八雲神社(大町)◆境内散歩◆~京都・八坂神社に繋がる「鎌倉の厄除さん」~
- 2021.02.17
- 境内散歩
鎌倉・大町にある八雲神社は、永保年中(1083年)に、後三年の役に参戦するため陸奥国に向かう途上の新羅三郎義光公が、悪疫に悩まされるこの地の住民を救うべく京都祇園社を勧請し、「鎌倉祇園社」として開創されました。その後も「西の京都祇園社」に対し「東の鎌倉祇園社」と呼ばれるほどの信仰を集め、室町時代には関東管領家、戦国時代には小田原北条氏、江戸時代には徳川将軍家と歴代の権力者に保護されてきましたが、明治の神仏分離令を機に仏教系と映る「祇園」の名を廃し、新たに「八雲神社」を称するようになりました。この社名「八雲」は、素戔嗚尊が詠んだとされる日本で最初の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」に由来します。鎌倉市内には、八雲神社と称するお社が四社(大町・西御門・山ノ内・常盤)ありますが、中でも今回ご紹介する大町・八雲神社は、四社の中で唯一神主が常在する神社であり、湘南鎌倉地区の多くの無住神社の神主を兼任するなど、旧大町村内に留まらず地元鎌倉湘南地域になくてはならないお社として親しまれています。
八雲神社(大町)のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒鎌倉・八雲神社(大町)へ
八雲神社(鎌倉・大町)の魅力
◎鎌倉の夏を彩る四連神輿も勇壮な大町まつり
◎平安時代より多くの史料に名を留める厄除開運の「鎌倉祇園社」としての歴史
◎湘南鎌倉地域の地元信仰を下支えする神主兼務社としての重要性
境内図
一の鳥居
大町四辻を北に折れ、小町大路を少し進むと、右手に八雲神社の参道が見えてきます。御神輿一基を通すのに手ごろな幅の狭い参道を西に進むと、小町大路の西側に平行する道に出ますが、その目の前にあるのが大町・八雲神社の一の鳥居です。〆の子をデフォルメした山吹色の房が三つ下った立派な鼓胴の注連縄が特徴的な石造の鳥居です。
庚申塔
一の鳥居を少し進むと、左手に猿田彦大神と刻まれた石碑と並んで、鎌倉市の文化財に指定された庚申塔があります。
手水舎
こちらは、きちんと整備された手水舎。
二の鳥居
こちらが、一の鳥居より少し小さいサイズの銅板張の二の鳥居です。両脇に狛犬が控えます。
拝殿・本殿
現在の拝殿・本殿は、関東大震災で倒壊した旧社殿の後に新築されたものです。 御本殿には、次の四柱が主祭神として祀られています。
須佐ノ男命(すさのおのみこと)・・・天照大神の弟神で、八岐大蛇を退治して、その尾より三種の神器の一つ「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を得ました。
稲田姫命(いなだひめのみこと)・・・須佐ノ男命の奥方神です。
八王子命(はちおうじのみこと)・・・須佐ノ男命の五男三女の御子神です。
佐竹氏の霊・・・祇園社系の神社ではオーソドックスな他の三柱とは異質で、元々佐竹山を挟んで反対側にあった佐竹屋敷の霊社に鎮座されておりましたが、上杉禅秀の乱に続く1422年(応永29年)の鎌倉での佐竹与義敗亡の後に、当時の鎌倉祇園社に遷座された神様で「佐竹天王」と呼び習わされています。
また以上四柱の主祭神の他に、明治期に合併した村内の上諏訪神社・下諏訪神社・神明社・古八幡社の祭神であった事代主命(ことしろぬしのみこと)、建名方命(たけみなかたのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、誉田別命(ほんだわけのみこと)も合祀されています。
こちらは、東京オリンピックの聖火台を鋳造した名工・鈴木文吾の手による天水盤です。
御嶽三峰社
