那智山・青岸渡寺◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第四回)/西国三十三所(第一番)参拝
那智山・青岸渡寺(せいがんとじ)は、那智勝浦町にある天台宗の寺院で、西国三十三所第一番札所として知られています。開基は、はるかインドから熊野浦に流れ着いた裸形上人(らぎょうしょうにん)とされ、仁徳天皇の御世にまで遡ります。さらに200年後の推古天皇の御世には、生仏上人により如意輪観音が安置され堂宇が整えられました。那智山には、「那智七先徳」をはじめとする多くの高僧が参籠し、11世紀から12世紀にかけては後白河院・後鳥羽院等の多くの皇族による熊野御幸が最盛期を迎えました。その後は「那智御瀧」というランドマークを目指しての熊野詣の大衆化が進み、「蟻の熊野詣」と呼ばれるほどの活況を呈しました。
江戸期まで、青岸渡寺(=如意輪堂)と熊野那智大社とは一体で、熊野本宮大社や熊野速玉大社とは異なり、禰宜・神主は存在せず、社僧が全てを運営する修験者の霊場として存在感を示していました。
実は、青岸渡寺の寺号は古いものではなく、明治の神仏分離に伴い、明治七年(1874年)に如意輪堂を中心に天台宗寺院として独立した仏教施設につき新たに付された名称で、豊臣秀吉の母・大政所の菩提寺である高野山・青巌寺に由来します。おそらく16世紀末に如意輪堂を再興した豊臣秀吉をリスペクトしたものでしょう。
◆那智七先徳
那智山に参籠した7人の高僧・行者の総称。裸形上人、役行者、伝教大師・最澄、弘法大師・空海、智証大師・円珍、叡豪、範俊の七名がそれ。
◆西国三十三所の成立
大和及び鎌倉の両・長谷寺の開基として知られる徳道上人は、養老二年(718年)、62歳で一度亡くなりましたが、地獄に送られる数多の衆生を救うべく、閻魔大王より、観音巡礼の託宣を受けるとともにその起請文と三十三の宝印を授かり現世に蘇りました。そしてこの宝印に従って三十三の霊場を定めましたが、機運が盛り上がるには時期尚早で、宝印は摂津・中山寺に納められ、徳道上人も示寂されました。
二百年以上後の10世紀後半になって、花山院が那智御瀧の上流にある二ノ滝前に円成寺と称する庵を結び三年にわたって瀧籠りした折、熊野権現より、三十三霊場再興の託宣を受けました。そして仏眼上人を先達としてそれら三十三霊場を巡ったことが西国三十三所の始まりとされています。各札所の御詠歌も、この折に、花山院がお詠みになった御製と云われております。
なお、那智山・如意輪堂(=現・青岸渡寺)が一番札所の地位を確立したのは、後白河法皇、後鳥羽上皇らが盛んに熊野御幸を繰り返した12世紀のことと考えられています。
記事リンク |
熊野本宮大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第一回)~大斎原(おおゆのはら)・八咫烏 |
熊野速玉大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第二回)~神倉神社・阿須賀神社・熊野御幸 |
熊野那智大社◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第三回)~大門坂・飛瀧神社(ひろうじんじゃ)・御縣彦社(みあがたひこしゃ) |
那智山・青岸渡寺◆境内散歩◆熊野三山遠征記(第四回)/西国三十三所(第一番)参拝 |
境内図
参道
熊野那智大社「一の鳥居」に向うのと同じく、那智山郵便局脇の参道を上ります。
平和観音堂
参道の右側は青岸渡寺、左側は熊野那智大社の境内となっています。そのため実方院跡は、仏教系施設であったにも関らず熊野那智大社の境内であるため、宗教色の薄い宿泊施設として利用されてきました。
逆に参道右側にあるこちらの平和観音堂は、自然な形で青岸渡寺の管理下に属することとなりました。
写真中央に見える熊野那智大社一の鳥居を潜れば熊野那智大社に、逆に右に行けば青岸渡寺となります。
