圓福寺(飯沼観音)◆坂東三十三観音霊場(第二十七番)参拝◆

圓福寺(飯沼観音)◆坂東三十三観音霊場(第二十七番)参拝◆

 坂東三十三観音霊場第二十七番札所を務める飯沼山金照院圓福寺は、千葉県銚子市にある真言宗系の単立寺院です。銚子市は、いまでこそ醤油と漁業で有名ですが、もともとはこの圓福寺の門前町として発展してきました。
 寺伝によれば神亀元年(724年)に、漁師が、ご託宣によりご本尊の十一面観世音菩薩を銚子沖で引き揚げたのが圓福寺の始まりとされています。その直後の天平年間には行基が来錫し、この十一面観音を厨子に納め、弘仁年間(810~824)に今度は空海が来錫し、台座と光背を作り開眼供養したそうです。
 鎌倉時代以降は、地元の豪族・海上(うながみ)氏の保護を受け大いに発展し、戦国末期に小田原北条氏に味方した海上氏が衰えた後も、駿河から江戸に鞍替えした徳川家康から三十石の朱印を賜わるなど江戸期を通じて栄えましたが、第二次世界大戦末期の昭和20年(1945年)7月19日の銚子空襲で伽藍はほぼ全焼してしまいました。しかし地元の力強い支援の下、昭和46年(1971年)には観音堂を始めとした主要な建築物が整えられ、今日に続きます。
 現在の境内は県道244号線により、観音堂エリアと本坊エリアに分断されていますが、もともとは両エリアに挟まれた土地を含む広大な境内を持っていました。

なお圓福寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒圓福寺へ

圓福寺の魅力

◎千年を超えて現在に至る銚子の発展と一体化した重厚な歴史

◎ご住職さえお目にかかれない秘仏・十一面観音

◎観音堂前に聳える千葉県唯一の五重塔

境内図

駐車場

圓福寺の駐車場は、観音堂エリアと本坊エリアにそれぞれ用意されており、十分な広さがあります。下の写真は観音堂エリアの駐車場です。

 こちらは、駐車場横にあった看板の写真を整形したものですが、服部(万亭)応賀が編集した 「百番観音霊験記坂東順礼三十三所目録」の坂東二十七番「下総飯沼山(圓福寺)」の図(画・梅堂国政)です。
 圓福寺縁起において、二尺(60cm)ほどのご本尊・十一面観音が、瑪瑙石を抱き海中より引き上げられるシーンが描かれています。

仁王門

現在の仁王門は、昭和20年(1945年)7月の銚子空襲で焼失したものを昭和46年(1971年)に再建したものです。

稲荷堂

 こちらは、出世開運の神様・荼枳尼天(だきにてん)をお祀りしている稲荷堂です。真言密教では荼枳尼天は胎蔵界曼荼羅に描かれ、閻魔天の眷属とされています。一般に稲荷社と申しますと宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)が主祭神としてお祀りされていますが、戦国時代には荼枳尼天と習合し城鎮守稲荷として祀られる例も多くみられました。ちなみにヒンズー教では戦いの女神カーリーの眷属として敵の血肉を食らう夜叉女とされています。
 なおこちらの稲荷堂は、嘉永五年(1852年)に、東京・日本橋の紋三郎稲荷(現・笠間稲荷東京別社)より勧請されたもののようです。天保水滸伝で知られる侠客「銚子の五郎蔵」の墓が圓福寺にあり、本坊には五郎蔵の倅勝五郎と飯岡の助五郎寄進の銅壺があるのですが、五郎蔵の子分に紋三郎稲荷の神主の息子で高田浩吉主演の映画にもなった「紋三郎の秀」がいることから、何か関係があると思います。往年の映画スター・高田浩吉・・・その名を知るのも私の世代がギリギリでしょうか(笑)。
 本堂に向って右手奥の石祠は、お稲荷様が祀られている(いた?)ようですが、もしかすると稲荷堂の旧祠なのかも知れません。