本殿に向かって右手の石段を上った小高いところに櫛眞知命(くしまちのみこと)・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀った御嶽三峰社の祠があります。なお社名碑には「三峯神社・御嶽神社」とありますが、由緒書では「御嶽三峰社」となっています。また通常「御嶽神社」で御祭神とされる「蔵王権現」が、「御嶽三峰社」の御祭神に含まれていません。
諏訪神社・稲荷神社・於岩稲荷社
本殿右側の祠には、三つの御社が収められています。向かって右が「諏訪神社(御祭神:建御名方神)」、中央が「稲荷神社(御祭神:宇迦之御魂神)」、左手が「於岩稲荷社(御祭神:田宮於岩命)」です。「於岩(おいわ)」様は、鶴屋南北の東海道四谷怪談で有名なあの「お岩」様ですが、実在の人物です。田宮家に伝わるお話では、働き者で貞女のお岩様のおかげで田宮家は家運隆盛となり、36歳でお岩様が亡くなると、屋敷神の隣に「お岩稲荷」と呼ばれる祠を建ててお祀りしたということです。享保二年(1717年)には、この「お岩稲荷」を勧請した「於岩稲荷田宮神社」が成立し、さらに各地でも於岩稲荷社が勧請されるようになりましたが、八雲神社の「於岩稲荷社」も、その一つと思われます。
寶蔵殿
こちらには、四基の神輿が格納されている他、神社の宝物が保管・展示されています。
一番神輿
四基の中で最大の一番神輿は、寛保二年(1742年)に造営されたもので「佐竹氏霊」を頂戴します。もともとは八雲神社の裏山・佐竹山の反対側にあった佐竹氏の霊社の御神輿で、天頂は「鳳凰」、屋根紋は「輪宝紋三ツ盛」です。
二番神輿
二番神輿は万延元年(1860年)に造営されたもので 、 その主祭神「須佐之男命(すさのおのみこと)」を頂戴します。天頂は一番神輿より小振りの「鳳凰」、屋根紋は「輪宝紋」です。
三番神輿
三番神輿は、二番・四番と同じく万延元年(1860年)に造営されたもので 、天照大神とその弟・須佐之男命 の「誓約(うけい)」に際して生まれた三女神・五男神「八王子命(はちおおじのみこと)」を御祭神とします。天頂は「宝珠」、屋根紋は「輪宝紋」です。
四番神輿
四番神輿は、二番・三番と同じく万延元年(1860年)に造営されたもので 、須佐之男命の妻「稲田比売命(いなだひめのみこと)」を頂戴します。こちらの四番神輿は、日中の神輿渡御には参加せず、大町四ツ角の南側に設営される御仮屋にて他の三基の還御を待ちます。天頂は「蓮花」、屋根紋は「輪宝紋」です。
新羅三郎手玉石
こちらは武辺系の神社によくある手玉石ですね。
祇園山ハイキングコース
大町・八雲神社の絵馬奉掲所横より妙本寺の裏手を抜けて高時腹切やぐらに至るお手軽なハイキングコースですが、令和元年(2019年)の台風15号及び19号の被害より未だ回復せず、通行止めとなっています。
社務所
御朱印はこちらの社務所で頂けます。なお、大町・八雲神社は、近隣の多くの無住神社の兼任社となっていることから、それらの神社の御朱印も頂けます。意外なほど有名な神社が含まれていますので、私の知っている限りの兼務社を挙げてみますと・・・。 鎌倉市内では、鎌倉最古の神社「甘縄神明宮」、小町鎮守「蛭子神社」、金沢街道沿い十二社鎮守「十二社神社」、江の島天王祭で有名な「小動神社」、乱材祭で有名な「五所神社」、浄明寺鎮守「熊野神社」。逗子では、逗子総鎮守の「亀岡八幡宮」、沼間鎮守「五霊神社」、久木鎮守「久木神社」、小坪の「天照大神社」。葉山では長柄の「御霊神社」。
お正月の風景
お正月の風景は、どこにでもある神社のそれと変わりはありませんが、三が日は一般の参拝者でもご本殿に自由に昇殿してお参りできるのは素晴らしい計らいです。
湯花神楽
1月6日の「湯花神楽」は、必見です。詳しくは、本ブログの記事「鎌倉・八雲神社~初神楽(湯花神楽)2019年~ 」をどうぞ。
大町まつり~八雲神社・例大祭~
