鎌倉・一条恵観山荘~紅葉の頃(2020年)~

鎌倉・一条恵観山荘~紅葉の頃(2020年)~

鎌倉・浄明寺にある一条恵観山荘は、後陽成天皇の第九皇子として生まれ摂政・関白にまで上り詰めた一条昭良が出家した後、正保3年(1646年)頃、洛北・西賀茂に 造営した広大な別邸・西賀茂山荘の一部で、母屋と渡り廊下で繋がった「茶屋」と呼ばれる離れ座敷でした。昭良の没後は、 昭良の 次男・冬基が興した醍醐家(家格:清華家)に代々受け継がれてきましたが、終戦後の経済的理由からゴルフ場開発のため取り壊されることになってしまいました。そうした事情もあって茶室の建物と庭園の造作一式を茶道宗徧流家元・山田宗囲が引き取る運びとなり、昭和34年(1959年)に現代数寄屋造で知られる建築家・堀口捨巳の監修により鎌倉・浄明寺の山田宗囲邸内に移築されました。なお、昭良の法名「恵観」を冠して広く一般に「旧一条恵観山荘」と呼ばれるようになったのはこの頃のことで、昭和38年(1963年)に国の重要文化財に指定された際も「旧一条恵観山荘」の名称で登録されていますが、醍醐家が保有していた頃より正式には「止観亭」と呼ばれていました。さらに昭和62年(1987年)には同じ浄明寺地区内の現在地に修理・移築され、平成29年(2017年)からは敷地内に仁居棟・江月庵等を新築・整備して一般公開されています。

◆一条恵観
後陽成天皇の第九皇子として生を受けましたが、幼くして五摂家の一つ一条家の養子に迎えられ、最初は兼遐(かねとお)と、後に摂政・関白にまで上り詰め昭良(あきよし)と、出家後に知徳院恵観と名乗りました。なお恵観は、修学院離宮を造営した後水尾天皇の実弟、桂離宮を造営した八条宮智仁親王の甥にあたり、寛永朝廷文化を象徴する「三山荘」を造営したお三方は、奇しくもごく近い御血筋であった訳です。また恵観は、優美で繊細な茶風で知られlる金森宗和の薫陶を受け、「茶関白」と呼ばれるほど茶道に通じ、当時の都における茶の湯サロンのコアメンバーの一人でもあります。

敷地内見取図

正門付近

浄明寺バス停を降りて、朝比奈方面に2~3分歩いたところに正門があります。

前庭

正門を入ったところの前庭にも紅葉と赤い野点傘が見えます。

幽軒

正面に「恵観」の扁額が掲げられた 「幽軒」を潜ると幽玄の別世界が広がります。右手に見えるのは入場券売り場です。

インターネットや電話の他、入場券売り場でも建物見学の予約ができ、このような整理券が渡されます。

幽軒に入って、左手のベンチ上部には「幽軒」の扁額があります。

中庭

山荘本体とはまた違ったモダン数寄屋造の「幽軒」「仁居棟」と両者をつなぐ渡り廊下に囲まれた「中庭」に紅葉が映えます。これら一連の建物は、 堀口捨巳の弟子筋の早川正夫建築設計事務所の手によるものです。

仁居棟

茶席「時雨席」、カフェ「楊梅亭」、披露宴や会議・セミナーなどで利用できる応接室など山荘に付帯した様々な部屋が「仁居棟」内に設えられています。

建物脇の蹲踞(つくばい)は花手水に飾られています。こちらは石灯篭の礎石を利用したもののようです。

御幸門

こちらは享保十四年(1729年)、霊元天皇が洛北・西賀茂山荘に御行幸の折にくぐられた門で、山荘と共に西賀茂から鎌倉に移築されたものです。この時の御製「野へ遠くゆけとまたれて朝日蔭にほへる空の峯のひさしき」が残されており、楊梅(やまもも)の実を好んでおられた上皇は、楊梅の木を見るのを楽しみにしていらっしゃいました。門に続く通路には真黒石が敷き詰められ、門から内側は守山石が敷かれています。

御幸門表側

柱や梁には槇の丸太をそのまま使用しています。山荘と同じく竹の化粧垂木と葭張りの屋根裏が見えます。

御幸門裏手

一条恵観山荘

御幸門を抜けた正面が「一条恵観山荘」です。三十坪の木造茅葺入母屋造りで、昭和34年の鎌倉への移築に際しては西向きに建てられていましたが、現在地への再移転に伴い京都・西賀茂山荘時代と同じ南向きに復しました。また、現在地への移転に際しては、堀口捨巳の弟子筋の早川正夫建築設計事務所が設計管理を行う際に、移築の基本方針として、第一に後設の渡り廊下等を除き、構造形式・間取りの変更は行わないこと、第二にすべての部材をいったん解体し、補修の上、旧規の通り組み上げること、第三に部材は継木、埋木、合成樹脂補強等で補修・再利用し、再用に堪えない部材のみ同材種・同工法で取り換えること、第四に屋根は山茅に統一することを掲げました。現在は、決められた見学期間であれば、日時を事前予約することで内部を案内して頂けます。一見しただけでは、よくある古民家のようにしか見えませんが、説明を拝聴しながら子細に目を凝らすと様々な「こだわり」が伺えます。

