日光東照宮(前篇)~紅葉の日光遠征記2018(その8)~

日光東照宮(前篇)~紅葉の日光遠征記2018(その8)~

「紅葉の日光遠征記」第八回目の今回は、シリーズ最後となる「日光東照宮」をご紹介します(なおボリュームがありますので、前・中・後篇に分けさせてください)。これまでご紹介したとおり、日光山は東照宮が建立される以前から東日本一の霊場として高い地位を占めていたわけですが、東照宮を通じて徳川将軍家と結びつくことにより、以降200年以上に亘り最盛期を迎えることになります。祭神は、ご存じの通り東照大権現・徳川家康公で、創建は駿河国・久能山東照宮より改葬された元和三年(1617年)となります。また東照大権現の本地仏は東方瑠璃光如来(=薬師如来)とされ本地堂に祀られています。

境内図

日光東照宮のサイトにリンクさせていただきます。

表参道

神橋から深沙王堂横の長坂を北西に登り、勝道上人像を左に折れ暫く歩くと、日光東照宮表参道の起点にたどり着きます。ここから東照宮方面を向くとはるか遠くに表門の赤色が見えます。

逆に一之鳥居から表参道を振り返ると、こんな感じです。

一之鳥居に向かって左側には、日光二荒山神社に向かって「下新道(したしんみち)」が続きます。

「下新道」を少し進んだ左手に「旧・日光東照宮宝物館」の建物があります。

現在の「日光東照宮宝物館」は、一之鳥居に向かって右側、この写真では右手木立の裏に見えます。徳川家康公没後400年式年大祭の記念事業として2014年に建てられたものです。

一之鳥居(石鳥居)

一之鳥居手前から開門前の表門まで見通せます。向かって右手前に葵の御紋が金色に光る「東照宮」の社号標があります。

表参道の正面は著名な戦国武将・黒田長政が奉納した「一之鳥居」(重要文化財)です。長政は、この石を福岡から運んで造営しました。高さは9mを超え日本三大石鳥居に数えられるほどの規模で、日光で「石鳥居」と云えばこの大鳥居を指します。

◆日本三大石鳥居◆
・京都・八坂神社の石鳥居(高さ9.5m)
・鎌倉・鶴岡八幡宮の一の鳥居(高さ8.5m)
・日光東照宮の石鳥居(高さ9.2m)

五重塔

「石鳥居」をくぐって左手には「五重塔」(重要文化財)が聳えます。慶安三年(1650年)に若狭国小浜藩主・酒井忠勝の寄進により建立されましたが、文化十二年(1815年)に落雷により焼失したため、文政元年(1818年)に忠勝の子孫の忠進(ただゆき)が再建しました。十万石を超える大藩とはいえ大変な出費だったと思います。「五重塔」には直径60cmの金色の「心柱(しんばしら)」がありますが、この柱は塔を支えているのではなく、逆に四層目から鎖でぶら下がっております。これは「心柱制振」という免震構造の一種で「東京スカイツリー」にも同じ原理が使われているそうです。すごいですね。

中には拝観料300円で入れます。受付は五重塔前にあります。

表門

東照宮の境内に入るには、受付でチケットを購入する必要があります。私は先に日光東照宮宝物館に入館した際にセット券を購入していましたので、それで入場しました。

「表門」(重要文化財)は元和三年(1636年)の徳川家光公による「寛永の大造替」の折に建てられました。朱塗の軒下の組物は二手先ですが、丁寧に彩色された彫物がならんでいます。

「表門」に向かって右に阿形、左に吽形の仁王様、裏手には同じく阿形・吽形の彩色の狛犬が安置されています。これでは「仁王門」と云ってもよい全くの仏教様式です。実は「神仏分離令」に従い、仁王様は一旦輪王寺・大猷院にお移りでしたが、明治時代に再び現在の場所にお戻りになりました。「山王一実神道」に基き開創された東照宮としては、当然の落ち着き場所と云えます。



「表門」の手前右手には「表番所」があります。今は、お札やお守りを扱っている売店ですが、おそらく江戸時代には、日光奉行配下の番方が詰めていたのでしょう。

神厩(しんきゅう)

