鎌倉・妙本寺◆境内散歩◆
- 2020.01.31
- 境内散歩
鎌倉駅の南東に位置する比企ケ谷に建つ長興山妙本寺は、日蓮宗の霊跡本山です。近辺では藤沢・龍口寺と並ぶ高い格式を誇り、日蓮六老僧の一人・日朗門下の中核寺院の一つとして、その貫主は第二次世界大戦直後まで大本山・池上本門寺の貫主が兼任(「両山一首」と呼ぶ)し 、江戸時代までは多くの塔頭を抱えていました。また妙本寺の旧末寺には何十もの寺院が名を連ね、鎌倉・逗子近辺では安国論寺・常栄寺・大巧寺・本興寺・妙長寺・法性寺といった著名寺院が含まれていました。比企ケ谷には、かつて源頼家の外戚として源家と深い関係を築きながら北条氏との権力争いに敗れ滅亡した比企能員(ひきよしかず)の屋敷(「小御所」と云う)があり、能員の末子・能本(よしもと) が許され鎌倉に戻った後、日蓮に帰依しその屋敷を献上したことが妙本寺の始まりとされています。こうした背景から、比企一族の菩提を弔う意味で山号を比企能本の父・能員の法号「長興」、寺名は母の法号「妙本」としました。木々に囲まれた広い境内は、春の海棠、夏の青葉、秋の紅葉、冬の薄雪と、四季折々の装いも新たに私たちを迎えてくれます。
なお妙本寺のご由緒、ご朱印、年中行事、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒妙本寺へ
妙本寺の魅力
◎お参りの度に表情を変える祖師堂と二天門の四季
◎日蓮上人から日朗上人へと続く日蓮宗本流・霊跡本山の重み
◎境内の随所に刻み込まれた比企氏滅亡の歴史
境内図
夷堂橋から総門まで
本覚寺側仁王門前の夷堂橋を渡りますと、左に「南無妙法蓮華経」と 髭題目が彫られた題目塔が目に入ります。参道の奥に見えるのが総門です。
総門は、関東大震災で倒壊後、再建されたものです。
こちらは、総門脇にある「比企能員邸跡」の石碑です。
総門を入ったすぐ右手には「比企谷幼稚園」があります。こちらは昭和12年に、妙本寺の支院であった大円院の境内に開設された歴史のある幼稚園で、法隆寺の夢殿を模した八角形の木造園舎は、勿体ないほどの風格があります。
二天門
総門をくぐってまっすぐ進むと正面右手の石畳の先に石段があり、その上が二天門となっています。
左の石段の先が二天門、右の石畳を進むと駐車スペースに出ます。
二天門は、天保年間に造立されたもので、柿渋から作った弁柄で赤く染められており、正面の鮮やかに着色された鳳凰のような翼を持つ二頭の龍の浮彫が見事です。左右の二天(左が阿形・毘沙門天、右が吽形・持国天)も大迫力。
こちらは、二天門脇の寺銘碑です。
祖師堂
二天門をくぐると広い境内が開けます。正面が祖師堂。手水舎が右手に見えます。
簡素な造りの手水舎です。お正月の写真ですので松飾が見えます。
妙本寺の祖師堂は、江戸期・天保年間に建てられた鎌倉でも有数の大型木造建築物です。耐久性が高くメンテが容易な銅葺きの屋根が増える中、ひときわ目立つ立派な黒瓦から、その格式の高さが伺えます。
祖師堂には、宗祖・日蓮、二世・日朗、三世・日輪が祀られています。奥に見える厨子内に祀られた日蓮上人の像は、日蓮上人の近くに常に使えていた日法上人の作とされ、池上・本門寺および身延山久遠寺の日蓮上人の像と同じ一本の木から彫り上げられたと云われています(「一木三体像」)。この像は、日蓮上人存命の間に制作されたことから「寿像の祖師」と呼ばれるもので、日蓮上人像としては最古の部類とされています。
「尼僧喫茶」サイトにリンク
比企一族の墓
当主の能員を名越の北条時政屋敷で打ち取られ、御家人勢に攻められた比企一族は、助命された能本を除き、この地で自害しました。後に建てられたのがこの一族の墓です。祖師堂に向かって右手にあります。
一幡之君袖塚
こちらは、源頼家の嫡男・一幡が外戚の比企一族とともに焼かれた跡から見つかった一幡の衣の片袖を納めたという「一幡之君袖塚」です。手水舎の裏手にあります。
霊宝殿
祖師堂に向かって左手の建物が、重要文化財の銅造雲版など妙本寺の寺宝が保管されている霊宝殿です。この場所には、比企一族滅亡後、四代将軍(藤原氏将軍の初代)・九条頼経の正室で、比企能員の姪に該る竹御所を供養した新釈迦堂がありました。写真は海棠のきれいな春に撮影したものです。
永縁廟(日蓮上人銅像)
二天門の左手に大きな日蓮上人の銅像がありますが、こちらは永代供養塔の「永縁廟」となっています。
方丈門
二天門に続く石畳が始まるその左手にあるのが方丈門です。これをくぐり石段を上ると書院前に出ます。
書院・寺務所
