弘明寺(弘明寺観音)◆坂東三十三観音霊場(第14番)参拝◆

弘明寺(弘明寺観音)◆坂東三十三観音霊場(第14番)参拝◆

瑞應山蓮華院弘明寺は、横浜市最古とされる高野山金剛峰寺の直末寺です。創建は養老五年(721年)に、「虚空蔵求聞持法」「大毘遮那経(大日経)」の漢訳で知られる善無畏(ぜんむい)三蔵が来錫し、この地に結界を張った時にまで遡ります。さらに天平九年(737年)には巡錫中の行基が、現在の御本尊十一面観世音菩薩を彫り上げ、弘仁五年(814年)には弘法大師が一千座の護摩を焚いたそうです。そしてご本堂が建立されて寺としての外観が整ったのは寛徳元年(1044年)の光慧上人の代のことです。
創建当初は「求明寺」と呼ばれておりましたが、鎌倉期に「弘明寺」と改めました。これは、観音経偈中の「弘誓深如海(ぐぜいじんにょかい)」より「弘」の字を拾ったものです。
弘明寺はその後も、源氏・小田原北条氏を始めとした歴代の権力者の保護を受けながら、繁栄を続けましたが、明治の初めになりますと、弘明寺も例にもれず廃仏毀釈の影響を受け、寺領は没集され、明治中期には無住職となり住職系図を含む数多の寺宝が失われる事態となりました。
しかし明治三十四年(1901年)に渡辺寛玉師が住して以降は、寺勢は次第に回復し、今日に至ります。

なお弘明寺(弘明寺観音)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒弘明寺(弘明寺観音)へ

弘明寺(弘明寺観音)の魅力

◎鮮明な彫り痕を残す鉈彫りのご本尊・十一面観音像

◎数多の伝説に彩られた横浜最古の寺史

◎川崎大師の梵鐘も手掛けた名鋳物師・西村和泉守藤原政平の鐘

境内図

弘明寺かんのん通り

横浜地下鉄ブルーラインの弘明寺駅2B出口を地上に出ると「弘明寺かんのん通り」の入口になります。昭和43年(1968年)に廃止された横浜市電の終点・弘明寺駅もこの付近にありました。「弘明寺かんのん通り」は、明治末期に、仁王門前から鎌倉街道(県道21号線)にかけての農道が整備された商店街で、現在のようなアーケードが設置されたのは、昭和31年(1956年)のことです。古くからの弘明寺の門前町は、少し北側の蒔田町の方向に広がっていました。

かんのん通りを進むと、大岡川にかかる観音橋にでます。メンテが行き届いているので古さは感じられませんが、大正十四年(1925年)に架けられたものです。

観音橋付近の大岡川は桜の名所で、季節には多くの人が立ち止まり通行の妨げになってしまいますので、観音橋の下流側すぐ隣にさくら橋が架けられています。

弘明寺からは大分下流の写真で恐縮ですが、大岡川の桜はこんな感じ。大岡川の桜並木は明治後期に設立された弘明寺保勝会の活動が始まりです。

仁王門

当初の仁王門は、嘉暦二年(1327年)に建てられました。現在の八脚・切妻造・銅葺の仁王門が、いつ建てられたかは明らかでありませんが、明応十年(1501年)に修繕と記された貫が発見されているそうです。最近では平成14年(2002年)に改修されました。仁王像とともに、横浜市の有形文化財に指定されています。

こちらの「瑞應山」の扁額は、18世紀の書家・佐々木玄竜の筆によります。

仁王像

仁王像は、鎌倉中期の慶派仏師の作で、神奈川県では最古の仁王像とされています。平成13年(2001年)に修理が行われました。横浜市の有形文化財に指定されています。

観世音石標

保土ヶ谷道・道標

文政元年(1818年) に立てられた「保と可や道」とある道標です。この道標の右側の道が、保土ヶ谷宿方面に続きます。

ここを上がると京急・弘明寺駅で、さらにその先は井土ヶ谷を経て保土ヶ谷に向かいます。

参道石段下

仁王門を入ってすぐ参道石段下は、このような様子です。

石段下授与所・香炉

石段を上がることが難しい老齢の参拝者にはありがたい授与所となっています。

竹観音

竹観音は、高さ50cmくらいの慈母観音です。中が空洞で肉厚も限られている竹に彫った「竹の一木造」という大変珍しいものです。

六地蔵

仁王門を入って右側の祠には六地蔵菩薩や観音菩薩(慈母観音?)が並びます。

鏡井戸

現在、水道の蛇口が設置されていますが、この祠の向かって左側の石段脇には、昔「鏡井戸」と呼ばれる井戸がありました。弘明寺草創の頃からある井戸で、参詣する人は、この井戸に映った自分の顔を見て今の心が清いのか濁っているのかを確かめ、心を平生にしてから石段を上りました。

