には、旧境内摂末社が祀られています。
各々の御祭神は以下の通り。
【西の石祠】
◎中四社
禅児宮・・・忍穂耳命(おしほのみみのみこと)
聖宮・・・瓊々杵尊(ににぎのみこと)
児(ちごの)宮・・・彦穂々出見命(ひこほほでみのみこと)
子守宮・・・鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
◎下四社
一万宮十万宮・・・軻遇突智命(かぐつちのみこと)
米持金剛・・・埴山姫命(はにやまひめのみこと)
飛行夜叉・・・弥都波能売命(みづはのめのみこと)
勧請十五所・・・稚産霊命(わくむすびのみこと)
【東の石祠】
八咫烏神社・・・武角見命(たけつぬみのみこと)
音無天神社・・・少彦名命(すくなひこなのみこと)
高倉下神社・・・高倉下命(たかくらじのみこと)
穂屋姫命(ほやひめのみこと)
海(わだつみ)神社・・・底津綿津見命(そこつわだつみのみこと)
中津綿津見命(なかつわだつみのみこと)
上津綿津見命(かみつわだつみのみこと)
一遍上人神勅名号碑
時宗の開祖として鎌倉期に活躍した一遍上人は、熊野本宮に参じて熊野権現(本地仏:阿弥陀如来)のお告げを受け「我生きながら成仏せり」と 開眼しました。この碑は昭和46年(1971年)にこの開眼を供養するため建てられたもので「南無阿弥陀仏」と彫られています(題字の原本は一遍上人生誕の地である伊予・松山の宝厳寺所蔵)。熊野本宮では、一遍入寂の月命日である毎月23日に一遍上人月例祭が斎行されています。
数多おられる高僧・名僧を差し置いて、宗派としてはマイナーな時宗の開祖・一遍上人が、このように熊野本宮で特別の扱いを受けているのには理由があります。実は、時宗の念仏聖には、室町時代に熊野の勧進権を独占しつつ、熊野信仰の大衆化を勧めることで熊野本宮に隆盛をもたらした大功があり、熊野三山において相応の発言権を有していたことが大きいと思われます。
真名井社
熊野本宮大社の末社で、御祭神は天村雲命(あめのむらくものみこと)です。 毎年1月7日の八咫烏神事では、新年の初水をここから汲み上げるなど、大切な役割を担っています。私が熊野本宮に参拝した折には、がけ崩れのため真名井社にお参りすることは叶いませんでした。
熊野牛王神符
歴史小説好きの方にはお馴染みの「熊野牛王神符(牛王宝印)」は、独特のカラス文字で書かれたご神符で、「オカラスさん」とも呼ばれています。熊野三山それぞれにデザインの異なるご神符があり、熊野本宮大社のご神符には八十八羽のカラスが描かれているそうです。ネットで検索しますと「熊野山宝印」と書かれているそうですが、素人にはかろうじて「熊野山」とは読めるものの「宝」は少し怪しく「印」とはとても読めません。
熊野牛王神符は、厄除けのご神符となる他、誓約書や起請文の用紙としても利用されていました。約束を違えると八十八羽のカラスのうちの一羽が死に、約束を違えた本人も地獄に落ちると云われています。婚約の誓紙に使ってしまうと、絶対に離婚できなくなりますのでご注意ください。
なお、熊野本宮では毎年1月7日に牛王神符刷り始めの神事「 八咫烏神事」が斎行されています。
ご朱印
熊野本宮大社で頂いた四種のご朱印をご紹介します。まずこちらが熊野本宮大社のご朱印です。
あと三種のご朱印は「大斎原」「産田社」「真名井社」です。何れも書置きを頂戴しました。
祭礼と行事
元旦 | 歳旦祭 |
元旦 | 熊野本宮大社開寅祭 |
1月2日 | 八咫烏交通安全祈願祭 |
1月3日 | 元始祭 |
1月7日 | 八咫烏神事 |
1月14日・4月14日 | 船玉祭 |
1月15日 | お粥神事 |
2月節分の日 | 節分祭 |
2月節分の日 | 追儺式 |
2月17日 | 祈年祭 |
4月第1日曜日 | 木苗祭 |
4月上旬 | 新茶祭 |
4月13日 | 湯登神事 |
4月13日 | 宮渡神事 |
4月14日 | 産田社例祭 |
4月15日 | 本殿祭 |
4月15日 | 渡御祭 |
5月16日 | 古城梅祭 |
6月6日 | 梅の日記念式典 |
6月30日 | 夏越大祓式 |
8月15日 | 精霊萬燈祭 |
9月下旬 | 講社大祭 |
9月下旬 | 献詠披講式 |
10月第4土曜日 | 献湯祭 |
11月23日 | 新穀感謝祭 |
12月10日 | 御竈木神事 |
毎日 | 日供養 |
毎月1日 | 月首祭 |
毎月15日 | 月次祭 |
毎月23日 | 一遍上人月例祭 |
アクセス
住所 | 〒647-1731 和歌山県田辺市本宮町本宮 |
電話 | Tel:0735-42-0009 |
URL | https://www.hongutaisha.jp/ |
【公共交通機関】
JRきのくに線・紀伊田辺駅から、龍神バス・本宮線にて田辺市本宮町に至る。
JRきのくに線・新宮駅から、熊野交通バス・奈良交通バス・明光バスにて田辺市本宮町に至る。
【車】
阪和自動車道・海南湯浅道路・湯浅御坊道路・南紀田辺ICで下りて国道42号線を南下。田辺市街経由で富田町朝来交差点より国道311号線に入り田辺市本宮町に至る。無料駐車場有り。
最後までご覧いただきありがとうございました。鎌倉近辺の記事と交互にはなりますが、順次「熊野三山」関係の記事をアップさせて頂きます。
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