輪王寺・三仏堂付近~紅葉の日光遠征記2018(その4)~

輪王寺・三仏堂付近~紅葉の日光遠征記2018(その4)~

「紅葉の日光遠征記」第四回目の今回は、聖地・日光の「要」輪王寺の様子をご紹介します。既に触れて参りましたように、明治の廃仏毀釈とそれに伴う神仏分離令で「二社一寺」に分かれてしまった日光山ですが、もともとはそのような区別はなく、まさに政教・神仏相唱和する日本的霊性を体現した聖地でした。今回ご紹介する輪王寺(旧・満願寺)は、その日光山信仰の体系上の「要」であり、東照宮が造立される前の日光山そのものと云ってもよい存在です。
下表に、輪王寺を中心にした日光山の信仰の体系を簡単に整理してみました。

本地仏 千手観音  阿弥陀仏  馬頭観音
本地仏の祭祀地 輪王寺・三仏堂 輪王寺・三仏堂 輪王寺・三仏堂
対応する三山 男体山(二荒山) 女峰山 太郎山
対応する三所権現 新宮権現 滝尾権現 本宮権現
対応する垂迹神 大己貴命(おおなむちのみこと) 田心姫命(たごりひめのみこと) 味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)
各垂迹神の祭祀地 二荒山神社・本社 二荒山神社・別宮・滝尾神社 二荒山神社・別宮・本宮神社

仏教主導の聖地らしく、本地仏はしっかりと輪王寺・三仏堂で押さえた上で、三体の垂迹神を二荒山神社・本社、滝尾神社、本宮神社に振り分け、整合性のとれた構図になっています。その中で、仏教的には格上の阿弥陀如来様が、一歩引いて女峰山=本宮権現ラインに下がり、千手観音様が前面に出て男体山=新宮権現という日光山の主役に押し上げられているのは、中々に面白いところです。聖地・日光全体の御本尊と云える男体山をお祀りする二荒神社・中宮祠の神宮寺(=中禅寺)のご本尊が十一面千手観音様であることに配慮した聖地・日光の「大人の事情」が、仏教の教義に優先された結果かもしれません。

輪王寺の境内

もともと二社一寺全てが「輪王寺」だった訳ですが、現在は、大きく二つのエリアに分かれます。
一つは三仏堂・逍遥園・本坊とその周辺、もう一つは徳川家光公の廟である大猷院を中心とした常行堂・慈眼堂付近です。あとは散らばっており、東照宮の境内にある薬師堂(鳴龍)・輪蔵、滝尾方面にある開山堂、外山頂上の外山毘沙門天堂、男体山麓の中禅寺、奥日光の温泉寺といったところです。今回は、三仏堂・逍遥園・本坊とその周辺をご紹介します。

三仏堂周辺の支院・僧坊

江戸時代に日光一山は、本坊・学頭・衆徒・別当を含む109ヶ寺からなっており、支院・僧坊の多くは今の三仏堂・逍遥園・本坊エリアの東側と南側にありました。現在輪王寺に属している支院は15あります。
以下、本宮神社から、三仏堂にかけて歩いて行く際に撮影した支院・僧坊を四か所ほどご紹介します。
まずは、東照宮・御旅所向いの「城秀坊」です。戊辰戦争では幕府軍の野戦病院となっており、官軍による戦傷者の虐殺があったと云われている場所です。

次に、浄土院です。新宮大権現(現在の二荒山神社・本社)を開いた日光山第四世座主・昌禅を元祖とする名門。江戸時代には朝廷からの日光例幣使の宿所となり、明治以降も輪王寺住職を輩出しています。

三つ目が、江戸時代に佐竹氏・津軽氏と縁の深かった實教院です。当時は逍遥園の南側にありましたが、現在は場所が変わり浄土院の並びにあります。

最後が法門院で、鎌倉時代の衆徒三十六坊に数えられていた由緒ある支院です。室町時代まで住持は代々那須一族の金丸家出身者が務めており、全山の学頭も輩出しています。

勝道上人銅像とその周辺

日光橋から続く参道を進んで来ると、三仏堂手前で、勝道上人銅像にたどり着きます。開山1200年を記念して昭和41年に建てられたものです。

この周りの紅葉が丁度見頃でした。
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黒門(重要文化財)

神仏分離令により三仏堂が今の場所に移築される直前に火事で焼け落ちるまでは、この敷地に輪王寺・本坊があった関係で、三仏堂前の広場には、表参道より黒門を通り入るのが本来の姿です。黒に塗られているのは、皇族を門主に頂く門跡寺の格式を表しています。

黒門の脇にあるのが「黒門札所」です。

「黒門札所」では、輪王寺のご朱印帳と「日光山輪王寺」のご朱印を拝受しました。

拝観受付

拝観の受付は、黒門を入って左手にあります。

以前は1000円の共通券で、輪王寺・日光二荒山神社・日光東照宮に全て入場できたのですが、残念ながら廃止されたそうです。今回は、三仏堂と大猷院の両方に有効な「輪王寺券」で拝観しました。

三仏堂(重要文化財)