間取り図

  

二重屋根

茅葺の大屋根と瓦葺の軒先が見えますが、実は大屋根の下に杮葺(こけらぶき)の中屋根が隠れています。

軒下から上を見上げると竹の化粧垂木の上に葭が乗っているのが見えます。

縁側は、昭和62年(1987年) 以降に張り替えられたものです。

入口の土間付近の写真です。

玄関

十両

守山石の石畳をたどり中に入ると土間となっています。現在はそのまま正面の木の踏み台を上がって「南庇中の間」に進むようになっていますが、もとは左側の竹縁を上がってから「南庇中の間」の「人形回し」の杉戸絵の前に出るようになっていました。なお、この玄関は長らく板張りになっていたのですが、昭和34年(1959年)の移転に際して、建築当初の竹縁を復元しました。

南庇中の間

土間から上がったその部屋が「南庇中の間」で、土間が設置されていない時代はここが玄関とされていました。この部屋の東西面はそれぞれ杉戸で仕切られており、東の杉戸には「松」が、西の杉戸には「人形回し」が描かれています。中でも「人形回し」の杉戸絵は、一人遣いの人形を操る人形回しの様を描いており、文楽成立前の古い形態の人形浄瑠璃を知る上で貴重なものであることから、国の登録有形文化財に指定されています。人形浄瑠璃の原作者として有名な近松門左衛門は、若いころ一条家に仕えていたことから、この杉戸絵を目にしたことがあったに違いありません。

庇の間の天井は、このように葭張りとなっています。

東の小間

「東の小間」は、「東四畳半の間」から「鎖の間」に続く山荘中央の五つの座敷の一つで、玄関にあたる「東庇中の間」と隣接しており、「東四畳半の間」との間は四枚の板戸で仕切られています。造立当初の天井は「鎖の間」と同じ、椹(さわら)の「野根板」の網代組でしたが、醍醐家に移った明和七年(1770年)頃に現在の竹の網代組になりました。

宗和好みの棚の間より東の小間を撮影

東四畳半の間

「東四畳半の間」からは「鎖の間」まで一直線に大小5つの座敷が並んでいます。

「東四畳半の間」は、内部が三つに仕切られ上部が狭くなり天井裏に続く「長炉」のある「北庇炉の間」と隣り合わせで、部屋全体を暖めるよう造られているため「焚火の間」とも云われていました。

「長炉」の低い部分は引き違い戸に、高い部分は袋棚になっており、袋棚の中には茶釜等を格納し保温できるようになっていました。

「東四畳半の間」の天井は杉板で、竿縁には製材しない原木の形を止めた木材が使用され、四隅には赤松・檜・椎・桜と異なる木で作られた四本の柱が立てられるなど、雑木林をイメージした野趣に富む造作となっています。

なお部屋の中央には炉が切られていますが、創建当初は存在せず、茶室としては使用されていた訳ではありませんでした。炉の縁の木組みの絵は「人形回しの杉戸」をモチーフに描かれたもので、おそらく鎌倉移転後のものだと思われます。

なお文献によりますと、「北庇炉の間」に続く長炉に向かって右側の襖は、昔はきらびやかに金泥金砂子の浅黄色の紙に扇面散らしが施されていたらしいのですが、京都・西賀茂にあったころは、母屋との渡り廊下が「北庇炉の間」及び「東四畳半の間」に繋がっており、こちらが正面の入り口となっていたためだと思われます。

北庇炉の間

「北庇炉の間」は、「長炉の間」「茶所」とも云い、湯を沸かすとともに料理を温めるための長炉がおかれ、隣の「東四畳半の間」と共用できるように配置されています。この炉の上には一時的に食器などをあたためておく袋棚があり、その隙間を煙出しがとおって、暖気が薄い網代天井に抜けるようになっています。冬場は常に湯を焚いて建物全体をあたためる役割も果たしていたようです。なお現在は「南庇中の間」と「南庇六畳の間」の間にある「人形回しの杉戸」ですが、京都・西賀茂山荘時代には、この「北庇炉の間」と母屋(本屋)をつなぐ渡り廊下の入り口に立てられていました。