西国第一番札所の札所標石です。
こちらの石段を右に進みます。
石段を上がった踊り場は、絶好の展望スポットとなっています。
こちらは昭和52年(1977年)吉野熊野国立公園指定四十周年記念に建てられた青岸渡寺の御詠歌碑です。「普陀洛や 岸うつ波は 三熊墅乃 那智の御山尓 ひびく瀧津瀬」とあります。
仁王門
仁王門に続く急な石段の上り口に立つ札所標石で「根本霊場西国第一番なちさん霊場」とあります。
石段の半ばに見えるこちらが仁王門で入母屋造・銅板葺、組物は二手先となっています。昭和8年(1933年)に造営されたもので、寄進者:小西久兵衛・小西吉栄、設計者:文部技師・阪谷良之進、施工:三林組(名古屋)となっています。小西久兵衛は、大阪道修町の有力な薬種商で大日本製薬の創業者の一人です。現在は、山号額「那智山」が掲げられていますが、当初は「日本第一熊野三所霊験所」の額が掲げられていました。
もともとの楼門は大門坂の終着点にあり、慶長五年(1600年)に豊臣秀頼より寄進されたものでしたが、明治六年(1873年)に倒壊したまま放置されていました。仏教系の建物であることから、神社側が管理する大門坂の終着点の土地ではなく、青岸渡寺の石段途中に再建されたものです。
仁王門の仁王様は、運慶の長男で慶派の名仏師として知られる湛慶の作と云われています。この二体の仁王様は、もともとは大門坂終着点にあった楼門に安置されておりました。
裏手には、左右とも阿形の唐獅子が置かれています。これは吽形が出てくる以前の古い様式になります。仏教の仁王様と神道の唐獅子という神仏相和す古の那智山を象徴する組あわせです。
石段はさらに続き、登り切ったところがご本堂の如意輪堂となります。
石段途中の踊り場に立つこちらの輪廻塔は、昭和10年(1935年)に奉納されたもので施主・西崎作次郎とあります。
石段の上から見下ろすとこんな感じ。
延命の水
こちらは、那智御瀧より引かれている延命の水で、青岸渡寺の手水となっています。飛瀧神社まで参りますとこの源水を直接汲むことができますが有料となっています。
如意輪堂(ご本堂)
熊野那智大社の本殿群と、瑞垣を隔て一直線にならぶ青岸渡寺の御本堂「如意輪堂」は、杉を用いた間口23m、奥行21.8m、棟高18mの単層入母屋造の建物です。創建以来、六回改築されておりますが、現在の建物は、天正九年(1581年)に南紀の戦国大名・堀内氏善により焼かれたものを、天正十八年(1590年)豊臣秀吉が大工・尼ヶ崎茂兵衛に命じて再建したもので、南紀で一番古い建造物として国の重要文化財に指定されています。明治の廃仏毀釈以降、一時期は樵の作業小屋として使用されるなど荒廃しておりましたが、大正十三年(1924年)に大修繕が行われました。
「那智山」の山号額は、第245世天台座主・吉田源應の筆です。
こちらは、大阪以和貴会より奉納された「西国三十三観音霊場中興一千年記念」の扁額です。昭和62年(1987年)は、花山法皇が西国三十三観音霊場を中興してから一千年にあたります。
ご本堂に向って右側の側面です。周囲に回廊が巡らされています。
ご本尊の如意輪観世音菩薩は、7世紀・推古天皇の御世に生仏上人(しょうぶつしょうにん)が来山し玉椿の大木から彫り上げたもので、裸形上人が那智御滝の滝壺で得た八寸の観世音菩薩像が胎内仏として納められています。像高約3mという大柄なお姿ですが、秘仏として本殿奥の昇龍降龍が刻まれた宮殿(くうでん)内に安置されているため、普段は御前立の如意輪観音像のみ目にすることができます。ご開帳は、毎年2月3日の節分、4月第2日曜日の開山祭、8月17日のお盆の年3回となります。ご本堂が荒廃していた明治期には、那智勝浦町・市野々の宝泉寺に一時、仮安置されていたこともあったそうです。なお宮殿は、寛永元年(1624年)に造立されたもので、如意輪堂よりは時代が下ります。
こちらは、御前立の如意輪観音様です。
大鰐口(おおわにぐち)