観世音菩薩・不動明王

身代地蔵尊

身代地蔵尊は、平成13年(2001年)に、京急の設立100周年を記念して、奉納されました。

角塔婆

今年令和八年(2026年)は、坂東三十三観音札所霊場の各寺院で「午歳特別結縁巡礼」が催されます。馬は、観音様の眷属ですので、西国・坂東・秩父を併せた百観音霊場では、ご本尊の特別開帳が行われる習しになっております。
弘明寺では角塔婆が建てられ、ご本尊と「結縁綱」で繋がっています。
この角塔婆の四面には、梵字の下に、漢文でこのように書かれています。
正面「寶塔者為奉済坂東三十三観音霊場特別結縁巡禮信徒安全」
右面「具一切功徳慈眼視衆生福聚海無量是故應頂禮」(観音経の一文)
裏面「南無遍照金剛 令和八年正月元日〇大建之」
→「〇」と表現した箇所は「寛」の「艸」の部分が「八」になっている漢字で、読めませんでした。
左面「願以比功徳普及於一切我等與衆生皆供成佛道」(回向文)

なお、内陣に入ってご本尊にお参りいたしますと、このような結縁綱の輪を頂戴できます(500円を納めます)。

大香炉

こちらの大香炉は、平成25年(2013年)に置かれたものです。

手水舎

観音堂脇の手水舎です。水盤は大正11年(1922年)に奉納されたものです。

観音堂

観音堂は桁行六間半の方形で、当初摩尼山の高みに建てられた寛徳元年(1044年)には瓦葺きだったそうです。その後茅葺となり、昭和51年(1976年)に現在の銅葺となりました。観音堂は、幾度も修復が加えられています。記録にあるものだけでも、後朱雀天皇の御世(11世紀中頃)の光恵上人による再建、元亨元年(1321年)の浄泉比丘尼による補修、明応五年(1492年)の沙門源覚による修理などがあります。現在の観音堂は、明和三年(1766年)に智光上人が、山上より現在の位置に移築・再建なさったもので、寛徳元年に建立した際の手斧彫の床板などが再利用されています。。

こちらの「感応」の扁額は、弘法大師の筆を模写したものです。

こちらの「観世音」の題字は、小野道風の筆とされています。

往時の茅葺の観音堂です。大正11年に奉納された手水舎がありませんので明治から大正にかけての写真と思われます。

こちらの写真は、昭和初期のものと思われます。屋根はまだ茅葺です。

観音堂に繋がる右手の建物は神楽殿で、節分などの行事で使用されます。

ご本尊・十一面観世音菩薩立像

弘明寺のご本尊・十一面観世音菩薩立像は、天平九年(737年)に善無畏三蔵結界の霊地である摩尼山に来錫した行基が、熊野神・稲荷神の勧めに応じ、一刀三禮(一回刃を入れる都度三回拝礼)して至誠を籠め、七日七夜をもって彫り上げたものとされており、現在は国の重要文化財に指定されています。
実際は、平安時代中期の作と思われる像高180cmあまりの春楡(ハルニレ)の一木造で、丸鑿の直線的な彫痕を表面に残す鉈彫の造形が印象的です。
ご本尊は、中ぐりをしていないため乾燥による歪が生じており、それが原因となって額から口まで鼻筋の右側に沿って亀裂が走っています。

弘明寺かんのん通り商店街サイトにリンク

大黒天像

弘法大師作と伝わる大黒天像が、観音堂を入ったすぐ右手に安置されています。

大日如来像

大黒天像の向かって左隣には智拳印(ちけんいん)を結んだ金剛界の大日如来がいらっしゃいます。

木造 黒漆花瓶(くろうるしけびょう)

室町時代初期の木製黒漆の花瓶で、横浜市指定有形文化財となっています。
現在は、ご本尊からみて右向い側に置かれています。

弘明寺サイトにリンク

鐘楼

入母屋造の鐘楼は、貞享元年(1684年)に、逗子神武寺より移築されたもので、神武寺での歴史はそれより古いものとなります。明治41年(1908年)に新堀源兵衛氏により修理されましたが、大正12年(1923年)の関東大震災で倒壊し、昭和4年(1929年)に復興しました。現在の姿の鐘楼は平成10年(1998年)に改修されたものです。

