横須賀・東漸寺◆境内散歩~日金地蔵尊

横須賀・東漸寺◆境内散歩~日金地蔵尊

 「東漸寺」という名のお寺は、意外とたくさんあるのをご存じでしょうか?今回ご案内する横須賀・ 東漸寺の周辺でも、鎌倉・腰越には龍口寺輪番八ヶ寺の一つ龍口山・東漸寺(日蓮宗)、横浜・杉田には霊桐山・東漸寺(臨済宗)、横浜市内だけでもさらに三ケ寺(中区・鶴見区・都筑区)あります。「東漸 」というのは、中国系の仏教語で、大乗仏教がインドから次第に東の方に伝播していく様を表す言葉です。仏教の東の終着点である日本の寺院にふさわしいネーミングですので国内各地に点在しますが、日本仏教の中心地である京都・奈良から見てさらに東方に位置する関東に特に多い寺名です。
 横須賀市武にある松得山長嶋院東漸寺は、開山を性真和尚とし、源頼朝の石橋山挙兵に応じ衣笠城で奮戦するも討死した三浦大介義明の五男・義秀を開基とする浄土宗のお寺(鎌倉・光明寺末)です。仁治元年(1240年)に義秀は、仏門に入り、その邸宅跡に寺を建立し、正室の法名「東漸院信誉仰秋」より東漸寺と名付けたそうです。ご本尊の阿弥陀如来に向って右手には日金地蔵が祀られ、鎌倉二十四地蔵尊霊場の中で唯一鎌倉市外に位置する札所となっています。

なお東漸寺のご由緒、ご朱印、年中行事、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください 。
⇒東漸寺へ

◆開基・三浦義秀について
 三浦義秀の父・三浦義明は、三浦大介を称して三浦半島一帯に大きな勢力を持っていましたが、治承合戦の折、衣笠城に籠り敗死してしまいます。しかしその嫡流は次男の義澄に引き継がれ鎌倉幕府に重きをなし、さらにその支流は日本全国に広がって三浦氏は日本史にその名を刻む名族となっています。
 義秀は義明の五男として生まれ、後に長嶋氏を名乗ったことから東漸寺では「長嶋殿」と尊称されていますが、長嶋姓は今も三浦市南下浦あたりに多い苗字となっています。
、  実は、三浦義明の五男とされる人物はもう一人いて、三浦義季と云い長井氏を名乗っています。治承合戦もしくはそれより前に三浦の地を退去して下野国に赴き、足利尊氏のご先祖にあたる源氏の名族・足利義兼の配下となり足利荘・樺崎の名族・長氏のあとを継いだとのことで、足利市樺崎にある光得寺の過去帳では元久元年(1204年)没となっています。
 義季と義秀は共に三浦義明の五男という記録が残されており、「季」と「秀」は誤記しやすく墨筆では見分けのつきにくい文字でもあることから同一人物として扱われるのが一般的ですが、義季は長井氏、義秀は長嶋氏を名乗っている上、世代も事績も異なっていることから両名は三浦一族中の別人だと考えた方が自然です。
 特に、世代に着目しますと、義季が義明の子供世代として違和感のない没年(1204年)であるのに対して、義秀は1240年に東漸寺を創建していることからも明らかなように、義明の子ではなく孫・ひ孫の世代に属しています。義明の孫の義村(義明の次男・義澄の子)ですら1239年には没している訳ですから、義秀が三浦義明の五男に当たらないことは間違いなさそうです。
 

東漸寺の魅力

◎源頼朝ゆかりの鎌倉・旧松源寺より伝わる鎌倉二十四地蔵尊のひとつ「日金地蔵」

◎鎌倉武士の屋敷跡らしく攻むるに難い高台の見晴らしの良い境内

◎鎌倉市内の観光寺院の慌ただしさから一歩抜け出した地元に根付く落ち着いた佇まい

山門下石段前

三崎街道の北側を登る山門下の参道石段前はこんな感じ。

石段に向って右手の赤みがかった御影石の寺名碑には浄土宗松得山東漸寺とあります。平成20年(2009年)に浄土宗の宗祖・法然上人の800年遠忌を記念して建立されたものです。

石段に向って左手に以前からある寺名碑は、昭和7年(1932年)の石段改築に際して建てられたものです。当時のご住職の法名「運誉成俊」が側面に刻まれています。

こちらは六地蔵尊です。七体ある中央の像は、三界萬霊地蔵尊で、ここでは別格扱いとなっています。六地蔵に七体の仏様がいらっしゃる場合の中央の像は、一般的には阿弥陀如来・釈迦如来・大日如来だったりします。このお堂は昭和61年(1976年)に寄進されたものです。