内陣正面に吊り下げられたこちらの鰐口は、如意輪堂再建の際に豊臣秀吉公より寄進された日本一の大鰐口で、直径1.4m、重量450㎏あり、和歌山県の重要文化財に指定されています。永禄十年(1567)の戦火により溶けた東大寺大仏の銅が使われているとのことです。
表面には「天正十八年庚寅卯月日 豊臣朝臣関白殿下太政大臣秀吉敬白」の銘文が刻まれています。
本堂前
大香炉
こちらの大香炉は、三重県尾鷲の遠洋マグロ延縄漁船・長久丸船主の大門長一氏により昭和25年(1950年)に献納されたもので、 同氏の頌徳碑もすぐ横に立てられています。
魚霊供養碑
こちらは、日本遺産のストーリー「鯨とともに生きる」の構成文化財に指定されている魚霊供養碑です。鯨や魚介の冥福を祈る供養碑として昭和39年(1964年)に建立されたもので、毎年2月には勝浦漁協を中心に供養祭が執り行われます。
熊野那智大社東門
こちらは、熊野那智大社の東門から青岸渡寺のご本堂方面を見た様子です。両者間の移動は、この門を経由するのが一般的です。
水原秋桜子・米澤吾亦紅(われもこう) 句碑
句碑には「瀧落ちて群青世界とゝろけり」秋桜子、「きらきらとまだ見ゆ雁の別かな」吾亦紅とあります。水原秋桜子は昭和29年(1954年)に青岸渡寺を訪れており、米澤吾亦紅は、秋桜子が主宰する「馬酔木」の同人です。
授与所
こちらは、ご本堂前の授与所です。ご朱印は本堂内で頂けます。
タブの木
こちらは、樹齢700年を超えるタブの木で、和歌山県の天然記念物に指定されています。高さ17m、幹回り4.4mあります。
宝篋印塔
元亨二年(1322年)に建てられた宝篋印塔は、高さが4.3m、台座の一辺が2.2mあり、塔身の四面には、金剛界四仏の宝生如来、阿閦如来、不空成就如来、無量寿如来を表す梵字ウン・タラク・キリク・アクが刻まれています。 また台座の狭間に、先師権律師慶賢の宿願する所によって元亨二年壬戌三月に造立された旨の記載があり、願主・禅尼善覧、大工・藤井景盛の名があります。願主の禅尼善覧は、熊野那智曼荼羅を携えて諸国を回り絵解唱導を行った那智比丘尼を仕切っていた御前庵主です。
◆那智七本願
那智山には七本願と呼ばれた次の7ヶ寺の本願所がありました。
1.御前庵主(天台宗・那智本社拝殿向側)上四社各殿を差配
2.瀧庵主(真言宗・如意輪堂東側側面)那智御瀧・瀧本を差配
3.那智阿弥(真言宗・如意輪堂側面)如意輪堂(現・青岸渡寺本堂)を差配
4.補陀洛寺(真言宗・那智浜)浜ノ宮(三所権現)を差配
5.阿弥陀寺(真言宗・妙法山)妙法山阿弥陀寺を差配
6.理性院(真言宗・御前庵主側):八社殿を差配
7.大禅院(天台宗・御前庵主側):如意輪堂を那智阿弥と共に差配
現存するのは、補陀洛寺(=補陀洛山寺)、阿弥陀寺のみとなっています。
大野伴睦句碑
戦後日本を動かした自民党の大物政治家大野伴睦の句碑で「観音の慈顔尊し春の雨」とあります。俳句をよく嗜まれていたようで、万木(ばんぼく)という俳号をお持ちです。同じ句碑が、鎌倉・長谷寺にもありますが、青岸渡寺と大野伴睦の関係はよく存じ上げません。
西国三十三所一番札所御詠歌碑
こちらの御詠歌碑は、昭和59年(1984年)に立てられたもので、青岸渡寺の住職をお勤めになった高木亮享師の筆によります。「補陀洛や 岸うつ浪は 三熊野の 那智の御山に ひびく滝つせ」と綴られています。
佐藤佐太郎歌碑
アララギ派の歌人・佐藤佐太郎が昭和43年(1968年)に那智山に参拝した折の歌で「冬山の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ」とあります。昭和45年(1970年)の歌集「形影」に収められています。
三重の塔の向こうに那智御瀧を望む絶景です。
鐘楼
鐘楼は、明治の廃仏毀釈で一度破却されておりましたが、明治三十六年(1903年)に復興しました。