こちらの梵鐘は三代目のもので、寛政十年(1798年)に製作されました。願主は阿闍梨(あじゃり)秀光、鋳物師は西村和泉守藤原政平で、川崎大師の梵鐘も製作した方です。横浜市の有形文化財に指定されています。

正面には「大慈大悲観世音」とあります。

こちらの面には「揵槌一打三千之衆雲集 霜鐘三振四生之苦氷消」とあります。弘法大師が高野山金剛峰寺の銅鐘に刻んだ知識文だそうで「 鐘を一たび打ち鳴らせば三千世界の衆生が雲のように集まり、冬に鐘を三たび打ち鳴らせば、四生(胎生、卵生、湿生、化生)に生きる者の苦しみが氷が解けるように消え去る」という意味となります。

地蔵祠

鐘楼の左右には、夫々お地蔵様の祠が建てられています。

大師堂

もともとは正徳二年(1712年)に建てられた「えんま堂」で、文政・天保の頃は地蔵尊が祀られていたそうです。その後薬師如来をお祀りする薬師堂となりましたが、明治期に弘法大師坐像をお祀りする大師堂となり現在に至ります。

大正6年(1917年)に住吉町の料亭・千登世より奉納された額です。

弘法大師像(大師堂ご本尊)

閻魔大王像

「大師堂」が「えんま堂」であった頃のご本尊です。その時代には、閻魔大王像の他、奪衣婆像、さらに十王像が祀られていました。十王像は、現在、観音堂の内陣入口手前の天井近くに左右に分かれ安置されていますが、教えていただかないとまず見落としてしまいます。

奪衣婆像

役行者像

こちらは役行者像です。

弁財天像

こちらは、眷属の十五童子を引き連れた弁財天像です。おそらく、もともと摩尼山の中腹にあった奥之院・弁財天堂のご本尊と思われます。弁財天堂には天神像及び弘法大師作といわれる阿弥陀如来像が祀られていました。

聖天堂

聖天堂は、弘仁九年(818年)に弘法大師が、お手彫りの秘仏・大聖歓喜天を納めたのが始まりとされる云われ深いお堂です。もともとは、裏山の摩尼山の中腹にありましたが、京急線の開通後、昭和6年(1931年)に現在の場所に移されました。現在も毎月3の付く日には「秘密浴油祈祷」が修されますが、明治から大正にかけて弘明寺の門前は、歓楽街として栄えておりましたので、かつて陰陽二道和合を説く歓喜聖天には花柳界のきれいどころが多くお参りされたそうです。

宝篋印塔

こちらの宝篋印塔は、安永四年(1776年)に建立されたもので、もともと本堂前にあったものを現在の場所に移築しました。

庚申塔

聖天堂の脇に、庚申塔(青面金剛)が二基あります。それぞれ祠に収まっておられます。

聖天堂付近の石碑

島田貞吉之碑

弘明寺かんのん通りを主催する横浜銀星会協同組合の初代理事長として地元・弘明寺で力を振るわれた島田貞吉氏の顕彰碑です。横浜市議会議員も長くお務めだったようです。昭和42年(1967年)に建てられたもので、かつて横浜の革新市長として名を馳せた飛鳥田一雄氏の銘があります。

橘屋円蔵之碑

こちらは、大正11年(1922年)に建てられた落語家の四代目橘屋円蔵の顕彰碑です。お住まいは品川だったそうですが横浜の寄席「新富亭」に出演中に発症した喘息でお亡くなりになった関係で、こちらに顕彰碑が建てられているようです。

金川志ん馬之碑

こちらは、二代目古今亭志ん馬の顕彰碑です。志ん馬は、もともと上方落語の出身で、五代目笑福亭松喬に入門し、「染之助」を名乗っておりましたが、横浜・新富亭に拠点を移し三代目古今亭志ん生の門下となり二代目古今亭志ん馬を襲名しました。この碑は、昭和37年(1962年)に建てられました。

七ツ石

密教を中国に広めた「伝持の八祖」の第五祖・善無畏(ぜんむい)三蔵法師が、この国に渡来した際、七つの石に陀羅尼(だらに)を書写し、この霊石を用いて結界を結びました。現在はこの場所に集められている七つの結界石は、不思議なことに勝手に位置を変え、現れたり消えたりして、大きな普請がある都度姿を現すそうです。七ツ石が姿を現すと、金銀財宝を必要なだけ集まってくるとのことで、寛永元年(1624年)、明和三年(1766年)の観音堂再建に際しても現れたそうです。