表門を入ってすぐ左手に栃木県の名木百選にも選ばれた「こうやまき」の大木が聳えています。

さらにその隣が「神厩」です。「表門」と同じく「寛永の大造替」で造立されました。厩舎ということもあり他の建物のようにきらびやかに彩色されてはおりませんが、見ざる・言わざる・聞かざるの「三猿(さんざる)」を始めとした神猿の彫刻が施され重要文化財に指定されています。

「神厩」では毎朝、代々白馬が神馬として奉仕しています。現在の神馬は二頭おり、各々ニュージーランドおよびJRAから寄贈されたものです。初代は、家康公が関ヶ原の合戦に共に臨んだ名馬「白石」で、滝尾神社に向かう滝尾道にある「神馬の碑」に祀られています。

「三猿(さんざる)」は、こんな感じ。猿は馬の病気を治すとの説話から「神厩」には計16匹の猿が彫られています。

「神厩」の隣には「内番所」があります。「表番所」と同じく現在はお札やお守りを扱っておりますが、なんと重要文化財に指定されています。このように豪勢な売店は、日本中を探してもここだけではないでしょうか?

三神庫

「表門」の正面から右にかけては、校倉造(あぜくらづくり)の「上神庫(かみじんこ)」「中神庫(なかじんこ)」「下神庫(しもじんこ)」が並んでおり、併せて「三神庫」と呼ばれています。皆、「寛永の大造替」で造立されたもので、重要文化財に指定されています。
「中神庫」と「下神庫」には、日光東照宮の例大祭や神輿渡御祭で使用される膨大な数の道具類(馬具・甲冑等)が保管されています。

上神庫は、切妻に彫られた狩野探幽下絵の「想像の象」で有名です。庫の中には「御神宝(ごしんぽう)」が収納されています。

御水屋(おみずや)

御影石の十二柱で支えられ組物も三手先のゴージャスな「御水屋(おみずや)」は、やはり「寛永の大造替」で建てられたもので、重要文化財に指定されています。デザインは陽明門と同じ白色をベースにしたもので、朱色・赤色をベースにした周囲の建物とは大分違ったイメージです。

中の「水盤」は、創建当初より存在しています。水は、サイフォンの原理を利用して、おそらく2km以上は離れている滝尾神社付近から引いてきているとのことです。

「御水屋」に向かって左側には、五重石塔と唐銅塔が立っています。

二之鳥居(唐銅鳥居)

重要文化財に指定される「二之鳥居(唐銅鳥居)」は、日本初の青銅製の鳥居で、これも家光公の寄進だそうです。

輪蔵

仏教のお経を格納する「経蔵」で、「輪蔵」の名称の由来となった回転式の巻物棚を発明した傳大士の親子の像が祀られています。高欄は金色、組物は三手先のカラフル塗装と相当に豪華な造りで、重要文化財に指定されています。
かつては輪王寺(=旧・満願寺)に属しており、文治元年(1185年)に宇都宮朝綱が寄進した「一切経(大蔵経)」全1456部6325巻が収納されていましたが、火災で焼失してしまいました。日光東照宮創建後「寛永の大造替」に再建され、現在は天海僧正が収集した経典が収められているそうです。こうした数百年に亘る複雑な経緯に加え、「神仏分離令」がその混乱に拍車をかける形で、日光東照宮境内にあるものの日光東照宮と輪王寺の何れに帰属するのか今なお係争中です。内部が公開されていないのも、それが原因でしょうか?

南蛮鉄燈籠

輪蔵の向かい側にある「南蛮鉄燈籠」(重要文化財)二基は、仙台藩・伊達政宗がポルトガルより輸入した鉄材で作成し奉納したもので、東照宮境内に他には鉄製の燈籠はありません。政宗のような六十二万石の大身でも、外様大名からの奉納燈籠は陽明門前の大石段下にしか設置を許されませんでした。

最後までご覧いただきありがとうございました。以下「中篇」に続きます。

ギャラリー

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