和歌山県指定文化財の梵鐘は鎌倉期・元亨 四年(1324年)に製作されたもので、高さ1.9m、直径1mあり、何でも那智七石の「三ツ石」付近で鋳造されたそうです。
銘文に「熊野那智山」「執行法印権大僧都道済」「瀧本執行法印尊什」「元享四甲子八月日」「願主一山衆徒中」といった陽彫があり、製作者はおそらく「河内國河内介弘」と刻まれている人物と思われます。今も現役で、毎朝7時に撞かれています。
水子堂
本尊は「如意輪観音菩薩」で、その名の通り水子霊を慰めるために建立されたものです。
大黒天堂
鐘楼脇の案内板に従って石段を上りますと、大黒天堂(如法堂)があります。正面の厨子に安置された高さ1.3mとボリューム感のあるご本尊は、伝教大師・最澄の作と云われる大黒天です。蓮華の葉の上に立っておられることから「葉上大黒天」と呼ばれ、両脇の六福神と併せ「那智山七福神」としてお祀りされています。
もともとは、現在の境内から少し離れた妙法山の麓に建長六年(1254年)に造立された如法道場にあったお堂で、光明堂や回向堂と称していました。造立後長らく廃れていたものを、応永三十三年(1427年)に那智山執行・法印道珍が再建しましたが、天正九年(1581年)に焼失し、江戸期に入った元和九年(1623年)に春海阿闍梨が再び建て直しました。現在地に移されたのは、大修理が行われた大正十三年(1924年)のことです。
行者堂
熊野修験道の開祖・役行者(えんのぎょうじゃ)をお祀りする行者堂は、「熊野修験那智山行者堂」と呼ばれ、もともと現在の熊野那智大社の境内にありましたが、明治の神仏分離令により取り壊されてしまいました。
しかし、令和5年(2023年)に、熊野修験の再興に尽力される現住職の高木亮英師により、現在の場所に150年ぶりに「熊野修験の根本道場」として再建されました。
「行者堂」の扁額は、熊野古道をテーマに制作を続ける書家・柏木白光の筆によるものです。
間口・奥行き共に六間の白木の方形造で、中央には立派な護摩壇が設えられています。毎月第4土曜日の行者堂月例護摩供では、「峰中法流」という独特の護摩が修されるとのことです。
ご本尊の役行者像は、旧行者堂より引き継がれた由緒ある像で、那智勝浦町の文化財に指定されています。
また、那智山行者堂落慶に合わせて、旧・不動堂の伝説の不動明王像が、三重塔よりこちらに遷座され、青岸不動明王と共にお祀りされています。なお、向かって右側の青岸不動明王図は、漫画家の原哲夫(号・象山)先生と染織家の奥田祐斎先生により製作されたものです。
信徒会館
信徒会館は、寺社建築で有名な金剛組の施工により旧本坊跡地に建てられた施設で、那智御瀧が一望できます。一般には公開されていませんが、寺主催の様々な催しや食事・休憩で利用されています。
尊勝院
こちらは那智山執行として最も力を振るった尊勝院です。那智山には、いわゆる神官は置かれず、すべて衆徒と行人によって構成されていましたが、一山の組織のトップは東座及び西座の「執行」で、尊勝院は、そのうち東座の執行を代々務め,那智御瀧・瀧本で奉仕する滝衆(滝聖)を統轄支配していました。
ご本尊は不動明王で、那智山開山の裸形上人像も所蔵しています。
現在は、宿坊として一般に利用されています。
この唐破風の四脚門は「不開門」と呼ばれており、重要文化財に指定されています。
こちらは、尊勝院に安置されている開山・裸形上人像です。
◆那智一山の組織
「続風土記」によれば一山の社僧は東座と西座にわかれていました。2トップの一つ東座執行は一山最高の権威を誇る潮崎(塩崎とも)尊勝院とされ、同時に滝執行として滝衆(滝聖)と呼ばれる一団を統轄支配していました。もう一つのトップ西座執行は,もと西仙滝院(真言宗・清僧の寺院)が相承していましたが、戦国期以降に力を付けて来た米良実報院(十方院・実方院・実法院とも)が江戸期に引き継ぎました。
この東西両執行の下には、宿老10人・講誦12人・衆徒75人・滝衆66人・如法道場役人12人・行人85人・穀屋7人が従っており、これらの社僧・役人は那智三十六坊より輩出されました。
