白旗神社(しらはたじんじゃ)◆鶴岡八幡宮・境内散歩(その2)◆
- 2019.02.21
- 境内散歩
白旗神社(しらはたじんじゃ)は、 正治二年(1200年)に北条政子により創建された 鶴岡八幡宮の境内末社です。現在の社殿は八幡宮境内の北東・大臣山(だいじんやま)の麓にあり、御祭神は鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公と同三代将軍・源実朝公です。シックな黒漆塗の社殿は、鶴岡八幡宮の末社に限らず他の鎌倉の神社には見られないデザインで、独特の雰囲気を醸し出しています。毎年5月28日の「例祭」を始めとして「実朝祭」「文墨祭」等が、白旗神社の祭礼として執り行われています。
なお鶴岡八幡宮のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
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年中行事
白旗神社例祭(5月28日)
毎年5月28日に、御祭神の源頼朝公・源実朝公の神徳を称える例祭が執り行われます。新緑の気持ちの良い季節に多くの参拝客が訪れます。この日は、巫女二名による御神楽が奉納され、鶴岡八幡宮の宮司も参列者としてご出席です。
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実朝祭(8月9日)
鶴岡八幡宮の夏の風物詩・ぼんぼり祭りの開催期間中、源実朝公の誕生日8月9日に執り行われます。 文人将軍・源実朝公 の遺徳を偲び、俳句会や短歌会が催されます。
⇒記事参照「鶴岡八幡宮~実朝祭(2018年)~ぼんぼり祭り」
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文墨祭 (10月28日)
文墨祭が執り行われる10月28日は、御祭神・源実朝公が右大臣に任命された日に当たります。実朝公は鎌倉幕府の三代将軍であると共に、歌人としても名高く、家集「金槐和歌集」で有名です。この日は鎌倉在住の文人の皆さんも多く集まり、茶会・書展などが催されます。
⇒記事参照「鶴岡八幡宮・白旗神社~文墨祭(2018年)~」
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境内の様子
石鳥居
鶴岡八幡宮・東ノ鳥居から西ノ鳥居に抜ける流鏑馬馬場に面して、白旗神社参道の入り口に立つ白旗神社の鳥居は境内唯一の石鳥居で、西柱に「大正十年三月七日奉納」、東柱に「従六位 関平右衛門」の銘がありますが、「社務日誌」によれば、実際に造立・奉納されたのは大正12年(1923年)6月1日とのことです。
沓石は、こんな感じ。巨大な「一ノ鳥居」の沓石は、石を二個組み合わせていますが、白旗神社の石鳥居は、柱受けを丸く刳り抜いた石一個で、柱一本を支えています。
この石鳥居が奉納されるまで「白旗神社」の鳥居は、原木の樹皮を剥いだだけで製材されていない「白木鳥居」でした。
この鳥居の向かって右手には、元・柱石らしき石が置かれているのですが、これは白木鳥居だった頃の沓石なのかもしれません。
実は、この石鳥居は、造立された大正12年(1923年)6月1日 の僅か三か月後の9月1日に発生した関東大震災で被害を受け、現在の鳥居はその後修理されたものです。確かに沓石が少し新しいように見えますし、石材の継ぎ目にはセメントが補填されています。さらに石鳥居から流鏑馬馬場を挟んで南側(源氏池北側・鶴岡幼稚園東側)の空き地に、造立時に使用されていたと思われる笠木の石が二本置かれています。一本には「東京生命」の銘が、もう一本には「菅原通済」の銘があり、時代的にも整合性が取れます。
◆菅原通済
大正から第二次大戦後にかけて活躍した所謂フィクサーで、初代の土木工業協会会長に就任するなど日本の中枢で力を振るった方です。江ノ電の経営に携わった関係で鎌倉には縁が深く、大船モノレールの誘致、鎌倉山住宅地の開発、常盤山文庫の創立等でも知られています。
源実朝歌碑
石鳥居をくぐると、水路を挟んですぐ右側、鎌倉国宝館の手前に白旗神社の御祭神・源実朝公の円柱型の 歌碑があります。
山はさけ うみはあせなむ 世なりとも 君にふた心 われにあらめやも
実朝公生誕750年を記念して、当時大佛次郎氏が理事長を務められていた鎌倉文化連盟が昭和17年に 建立したものですが、この歌碑に使用されている石材は、関東大震災で倒壊した「ニノ鳥居」の西側の石柱だったもので、歌を刻んだ部分を平らに研磨しています。御祭神の歌碑ということもあるのでしょうか、手摺付の観賞台まで設えられていますね。