宗和好みの棚の間

広さは「宗和好みの棚」を含めて三畳で、棚を載せている板の間の面積を引くと三畳に足りないことから「二畳大目敷」と表現されています。所謂「宗和好みの棚」は、茶を用意する茶の湯棚です。藍色と赤銅色の雲形に染めた「打雲紙 (うちぐもがみ)」と呼ばれる鳥子紙貼りの小襖が特徴的で、その引手は七宝入りの銅造りで、恵観好みと云われています。

◆金森宗和
本名を金森重近(かなもり しげちか)といい、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて活躍した大名家の元・嫡男であり宗和流茶道の祖でもあります。恵観との交流は深く、一条恵観山荘の造立にも関わりました。恵観が宗和に茶を所望したところ、柄杓の柄の長さが宗和の感性にそぐわなかったことから、別室で柄杓の柄を切りつめた上で、再びお茶を続けたという逸話が残っています。

我が国では、儀礼や祭、年中行事などの「非日常」を「ハレ」、普段の生活を「ケ」と表現します。この二階棚については、赤銅色の雲形が下になるように小襖をはめ込むことで「ハレ」を表現しおり、お客様を通す見学の日などは、下の写真のように赤銅色の雲形が下になっています。

また、この部屋の南側の壁の一部は、下地の竹格子を残して壁土が塗られておりません。これを「下地窓」と云い、朽ちかけた古家らしさを表現することで、鄙びた風情を醸し出します。

中の間

「中の間」は、山荘の中で一番広い部屋で、四方を襖と障子で囲まれ壁がない寝殿造の流れを汲む造作となっています。

「南庇六畳の間」より「中の間」を挟んで「北庇四条の間」を望む

東西北の三方の襖は引手が「の」の字になっているのが特徴的です。

また、南側には「竹の籠」と呼ばれる腰付紙障子がはめ込まれ、天井は竹網代となっています。

幅広の畳縁は、白と黒の絹織物でできた大紋高麗縁(だいもんこうらいべり)という最高級品で、親王・摂関・大臣クラスの屋敷で用いられます。下の写真では、左手(中の間)が大紋高麗縁で、右手(北庇四畳の間)が普通の畳縁となっています。

鎖の間

「鎖の間」は「御数寄屋」「かこいの間」とも呼ばれる茶室で、山荘内で最も格式の高い部屋です。四畳の小間で、草庵風の造りとなっていますが、 躙り口(にじりぐち)はなく、床の間は書院造サイズで小間にしては大ぶりな造作となるなど、近世の「侘び茶」が確立される以前の「大寄せ」「書院台子の茶」に連なる、古風な茶屋に近い特徴がみられます。茶立て畳の西側(下の写真の中央部分)は一間の壁で竹連子窓になっており、内に掛障子、外には掛戸が設えられています。畳の上に置かれた四角いタイルカーペットの部分が炉のあるべき場所ですが、現在は畳の下に隠されているようです。また棹縁を見ても釜を釣る蛭釘は見当たりません。

天井は椹(さわら)の野根板(のねいた)を編んだ網代組で一番左側の赤松の棹縁のみ二股、茶立て畳の直上は下り天井になっています。ほかの部屋の天井の網代は竹に置き換わっていますが、「鎖の間」だけは造立当初と同じ椹が使用されています。また東側(下の写真の右手)の土壁には風呂先窓風の下地窓が見えます。

床柱は椎木のしぼ入り丸太で、煤玉や柿渋、透き漆などを用い暗褐色風に色付されています。床框は真塗で、右手の脇壁に墨蹟窓が切られています。

床の間の掛け軸は、土佐光起の「兎と菊秋草」です。掛け軸裏手の大平壁には花活の中釘があるはずですが、掛け軸に隠れているようです。

北側と東側「中の間」との仕切りは、「中の間」と同じデザインの塗框白鳥子貼の襖ですが、唯一「にぐろめ銅」製の 引手が「月」の字の形をしています(同時代に造立された桂離宮の御幸御殿にも同じく「月」の字の引手があります)。 この「月」の字は、隣の「中の間」の「の」の字の引手と、雑木林に見立てて敢えて異なる種類の木材を 用いた「東四畳半の間」や「南庇六畳の間」の柱群とあわせて「月の林」を表現したものと云われています。「拾遺和歌集」の「雑(ぞう)」巻に「つきのはやしの召に入らねば・・・」とあり、「月の林」は「位高き客」=「月卿(げっけい)」達の意で用いられています。

なお、南側(「南庇六畳の間」側)には、「中の間」と同じく「竹の籠」の腰付紙障子が立てられています。

南庇六畳の間

畳を一列に六枚敷いた 「南庇六畳の間」は、障子一枚を隔てて南の庭園に面するとても開放的な縁座敷です。長六畳のこの部屋を囲む赤松・檜・椎・桜・杉と一本一本に異なる種類の木を用いた柱と、庭園の生きた木々が混然一体となり疑似的な雑木林の空間を演出しています。