那智三十六坊は時代と共に変遷が見られますが,天保五年(1834年)の「諸国檀那分ケ限」によれば、尊勝院・仙竜院・宝仙坊・宝春坊・真度坊・光明坊・円明坊・実方院・神光坊・真覚坊・宝蔵坊・竜寿坊・宝如坊・明楽坊・大蔵坊・宝蔵院・吉祥坊・橋爪坊・大乗坊・実仙坊・宝隆坊・春光坊・宝祥坊・宝元坊・滝庵坊・那智阿弥大禅院・御前庵主・理性院・浄厳坊・東光坊・良順坊・春覚坊・西光坊・法全房・常住院の三十五院坊が挙げられています。
また、米良実報院に代表される「御師(=宿坊)」は、全国に「檀那(=金主)」を有しており、さらに「先達」が熊野参詣のガイドとして「檀那」を熊野に導き「御師」に願文を提出することで、両者を結びつけました。このように中世における熊野信仰の経済はこの三者により動かされていました。
見晴亭(みはらしてい)
こちらの茶屋で、私も、那智黒ソフトを舐めながら休憩させていただきました。またお土産には、血糖値も省みず、定番の那智黒を購入いたしました。
阿弥陀堂
平成6年(1994年)に建立された納骨堂です。鉄筋コンクリート造で施工は金剛組で、ご本尊の阿弥陀如来坐像は、仏師・江里康慶の作です。
瀧宝殿
こちらの瀧宝殿は、昭和51年(1976年)に金剛組の施工で建設された宝物収蔵庫で、地上二階・地下一階で延床面積418㎡と、宝蔵としてはかなりの大きさです。他の建造物から出火した際の延焼を防ぐため、ご本堂から離れた場所に建てられた瀧宝殿には、那智経塚から出土した国の重要文化財・金剛界立体曼陀羅を始めとした多くの重要文化財が収蔵されていますが、残念ながら一般公開されておりません。実は、先月、世界遺産登録20周年を記念して特別公開があったのですが、遠方のため、諦めざるを得ませんでした。
こちらは、飛瀧神社参道脇「沽池」の経塚より出土した金銅大日如来像です。 国の重要文化財に指定されています。
写経蔵
こちらは、西国三十三所で奉納されたお経を保管する蔵で「写経蔵」と呼ばれています。施工は、瀧宝殿と同じく金剛組です。
三重塔(圓通殿)
那智参詣曼荼羅にも描かれている三重塔は、もともと如意輪堂の近くにありましたが、天正9年(1584年)に堀内氏善により焼かれてしまいました。
現在の三重塔は、かつて栄えに栄えた那智山仏教世界の核であった旧・本地堂を懐かしむかのように、青岸渡寺境内でも那智御瀧・瀧本に近い場所に、昭和47年(1972年)に四百年ぶりに再建されたものです。
施工は、寺社建築で有名な金剛組で、木・鉄骨を併用した鉄筋コンクリート造となっており、基壇部を含めると塔高25m、各辺12mの四層構造で、地上階を除く塔部(三階あります)の各階は何れもカラフルな格天井(ごうてんじょう)と壁画が鮮やかです。
塔部各階の仏像・壁画は以下のとおりです。
1階・・・仏像:飛瀧権現、壁画:熊野那智極楽曼荼羅(画家・米良道博)
最近まで、明治の廃仏毀釈で取り壊された不動堂に祀られていた伝説の「不動明王」もこちらに安置されていましたが、世界遺産登録20周年を機に行者堂に遷られました。
2階・・・仏像:阿弥陀如来像、壁画:聖衆来迎図 (画家・林屋坦養)
阿弥陀如来像は、戦国期に活躍した尼子十勇士の筆頭・山中鹿介(やまなかしかのすけ)の持仏堂(じぶつどう)の本尊でした。また、聖衆来迎図を描かれた林屋坦養師は、比叡山法華総持院東塔壁画の金剛界五仏も手掛けられています。
3階・・・仏像:千手観音菩薩、壁画:金剛界曼荼羅 (画家・林家拓蓊)
こちらの千手観音菩薩は、飛瀧権現の本地仏で近年造られた仏様です。
かつて那智御瀧・瀧本の千手堂(本地堂)にあった千手観音菩薩像は明治の廃仏毀釈の折、失われましたが、神仏相和していた江戸期までの那智山では、飛瀧権現の本地仏・千手観音こそがご本尊であり、青岸渡寺の如意輪観音は西国三十三所一番札所・如意輪堂の札所本尊という位置付けでした。
瀧寿庵
こちらは、茶室の瀧寿庵です。
布袋像・六地蔵