菅裸馬句碑
実朝公を詠んだ、俳人・菅裸馬(すが・らば)の句碑が、社殿に向かって左脇の木立の中にあります。
歌あはれ その人あはれ 実朝忌
裸馬は、本名・菅礼之助といい、古河財閥の幹部として主に鉱業界でご活躍の後、戦後は東京電力の会長をお務めになった方です。
参道
長方形の切石を敷き詰めた石畳の参道は、 源実朝歌碑を過ぎたすぐ先の小さな石橋を渡ると、鎌倉国宝館を右に見ながら社殿に向かい真っ直ぐに伸び、社殿の少し手前にある手水舎の横で三段ほど石段を上がります。
梅の頃、参道から見た社殿の屋根と鬼板
晩秋、鎌倉国宝館に続く赤橋と紅葉
手水舎
参道石段の右手に手水舎があり、手水鉢には澄んだ水がいつも湛えられています。
この手水鉢の足元を見ると、仏教的な香りのする蓮の花弁模様が彫られているのが判ります。実は、この石は、現在の鎌倉八幡宮の前身で明治初期に廃された 「鶴岡八幡宮寺」の「輪蔵(りんぞう)」で使用されていた石なのです。
「輪蔵」は今の鶴岡八幡宮・大石段下の向かって左側 、奉献酒樽前の広場にありました。破却前の 「輪蔵」の写真がイギリス人写真家
フェリーチェ・ベアト により撮影されていますので、ご紹介します。
「輪蔵」は経典を納めた経蔵の一種で、中央に回転式の大きな書棚があって、そこに経典の巻物を納める構造になっていました。鎌倉・長谷寺の「転輪蔵(経蔵)」が、この形態を取っていますので、これを参考にすれば解りやすいですね。
白旗神社の手水鉢の石は「輪蔵」 の回転式書棚の軸受石で、当時は上下逆に使用されていました(上の「長谷寺・転輪蔵」の写真でいうと下方の「毎月十八日に廻すことができます」という表示板裏側の石に相当)。
神仏分離令に従い明治三年に「輪蔵」 を破却した際に残されたこの軸受石を裏返して、水を貯めることができるよう裏側を鉢状に刳り抜いたのが、現在の白旗神社の手水鉢なのです。端が欠けて非対称型になっているのは、おそらく「輪蔵」 を破却した際、またはその後移動した際に割れた為でしょう(却って「味」が出てよかったかも知れません)。
社殿の様子
賽銭箱・石燈籠
社殿の手前には鉄製の賽銭箱が置かれています。古びて見えますが、意外と新しく、側面に「昭和五十二年八月吉日」とあります。
社殿の門の両脇に、石灯籠があります。
社殿全般
社殿は、連接した拝殿と本殿からなります。 社殿全体を撮影すると、こんな感じ。現在のように黒漆に塗られるようになったのは、明治三十年頃からで、本宮の西側にあった頃は、他の社殿と同じく朱塗りでした。
白旗神社は、本宮に向かって左手の宇佐神宮遥拝所あたりにあった「白旗社(御祭神:源頼朝公)」を現在の場所に 移築した上で、現在の丸山稲荷横の西坂(階段になっています)を下った右手付近にあった「柳営社(御祭神:源実朝公)」を合祀しつつ、明治二十一年(1888年)遷座したものです。なお、鶴岡八幡宮寺が廃されるまで、現在の白旗神社の場所には「薬師堂」が建っていました。「享保十七年・鶴岡八幡宮境内絵図」に見られる「白旗社」と 「柳営社 」の位置、および現在の白旗神社の位置を指し示すと、次の様になります。
「薬師堂」も、神仏分離令に従い明治三年に取り壊されていますが、破却前の姿が、輪蔵と同じくベアトの写真に残っています。大きく正面に写っているのは、同時期に破却された「大塔」で、「薬師堂」は左奥に見えている建物です。
遷座後の社殿の写真と絵が残されています。
社殿の入口の冠木門には、黒光りした漆塗りの門扉があり、祭礼の時以外は、閉じられています。
拝殿
本殿に接して建てられた拝殿には壁面は設けられておらず、四本の角柱で唐破風の屋根を支えています。 この四本の柱は鋳物でできており、鋳物の上に黒漆を塗るという珍しい技法が使われています。
拝殿の両脇には、防火用水を貯める鉄製の「水瓶(すいびょう)」が置かれています。
本殿
本殿です。黒い扉に金の金具が光ります。
正中には薩摩藩国父・島津久光筆「武衛殿」の扁額が掲げられています。
その他工事報告書の写真です。一般参拝者は、こうした角度から撮影できないので付けておきます。
最後までご覧いただきありがとうございました。一般に朱一色になりがちな社殿の中で、 白旗神社の漆黒に輝く社殿はひと際目を引きます。鶴岡八幡宮のセンターラインから少し離れた場所に鎮座されているので目立ちませんが、是非参拝していただきたい神社です。
ギャラリー
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