なお障子の張り方としては、桟がない部分で敢えて紙を継ぎ、継ぎ目の陰影を見せる石垣張りという特殊な技法が使われています。下の写真をよく見ていただくとわかります。

庭に向かって左側の杉戸の「立花図」は、 一条恵観が華道家元・二代目池坊専好(いけのぼうせんこう)をわざわざ招いて、「松と鶏頭」「竹と菊」の花を生けさせ、それを絵師に描き取らせたものとされています。 実はこの杉戸は、玄関の「人形回しの杉戸」と同一の杉戸の表裏で、ここを開けると玄関に出ることができます。

右の杉戸には「松」、左の杉戸には「竹」が描かれていますが、実は「梅」も隠れておりまして、左の杉戸の引手横の金具が梅花にデザインされています。

北庇四畳の間

「中の間」の北側に位置する「北庇四畳の間」にも見事な杉戸絵があります。一見角の生えた牛のようにも見えてしまうのですが、鎌形の錨と綱の文様の黒地の着物を、伏籠で焚き染めているところを描いたものです。現在地への移転直後は、この絵は裏手の「北庇中の間」側に面していましたが、現在は見学ルートに乗せやすいように「北庇四畳の間」側に面しています。

北庇中の間

「北庇六畳の間」は六畳敷の北縁座敷で、栂榑板張り水屋が付属しています。京都からの移転前は台所になっていましたが、さらに前には土間と竹縁の時代もあったといいます。

最初の鎌倉移転場所

昭和34年(1959年)に一条恵観山荘が京都より移転してきた最初の場所は、金沢街道を浄明寺から杉本寺に向かう間にある広瀬橋を渡ったところで、現在は駐車場になっています。今の場所に再移転したのは、昭和62年(1987年) のことです。

広瀬橋
最初の移転場所

日本庭園

一条恵観山荘前の回遊式の日本庭園には、枯山水、四阿(あずまや)、滝、石塔などが、赤松や紅葉と共に配されています。中でも赤松は、山荘に近いものほど太くなっており、庭の奥行を演出しています。

こちらは、庭園中央の蹲踞(つくばい) 。

枯山水

石橋に止め石を配した枯山水も中々風情があります。

至る所に花手水が置かれています。

四阿(あずまや)

枯山水付近から石畳を辿った先には腰を下ろせる四阿(あずまや)もあります。

紅葉

庭園内の紅葉も緑・黄・赤と色とりどりで、とても鮮やかです。

山荘ミニチュア

一条恵観山荘のミニチュアもあったりして。

石塔・石仏

石塔や石仏など。

山荘の西側には瓦敷の小路も。

さえずりの滝

最近出来上がった「さえずりの滝」です。四阿の脇を楊梅亭に上る階段横にあります。

臨川門

楊梅亭と滑川の間に最近造られた「臨川門」をくぐるとベンチが置かれた内庭があります。

川床の岩がしっかりと露出した臨川門脇の滑川に、人が住み付く前の鎌倉の自然を感じます。

編笠門

江月庵の入り口の門で、重ね合わせた銅板葺の屋根がが編笠のようなふっくらとしたカーブを描いています。

江月庵

江月庵では、生垣に囲まれた内庭を眺めながら、抹茶をいただけます。

茶席「時雨」

茶席「時雨」は、坪庭に面した円窓が印象的です。こちらは、一般のお客様でもお借りすることもできます。

楊梅亭(やまももてい)

山荘敷地内にあるカフェで、お抹茶のセットの他、白玉あんみつのセットなども頂けます。今はコロナ対策のため広々と個室感覚で利用できました。臨川門あたりからだと、階段を上るとすぐです。

広いガラス窓越しに滑川や臨川門内の内庭が一望できます。

内部は数個の部屋に分かれており、私と連れは、一番小さな部屋に通され、個室感覚で利用させていただけました。

こちらは定番のお抹茶と主菓子です。

こちらは白玉あんみつです。霊元天皇がお好きだったことからお店の名にもなっている赤い楊梅(やまもも)が入っており、箸休めは越前名物の「はまな味噌(大豆・茄子・しその実・花糀)」です。お茶はほうじ茶でした。

アクセス

住所 〒248-0003 神奈川県 鎌倉市浄明寺5-1-10
電話・FAX Tel:0467-53-7900 Fax:-
URL https://ekan-sanso.jp/

最後までご覧いただきありがとうございました。いつか、こんな趣味の良い鄙びた家で落ち着いた日々を過ごせたら・・・。