三重塔の近くに見える布袋様、六地蔵及び回向車です。
五輪塔
那智御瀧・瀧本と如意輪堂を結ぶ裏参道沿い三重塔付近に立ち並ぶ五輪塔です。
那智児句碑
昭和52年(1977年)に立てられたこちらの句碑には「薄紅葉して 神の那智 滝の那智 那智児」とあります。那智児は和歌山県出身のホトトギス同人・片山忠雄の俳号です。
句碑の背後には小ぶりな紅葉の木が植えられており、秋も半ばを過ぎた頃には薄紅に染まることでしょう。那智山を含め、熊野三山には有名無名を問わずこうした歌碑・句碑が至るところに立てられています。
洗心寮
青岸渡寺の職員寮の洗心寮です。
三ツ石
那智七石のひとつ「三ツ石」です。鐘楼の鐘は、この付近で鋳造されたそうです。
旧・滝見寺(奥の院)
那智山の神域内にある旧・那智山滝見寺は本地観音道場とも呼ばれ、江戸期までは、那智山・社家の菩提寺として開山堂・地蔵堂・観音堂・四足門等を有し、那智社の奥の院とされていました。開基は、臨済宗法燈派の祖・心地覚心(法燈国師)で、弘安三年(1280年)の創建とされています。滝見寺には本尊の観音菩薩の他、法燈国師(=心地覚心)の像が伝わっていましたが、天正九年(1581年)の兵火で焼失し、慶長十年(1605年)に京都七条の仏師・康厳により新たな像が造られたという記録があります。明治の神仏分離令により、社家が力を失い菩提寺との関係も途切れ、経済的基盤が失われたため、長らく荒廃しておりましたが、1960年代になって台湾の有志により中国風の建物が建てられ、臨済宗寺院として存続しました。しかしその後、廃寺となり現在に至ります。
後ろに見えるコンクリート製の土台建築物の上に、関帝廟・観音堂・徐福廟が建てられています。
廃寺とはなっているものの、下の写真のように板碑・宝篋印塔・五輪塔が数十基残されており、中には文化財に指定されているものもあります。
こちらの五輪塔は、もともと大門坂の林中にあったものをこちらに移したもので、現在は基底部が埋もれていますが、全体で高さが2mほどあります。那智勝浦町の指定文化財となっています。解像度が低くて恐縮です。
こちらは、奥の院開山の法燈国師坐像で、慶長十年(1605年)に造られたもので、製作者は「七条大仏師・小網庄」という人物です。五輪塔と同じく那智勝浦町の指定文化財となっていますが、現在、どちらで保管されているのか確認できませんでした。
こちらが、青岸渡寺の防災道路入口となっています。
ご朱印
祭礼と行事
元旦 | 修正会 |
2月3日 | 節分会 |
4月中旬 | 開山祭 |
8月17日 | お盆法要・御本尊開帳 |
9月下旬 | 秋彼岸法要 |
11月3日 | 那智七福大黒天祭 |
11月31日 | 除夜の鐘 |
アクセス
住所 | 〒649-5301 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智山8番地 |
電話 | Tel:0735-55-0001 |
URL | https://seigantoji.or.jp/ |
【公共交通機関】
JR紀勢本線・紀伊勝浦駅より熊野御坊南海バスで「那智山」停下車。
所要時間30分程度
【車】
紀勢自動車道・すさみ南インターより国道42号線で那智勝浦町へ。
勝浦臨海交差点を左折し県道46号線(那智山勝浦線)で那智山へ。
駐車場有(防災道路通行料:800円) 。
最後までご覧いただきありがとうございました。熊野三山遠征記シリーズは、この四回で熊野三山を構成する中核社寺「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」「青岸渡寺」をご紹介しましたが、まだまだ続きます。「南紀熊野寺社巡礼」になってしまいそう・・・。
-
前の記事
妙法山・星谷寺(星の谷観音)◆坂東三十三観音霊場(第八番)参拝◆ 2024.09.15
-
次の記事
鶴岡八幡宮・九月の祭礼と行事~虫の音涼し長月~ 2024.10.14
コメントを書く