狐に跨る荼枳尼天像です。

こちらは古井戸で、今は使われていないようです。

こちらは稲荷堂脇の青々と茂った銀杏です。

参道

正面が観音堂です。以前は、大香炉のあるあたりに銚子大仏が安置されていた時期もありました。

手水舎

水盤には清浄水と刻まれている手水舎です。斜めに伸びたコンクリートの柱の上に木製・銅葺の屋根が乗っています。

文殊堂

文殊堂には学業成就のご利益がある文殊菩薩が祀られています。この建物は、以前、参道の右側にありました。

二十三夜満願堂

 二十三夜講は、二十三夜に講員が集まり飲食を共にしながら歓談して月の出を待ち、お経を唱え悪霊を払う月待ちの行事のことです。 二十三夜講のご本尊は「勢至菩薩(せいしぼさつ)」で、その偉大な智慧の光で衆生を照らす菩薩です。一般的には、阿弥陀如来の右脇侍として、阿弥陀三尊の一尊を構成することが多く、単独で祀られるというのは二十三夜講にご縁のある堂宇くらいではないでしょうか。

鐘楼

先代の鐘楼は、第二次大戦末期の銚子大空襲で焼けましたが、昭和46年(1971年)にご本堂・仁王門と共に再建されました。

こちらの鐘は、ご本堂に向って右手前に置かれているものです。もしかすると先代の鐘でしょうか。

烏枢沙摩明王堂(お手洗い)

こちらには、禅寺の東司(お手洗い)にもよく祀られている烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)がいらっしゃいます。密教における明王のおひとりで、不浄を転じて清浄となす働きを持つ火の仏です。

五重塔

こちらは、平成21年(2009年)に竣工した高さ約33mの五重塔です。千葉県では唯一の五重塔で、毎月8日の薬師如来のご縁日と、18日の観音菩薩のご縁日に開扉されます。

銚子大仏

銚子大仏は、元禄十五年(1702年)の大火の後、正徳元年(1711年)に製作された青銅の弥陀如来座像で、高さは一丈七尺(約5.4m)もあります。蓮華座にはたくさんの寄進者の名が刻まれ、当時の圓福寺の隆盛ぶりが伺われます。江戸期にはご本堂の南側にありましたが、その後は仁王門脇、観音堂正面の参道上、最終的に現在の場所に移されたようです。また、膝と背中には第二次大戦中の機銃掃射の跡がおありです。
蓮華座に虹が・・・

観音堂(ご本堂)

記録によると、戦国末期の天正六年(1578年)に、海上(うながみ)氏により八間四方の観音堂が建てられましたが、元禄十五年(1702年)の大火で焼失しました。その後、安永二年(1773年)には銅葺十間四方とさらに大きな観音堂が再建されましたが、昭和20年(1945年)の銚子空襲で再び焼失してしまいました。 現在の本堂は、間口十二間奥行十間の鉄筋コンクリート造で、は昭和46年(1971年)に再建されました。

こちらの額の題字「福聚海」は、旧宮家・小松宮彰仁親王の筆です。「福聚海」は、観音様の福徳は海ように限りなく広大であることを意味する「福聚海無量」から採られています。

 ご本堂には三体の十一面観音像が納められており、ここに見えるのは江戸時代にご開帳した観音様で、後ろの厨子には十二年に一度ご開帳されるお前立観音が納められています。ご住職も直接目にすることのない秘仏のご本尊は、そのさらに後ろに安置されているそうです。ご本尊は昭和20年(1945年)の空襲の際には、地下室に避難していたためご無事で、昭和46年(1971年)の現・観音堂落成に際しては、目隠しをした寺僧により堂内に運び込まれました。

こちら観音堂正面に向って左側には、海上氏亡き後の圓福寺の大檀那として知られる田中玄蕃が17世紀はじめに創業したヒゲタ醤油の醤油缶が積まれていました。醤油の町・銚子らしい奉納品ですね。観音堂に向って右脇にはキッコーマンの醤油缶が同じように積まれていました。

右の厨子には不動明王、左の僧形坐像はよくわかりませんでした。

こちらは、おなじみの賓頭盧尊者です。

本堂内の大きな空間を占める大提灯です。正面に十一面観音と書かれています。

望願叶石

謂れがよくわからず恐縮ですが、望みをかなえてくれる石ということでしょう。

飯沼水準原標石

 こちらは、日本における河川測量の原点として知られる飯沼水準原標石で、明治五年(1872年)にオランダより来日した「お雇い外人」の河川・港湾技術者リンドが設置したものです。27年度(2015年度)・日本選奨土木遺産に認定されました。