輪王寺の本堂・三仏堂(金堂)は、日光山内はもとより東日本では最も大きな木造の建物です。天台密教形式のお堂は数が少なく、寺院建築史上重要な建物だそうです。
既にご存じの方もいらっしゃると思いますが、現在の三仏堂は「平成大修理」中で、巨大な足場が組まれています。しかし足場の中の建物は、鮮やかな朱色でピカピカで、来年6月の完工が待ち遠しいところです。
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三仏堂の中では、7mを超える御本尊の千手観音像、阿弥陀如来像、馬頭観音像が光り輝いています。現在は、内陣から見上げて拝観できるようになっていますが、中々の大迫力です。

輪王寺サイトにリンク

三仏堂では、出口で「金堂」のご朱印を頂けます。

なお、ライトアップ時間帯に参拝しますと三仏堂に入ったところで、緑地に金泥で書かれた「金堂」のご朱印(書置き)を拝受できます。

三仏堂に向かって左手前には鐘楼があります。江戸時代には、東照宮の御仮御殿の場所にありましたが、神仏分離令により現在の場所に移築されました。

大護摩堂付近

大護摩堂は、平成10年に、三仏堂の裏手に完成した新しい護摩祈願所です。


内陣には、ご本尊「五大明王(ごだいみょうおう)」等多くの仏像や頂相がお祀りされています。天井画の「大昇竜(だいしょうりゅう)」も迫力です。

輪王寺サイトにリンク

大護摩堂では「五大尊」のご朱印をいただけます。

大護摩堂前の広場には高さ13.2mの「相輪橖」(重要文化財)が聳えています。この青銅塔は、徳川家光公の発案により、天海僧正が延暦寺のものを模して造らせたました。当初は、東照宮奥院にありましたが、二荒山神社・本社近くを経由して、明治の神仏分離令により現在地に移築されたものです。

「相輪橖」の脇には二基の「糸割賦灯篭」があります。生糸の独占的輸入権を持っていた商人「糸割符仲間」が、徳川家康公の三十三回忌に奉納したものです。

大護摩堂に向かって左側に「光明院稲荷」があります。日光の五大稲荷のひとつで、日光山二十四世弁覚僧正が光明院を建立した際に、その守護神として勧請したものです。

大護摩堂に向かって右側が「護法天堂」(重要文化財)です。もともと「毘沙門天」「大黒天」「弁財天」が祀られておりましたが、この三天は、大護摩堂に移され他の四神と併せて七福神を構成しています。

その他の堂塔

本坊

表参道を挟んで反対側にあるのが輪王寺・本坊で、寺務を取り仕切っています。

紫雲閣

三仏堂の向かい側にある輪王寺の信徒会館です。一階のホールでは講演・展覧会等が開かれ、二階には仏間があり法話・写経・茶会などで利用されています。

宝物殿

国宝・重要文化財を含む輪王寺の寺宝が約三万点収蔵されています。徳川記念財団と協力しながら、拝観室にて常時展示を行っています。今回は残念ながら拝観できませんでした。

輪王寺サイトにリンク

児玉堂(重要文化財)

本宮神社から滝尾道入口に向かう途中、左手に赤いお堂が見えます。小ぶりなお堂ですが、「日光山瀧尾建立草創日記」の中で次の様に語られています。なお撮影を失念してしまいましたので、写真は「列島宝物館」さんよりお借りしました。
◆輪王寺「児玉堂」縁起◆
弘法大師が来山した際、現在の白糸の滝近くの「八葉蓮華池」に檀を結び「仏眼金輪」の法を修したところ、池の中から大小二つの白玉が現れ、小さいほうの白玉は「我は、これ天補星なり。」と名乗りました。弘法大師はこの小さい白玉を袈裟に包んで持ち帰り児玉堂にお祀りしました。
また、大きい白玉の方は「我は、これ妙見尊星の玉なり。」と名乗り、ここ滝尾には女体の霊神がいるのでお祀りし、併せて大白玉を中禅寺に祀るように告げて飛び去りました。弘法大師は、この後、「影向石(ようごうせき)」(「滝尾神社への道~紅葉の日光遠征記2018(その2)~」参照)のあたりで、大白玉の云う女体の霊神「滝尾権現=田心姫命(たごりひめのみこと)」の応現を見て、滝尾神社を開山しました。なお、飛んで見えなくなった大白玉は、明治の山津波で流されるまで旧・中禅寺の妙見堂に祀られていたそうです。


列島宝物館」より

逍遥園

本坊が三仏殿とその前の広場にあった頃、輪王寺門跡が愛でる日本庭園として小堀遠州により作庭されたと伝えられています。
今回はライトアップ時間帯に拝観したため、昼間の様子を撮影できなかったのは残念ですが、こんなに鮮やかな紅葉が楽しめるそうです(輪王寺のサイトにリンクさせていただきました)。

ライトアップ時間帯の園内は、こんな感じです。ライトに照らされた紅葉が池の面に映りこんで、それはそれは美しい眺めでした。
(※サムネイル画像をクリックすると拡大します。)

最後までご覧いただきありがとうございました。まだまだ続く「紅葉の日光遠征記2018」ですが、よろしくお付き合いください。