正面の石には「七ツ石」と刻まれています。「七ツ石」という場合、この石ひとつを表す場合と、他の6つと合わせた7つの石の総称である場合があります。

右側手前から二つ目の石が「ふく石」です。

供養塔

石段を登って右側にあるのは、側面に慶應4年(1868年)と刻まれた供養塔です。 正面の一番上に十一面観音の種子「キャ」が刻まれています。

裏面には、弘明寺のもう一つのご詠歌が刻まれています。「此度は 君乃於々世(おおせ)の 弘明寺へ 江戸品川を うら耳(に) みてゆ久」

六地蔵板碑

こちらの半円形の板碑には、六地蔵が刻まれています。

蛇石

白蛇の模様が浮き出た石です。以前祀られていた弁財天と何か関係があるのかも知れません。

百度石

背後には、弘法大師坐像や、馬頭観音像が置かれています。

観音堂脇授与所

こちらではお札やお守りが頒布されておりますが、御朱印は観音堂に入って左手の寺務所で頂くことになります。

弘明寺稲荷

こちらは、最近祀られるようになった弘明寺稲荷です。かつて摩尼山に祀られていた稲荷社とは別の神社です。

楓関門

楓関門(ふうかんもん)は、室町期の應永十八年(1411年)に建立された瓦葺きの医薬門で、横浜最古とされています。
明治の廃仏毀釈により荒れ果てていたものを明治四十一年(1908年)に修理しましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で倒壊してしまいました。その後、昭和4年(1929年)に再建され、平成16年(2004年)に修復されました。
楓関門は、かつては江戸期に観音堂の別当を務めていた蓮華院の山門に該当し、現在の客殿や庫裏の場所は、観音堂と一体化する前の蓮華院の敷地でした。

瓦は「弘明寺」と焼付られた特注品です。

柱には、腐りやすい柱の接地部分を切り取って新しい部材と取り換えて上部構造とつなぐ「根接ぎ」の跡がくっきりと見えます。

庫裡

客殿

以前は、こちらで精進料理を出していらっしゃいました。

客殿前駐車場

こちらの駐車場は、寺院関係者が主にご利用のようで、参拝者向けの駐車場は、さらに上った京急・弘明寺駅寄りにあります。

江戸名所図会

江戸名所図会は、19世紀前半に刊行された江戸とその周辺の地誌で、江戸の中心部からは大分離れた弘明寺も描かれております。弘明寺の裏山・摩尼山の頂上(現在でいうと弘明寺公園内の健康器具広場と思料)には熊野社が、中腹には稲荷社と打大聖歓喜天堂が見えます。江戸名所図会において摩尼山に祀られていた諸神は、現在の弘明寺境内にてお祀りされております。
まず熊野社(那智大権現・熊野本宮大権現・速玉大権現)及び稲荷社は、寺務所内の神棚に祀られています。同じ神棚には高野四所明神(丹生明神・高野明神・気比明神・丹生御息)も祀られていますので、摩尼山中に、こちらのお社もあったものと思われます。
また大聖歓喜天堂は、現在の聖天堂に遷座されています。
なお現在、弘明寺の隣町・中里町の鎮守となっている中里熊野神社は、江戸期には瑞雲山西光寺が別当を務めていたお社で、地理的にはすぐ近くにあるものの江戸名所図会で摩尼山の頂上に描かれた熊野社とは、全く別の神社です。
あと「えんま堂(十王堂とも云う)」とあるのは現在の「大師堂」で、位置も同じです。「大師堂」になる直前には、薬師如来をお祀りして「薬師堂」と呼ばれておりました。

弘明寺公園

現在の弘明寺公園の中の南図書館及びその後方は、江戸名所図会にもあるように、もともと弘明寺の敷地でしたが、昭和4年(1929年)に京急(旧・湘南電気鉄道)が開通した際に、分断されてしまいました。

展望台

こちらは平成5年(1993年)に建てられた展望台です。この場所には、それ以前にも展望台があったそうです。

展望台から見た富士山。

こちらは、みなとみらい方面。

摩尼山

摩尼山の中腹には、横浜市立南図書館があります。このあたりに、弘法大師の古跡である閼伽井があったそうです。

図書館の位置からさらに上がると弘法大師が修したという護摩壇跡があったそうです。この付近が摩尼山の頂上にあたります。

最後までご覧いただきありがとうございました。
弘明寺のご本尊のお顔には、右の額から口まで鼻筋の右側に沿って亀裂が走っていることは、先ほどご紹介した通りですが、実は先日お参りした朝に痛んでいたご本尊と同じ右目から上あごにかけての炎症が、帰宅した夕方にはすっかり引いており、これも観音様のご加護かと感じ入った次第です。