こちらが、書院になります。法話等の催し事、写経会の会場として使用されます。
こちらの寺務所では、葬儀や法事の相談、ご祈祷の依頼、御朱印の授与等を受付けています。
本堂
御本堂には、宝冠釈迦如来坐像、日蓮聖人像、四菩薩像(上行
菩薩 、無辺行菩薩 、浄行菩薩 、安立行菩薩 )、鬼子母神、十羅刹女像等が安置され、彼岸会や施餓鬼会などが催されます。特に「宝冠釈迦如来坐像」 は、妙本寺の前身・法華堂の建立よりさらに前、九条頼経室・源媄子(よしこ)=竹御所(たけのごしょ)の供養堂であった新釈迦堂に安置されていた竹御所の持仏で、妙本寺よりも長く、比企ケ谷に留まっていることになります。
歴代廟
御本堂の先に歴代住持の墓所である歴代廟があります。
鐘楼堂
鐘楼にもともとあった鐘は、第二次世界大戦に際して供出されたため、現在の鐘は昭和35年に再鋳されたものです。
宗祖讃歎之碑
「宗祖讃歎之碑(しゅうそさんだんのひ)」は、漢学者・塚本柳斎の詩碑です。柳斎 は、常栄寺(ぼたもち寺)にも「これやこの法難の祖師に萩のもち ささげし尼のすみにしところ」との歌碑を残しています。
上村海軍大将之墓
こちらは、日露戦争・日本海海戦の英雄である上村彦之丞海軍大将のお墓です。上村海軍大将は、日本海海戦において第二戦隊を率い、あやうく第一戦隊が取り逃がしかけたバルチック艦隊の進路をとっさの機転で塞ぐことに成功し、世界海戦史に残る歴史的完勝に決定的な役割を果たしました。日蓮宗に深く帰依し、日蓮上人の雨乞いの地として有名な腰越・霊光寺の開基となっています。
Wikipediaにリンク
源媄子之墓
「竹御所(たけのごしょ)」と呼ばれた鎌倉四代将軍・藤原(九条)頼経の正室・源媄子(よしこ)は、二代将軍源頼家の娘です。産後の肥立ちが芳しくなく三十二歳で世を去り、頼朝直系の子孫はすべて死に絶えました。当初、このお墓の場所に、竹御所の菩提を弔うために建てられた新釈迦堂がありましたが、その後現在の霊宝館の場所に移されたそうです。
万葉集研究遺蹟
新釈迦堂に住した仙覚律師は、万葉集の研究で有名な天台宗の学僧で、比企氏の一族と云われています。この石碑は仙覚律師の優れた万葉集研究の事績を顕彰するものです。
蛇苦止堂(じゃくしどう)
方丈門に向かって左の石畳を上っていくと、蛇苦止堂に出ます。
蛇苦止堂は、比企能員の娘で源頼家の室の若狭局が、北条氏を中心とした幕府勢に攻めたてられ井戸に身を投げた後、苦しみのたうつ蛇身の怨霊となり北条政村の娘に憑りついたことから、その祟りを鎮めるために、政村が建立したものです。蛇苦止堂という名は、この蛇身の怨霊を苛む苦しみが止むことで、怨霊の祟りが鎮まることを祈念して名付けられました。現在、その怨霊は「蛇苦止大明神」として神格化され妙本寺の総鎮守となり、毎月一日には例祭が営まれています。
こちらが、源頼家の室で一幡の母である若狭局が身を投じたとされる「蛇苦止ノ井」です。
こちらは、蛇苦止の池です。若狭局が身を投げたのはこちらという説もあります。
妙本寺の四季
お正月
正月・松の内の松飾です。猫もいましたのでおまけで。
梅の頃
涅槃会の時期は、梅もきれいです。
桜の頃
春の妙本寺は海棠と桜が美しく、一年の中で最も華やぐ季節です。
桜越しの日蓮聖人像は、こんな感じです。
祖師堂前の海棠の下は、その昔、女性を巡って揉めていた中原中也 と小林英雄 が和解した場所だそうです。若い晩年を鎌倉・扇ケ谷に過ごした中原中也は雪ノ下の鎌倉養生院(現・清川病院)で亡くなり、鎌倉文士・小林秀雄は、北鎌倉の東慶寺に眠っています。
四月には「花まつり」や「千部会」といった法要が催されます。
新緑の頃
私は、この五月の新緑の頃の妙本寺が一番好きです。
初夏
西側が開けた谷戸・比企ケ谷にある妙本寺の境内では、初夏でも涼しい朝の散歩が楽しめます。
梅雨の頃には紫陽花も楽しめます。
盛夏
盛夏の祖師堂は、こんな感じ。
御本堂付近は、こんな感じ。
夏場は、凌霄花(のうぜんかづら)、百日紅(さるすべり)がとてもきれいです。芙蓉(ふよう)やユリも見ることができます。
龍口法難会
龍口法難会の頃を境に妙本寺の境内は夏から秋へと少しずつ移り変わります。
紅葉の頃
晩秋から冬に至ってようやく紅葉が色付いて行きます。
最後までご覧いただきありがとうございました。これだけの歴史と格式を誇りながら、もともと訪れる観光客は少な目の寺院ですので冬場の朝早めなどは、比企ケ谷のピンと張りつめ冴えわたる冷気を独り占めできます。
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