鎌倉・大町の八雲神社の例大祭は「大町まつり」と呼ばれ、例年7月7日~13日までの間の土曜日から三日間にわたり執り行われます。特に初日の土曜日に主要な行事が集中しており、夜に大町四ツ角を中心として繰り広げられる神輿四基を連ねた「四社付け」の勇壮な神輿振は、圧巻です。
鎌倉にある四社の「八雲神社」
この記事では、大町の八雲神社をご紹介しましたが、鎌倉には計四社の八雲神社があり、それぞれ鶴岡八幡宮の東西南北におよそ位置します。まず東にあるのが西御門・八雲神社、西が常盤・八雲神社、南が大町・八雲神社、北が山ノ内・八雲神社です。
西御門・八雲神社
西御門の鎮守の八雲神社は、鎌倉三十三観音霊場五番札所・来迎寺のすぐ前にあります。勧請がいつかなのは定かでありませんが、御祭神は祇園社系列の須佐男命(すさのおのみこと)で、現在のご本殿は天保三年(1832年)に造営されたものです。境内の庚申塔は、鎌倉市の指定文化財です。
常盤・八雲神社
八雲神社前交差点という地名にもなっているように地元・鎌倉では知られた神社で、常盤天王と呼ばれてきました。御祭神は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)・速玉之男命(はやたまのおのみこと)・伊弉冉命(いざなみのみこと)で、治承年間(1177~1181年)に除災祈願のため建立されました。その後、慶長年間(1596~1615年)には矢沢与衛門尉光広が紀州熊野神社を勧請し、明治期以降は御嶽神社・諏訪神社も合祀されました。なお江戸期には隣の円久寺が別当寺を勤めていました。
建立の経緯として、石段下の案内板には「昔、梶原にあった加護社の御神体が大雨で流された。それを見つけた農民が山に祀り麦飯を供えたのが起こりというものである。参拝の時『常盤の天王 麦天王 竹の子ひしゃくで水かけろ』と唱えるしきたりがあるのはこの伝説による。」と記されています。
山ノ内・八雲神社
北鎌倉駅の西口を降りて線路沿いに大船方面に進み、「北鎌倉第一踏切」を渡って長い石段を上ると山ノ内・八雲神社があります(北鎌倉駅東口からは手前の「北鎌倉隧道」が通れなくなったため行けません)。
御祭神は、素戔嗚命(すさのおのみこと)で、鎌倉時代に疫病封じのために執り行われた陰陽道の「四角四境祭」における山ノ内側の斎場跡を利用して、文明年間(1469~1489年)に関東管領・上杉憲房が京都より祇園大神を勧請したことに始まります。現在の社殿は、弘化三年(1846年)に再建されたものです。
毎年7月15日の例大祭の神幸祭は盛大な行合祭で、山ノ内・八雲神社の男神輿と山崎の北野神社から担ぎ出された女神輿が北鎌倉駅前で合流し、天王屋敷まで練り歩きます。
下の写真の中央は、寛文5年(1665年)に建てられた庚申塔で、鎌倉では最大・最古のものです(鎌倉市指定文化財)。
京都・八坂神社
大町・八雲神社が祇園神を勧請したのが、京都・八坂神社(当時の「祇園感神院」)です。八坂神社の御祭神は、中御座に素戔嗚尊(すさのをのみこと)、東御座に櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、西御座に八柱御子神(やはしらのみこがみ)となっていますが、明治の神仏分離までは、中の座に牛頭天王(ごずてんのう)、東の座に八王子(はちおうじ)、西の座に頗梨采女(はりさいにょ)とされていました。日ユ同祖論では、頗梨采女(はりさいにょ)とは、パリサイ人の女の意とされることがありますが、牛頭天王の出自を含めて祇園信仰には深い深い謎が隠されているようです。いずれ日ユ同祖論と祇園信仰については深堀りした記事をまとめてみたいと存じます。
最後までご覧いただきありがとうございました。大町・八雲神社には鶴岡八幡宮のような華々しさはありませんが、鎌倉中心部の生活者にとり身近な厄除けの神様として、長きに渡って親しまれています。
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