山門

石段を少し上がると山門があります。葺き替え前の大棟には「東漸寺」の寺号が記されておりました。

山号額には「松得山」とあります。芝・増上寺の75代法主・野上運海(誉号:竟譽)の筆によるものです。

軒の巴瓦には東漸寺の「東」の文字があしらわれています。隅棟の鬼面の鬼瓦も「東」の字を背負っています。

こちらは山門に向って左側の「水子観音」の石碑です。

参道石段

山門をくぐると平場があり、さらにその先の石段を上れば御本堂です。

石段に向って右側にある「南無阿弥陀仏」とある石碑は、大乗妙典六十六部供養塔です。

左手にも大乗妙典六十六部供養塔があるのですが、こちらは何故か正面・側面の文字の一部が故意に削り取られています。

夏の日に石段の途中から見上げますと青空と御本堂の黒瓦のコントラストがくっきり。

手水鉢

石段を上がりきると左手に、今は使われていない手水鉢があります。

本堂

こちらが御本堂です。御本堂に上がりますと正面にはご本尊の阿弥陀如来がおわし、見上げたところに開基・三浦義季を指す「長嶋殿」の扁額が掲げられています。また御本堂右奥には、「日金山」の扁額の下に鎌倉二十四地蔵尊の第十九番札所本尊の「日金地蔵尊」が安置されています。

御本堂正面の扁額「東漸教林」の揮毫は「三縁山大僧正〇誉」とありますが、肝心の誉号の一文字が判読できませんでした。三縁山は芝・増上寺の山号です。

向背にある紅梁の木鼻は青と白に彩色されています。

本堂右手前からの写真です。

大棟の瓦には「松得山」の文字が浮かびます。

こちらは鬼瓦。

降棟の飾り瓦は、こんな感じ。

お彼岸には、沢山の檀家さんがお参りに見えられます。

◆日金地蔵尊について
日金地蔵尊は、鎌倉二十四地蔵尊霊場第十九番札所本尊で、唯一鎌倉市外に安置されているご本尊です。伊豆に流されていた源頼朝が源氏の再興を祈願した日金山東光寺本尊の銅造延命地蔵菩薩像(通称:日金地蔵)を模したもので、もともと鎌倉雪の下の日金地蔵堂(後の日金山松源寺)に祀られておりましたが、明治期に松源寺が廃寺となって以降、長谷寺等を経て昭和初期に東漸寺に安置され現在に至っています。岩上に半跏に座した寄木造・玉眼の地蔵尊は、右手に錫杖、左手に宝珠をお持ちで、ほぼ人と同じサイズです。 当初の地蔵尊像は運慶作と云われておりましたが、東漸寺に現存する日金地蔵尊は、胎内墨書銘から寛正三年(1462年)仏師宗円の作であることが判明しています。昭和45年(1970年)には横須賀市重要文化財に指定されています。

横須賀市にリンク

鐘楼

こちらは建てられたばかりの鐘楼で、現在の鐘は昭和45年に越後・柏崎の鋳物師・原定衛により制作されたものです。29代・誓蓮社願誉謄海の代、明治23年(1890年)に造られた以前の鐘は昭和19年に戦時供出されています。

水子観音

東漸寺は、水子供養に力を入れていらっしゃるようです。「われはいま佛のみことなりぬれば慈悲のふかさにだれもうらまず」の歌が刻まれた場所が、境内二カ所にありました。やむにやまれぬ事情からその手に抱くことができなかった水子への惜念を捨てきれないまま未だ浮世に漂い続ける母親への、気づきのヒントでしょうか。

合掌廟

こちらは合葬墓です。

お地蔵様の祠

小さなお地蔵さまが、数体祀られています。

境内整備記念碑

昭和46年(1971年)に本堂・山門等を改修した際の寄進者を記した記念碑です。この前年には日金地蔵尊像が横須賀市の重要文化財に指定されています。

石造五重塔

蘇鉄

椿
水仙

稲荷社

地蔵菩薩像

地蔵菩薩が刻まれた石碑で、本堂右わきにあります。台座には「総講中」とありますので、日金地蔵尊を信仰する方々により建立されたものでしょうか。地蔵菩薩は、〇〇童子といった眷属を従えていらっしゃることがありますが、この石碑に刻まれている脇侍は何か菩薩様のような風貌をお持ちです。この脇の道を上っていくと願海上人のお墓と「願海上人行実」との古碑が建っています。

動物霊堂

境内には三カ所、動物霊をお祀りする墓碑がありました。 家族同様に、共に時を過ごしたペットの霊をお祀りするニーズも年を追う毎に高まっているようです。

寺務所

ご本堂に向って左手にある立派な建物(平成14年定礎)が寺務所となっており、ご朱印はこちらでいただけます。

東漸寺会館

平成5年に建てられた葬儀式場で、席数は70席ほどだそうです。

東漸寺東門

参拝者用の駐車場に続く東門です。

最後までご覧いただきありがとうございました。今回は、鎌倉二十四地蔵尊霊場の流れで、横須賀・武の東漸寺をご紹介しましたが、三浦半島には鎌倉幕府の中核を担った三浦氏一門の歴史を刻む寺社が多く残されておりますので、これからも折を見て記事にして参りたいと思います。