殉職警察官之碑

石碑群

銚港神社

銚港神社は、圓福寺ご本尊・十一面観世音菩薩が海中より現れた際に左脇に挟んでいた馬脳石をご神体として、応永二年(1468年)に創建された飯沼観音の鎮守で、明治二年(1869年)までは「龍蔵権現」と称していました。御祭神は「闇龗神/闇淤加美神(くらおかみ)」「志那都比古命/級長津彦命(しなつひこ)」「 級長津姫命(しなつひめ)」で、闇龗神は雨を司る龍神様だそうです。他に「菅原道真公(すがわらみちざねこう)」、及び明治四十二年(1909年)に愛宕神社より遷座した「火遇突智神(かぐつちのかみ)」も配祀されています。明治十六年(1883年)に指定された旧社格は郷社。

こちらは、安永四年(1775年)に旧藩主より寄進された旧鳥居の竿石です。

龍神様の手には瑪瑙石が握られています。

金刀比羅宮

銚港神社の左横に鎮座する金刀比羅宮の御祭神は「大物主神」です。海上交通の神様として、漁業・海運関係者の信仰を集めています。

社号額は、少し読みにくいですが「金刀比羅宮」とあります。

古帳庵句碑

江戸の豪商で巡礼者・俳人(あまりお上手では・・・)として知られる古帳庵とその妻・古帳女が、天保十二年(1841年)に銚子で詠んだ句が刻まれています。
「ほととぎす、銚子は国のとっぱずれ」(古帳庵)
「行き戻り瓢(ふくべ)を冷やす清水哉」(古帳女)
なお、江島神社・中津宮にもお二人の句碑があります。こちらはこんな感じ。
「いざ此處に泊りて聴かん郭公」(古帳庵)
「二親に見せたし鰹生きてゐる」(古帳女)

三十三観音尊像奉安霊場

龍神堂

龍神堂には、国木田独歩の父・專八が乗っていた播州龍野藩(兵庫県)の御用船「神龍丸」の船首像が祀られています。西洋婦人のお姿で、手には宝珠をお持ちです。

閻魔堂

閻魔堂には閻魔大王とその眷属・奪衣婆が祀られています。閻魔様は、衆生が積み上げた生前の善業悪業の重みを精密に量り、往生の行方を定めます。

大師堂

こちらは、間口十二間・奥行八間・瓦葺の大師堂で、嘉永元年(1848年)第三十世深恵の代に再建されたものです。

梵鐘

こちらは高さ70cm、口径50cmの享徳十一年(1462年)在銘の梵鐘で、千葉県の指定文化財となっています。銘文には「上総国菅生庄本郷飯富宮社頭奉再興鋳鐘一口」とあり、現在の袖ケ浦市にある飽富(あきとみ)神社に奉納されたものですが、いつの時代にか圓福寺に持ち込まれたようです。 現在は、大師堂内に保管されています。

圓福寺「梵鐘」(銚子市サイトにリンク)

弘法大師修行像

本坊

本坊と内仏殿の建物は一体となっており、平成12年(2000年)に竣工しました。

内仏殿

内仏殿の内部は葬祭用のホールとなっており、内陣には阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊像が祀られています。

涅槃殿

こちらは、平成13年(2001年)に竣工した宝蔵で、寺宝の「釈迦涅槃図」が収蔵されていることから涅槃殿と呼ばれています。

涅槃殿には以下のような宝物が収められています。

釈迦涅槃図

彩色糸で刺繍された大きな釈迦涅槃図は、寛文九年(1669年)に製作されたもので、縦350cm、横265cmの大作です。平成三年(1991年)に県指定文化財となっており、二月十五日の涅槃会にご開帳されます。

圓福寺「釈迦涅槃図」(千葉県サイトにリンク)

鐃(にょう)

こちらの「鐃(にょう)」は、平安時代初期に造られた密教法具の一種で、振ると音が出ます(圓福寺の鐃は、中の鈴子が失われていますので残念ながら音は出ません)。銚子市文化財に指定されています。

圓福寺「鐃(にょう)」(銚子市サイトにリンク)

七観音尊像奉安霊場

新四国八十八本尊奉安霊場

地蔵堂

墓地の脇にお地蔵様が祀られています。

永代供養霊廟

墓地の中にある永代供養墓です。

最後までご覧いただきありがとうございました。この日、圓福寺の奥の院・満願寺には、お詣りできませんでしたが、ぜひまたの機会に参拝したいと存じます。