鎌倉・英勝寺◆境内散歩◆

鎌倉・英勝寺◆境内散歩◆

英勝寺は、鎌倉駅西口からJR横須賀線沿いに今大路を北鎌倉方面に進んだ寿福寺の北隣にある浄土宗のお寺です。英勝寺が建つ扇ケ谷のこの場所は、英勝院の祖先である名将・太田道灌の屋敷跡とされます。 鎌倉で尼寺といいますと縁切寺の別名で知られる東慶寺を思い浮かべる方も少なくありませんが、東慶寺の尼寺としての歴史は明治時代初期で閉じられており、現在の東慶寺は臨済宗円覚寺派の男僧のお寺です。そのため現存する鎌倉の尼寺は、唯一英勝寺となっています。鎌倉の主要寺院の多くは鎌倉時代に開創されていますが、英勝寺は、徳川家康の側室で、水戸徳川家初代・頼房公の養母である「英勝院(お勝の方)」が、徳川頼房公息女の玉峯清因(ぎょくほうせいいん)を開山に迎え、寛永十三年(1636年)に開創した比較的新しいお寺です。その後江戸期を通じて水戸家の姫君出身の住持が続いたことから「水戸御殿」「水戸の尼寺」とも呼ばれました。山門・仏殿・鐘楼を中心とした伽藍が並ぶ境内では、東国花の寺百ケ寺の鎌倉第六番札所に相応しく四季折々の花が楽しめ、特に春の白藤、秋の彼岸花は見事です。

◆英勝院
英勝院は、扇谷上杉家・家宰で江戸城を築城したことで有名な太田道灌の子孫で小田原北条家の重臣であった太田康資の娘とされ、徳川家康に側室として仕えました。「男ならば一方の大将に」と云われるほど聡明な英勝院は最初「お梶の方」と呼ばれていましたが、騎馬で同行した関ヶ原の合戦の勝利を祝って「お勝の方」と改名し、その後、家康最後の子・市姫の生母となり、さらに水戸徳川家の祖・頼房公の養母となりました。家康の死後も、その大奥における権勢は益々盛んで、養子に迎えた甥の太田資宗を大名に引き上げた他、格式でも春日局を上回るものがあったと云います。

なお英勝寺のご由緒、ご朱印、年中行事、季節の花々、アクセス等につきましては、以下のリンクをご覧ください。
⇒英勝寺へ

※写真をクリックすると拡大します。

英勝寺の魅力

◎特別感が際立つ鎌倉唯一の尼寺

◎同時代に建立された日光輪王寺の大猷院を彷彿とさせる原色艶やかな国の重文指定の祠堂

◎書院の縁側でお茶を頂きながら愛でる鎌倉ナンバーワンの白藤

境内図

総門

JR横須賀線の西側に沿って南北に延びる今大路に面した総門は、普段は閉じられていますが、英勝院の命日である10月23日やゴールデンウィークには解放されます。 総門前には「太田道灌邸舊蹟」の石碑が建ちます。なお、総門にはもともと後陽成天皇の弟宮の曼殊院良恕法親王の筆による「東光山」の扁額が掲げられていましたが、今は別保管されています。

お正月早朝の総門
境内から見た総門
ゴールデンウィークの総門
ゴールデンウィークの総門前受付・ご朱印もこちらで

なお創建当初の総門は関東大震災後に移築され、現在は浄光明寺の山門となっています。

浄光明寺山門

山門

英勝寺の山門(国重文)は、英勝院が没して後の寛永二十年(1643年)に、讃岐高松藩主・松平頼重公が建立したものです。関東大震災で倒壊しましたが、篤志家の間島弟彦氏(旧鎌倉町立図書館、青山学院大学の間島記念館もこの方の寄贈です)が部材を買い取り自邸内に再建しました。21世紀になってから長年の山門復興事業 が実を結び、英勝寺境内に山門を再移築・復元する運びとなり、平成二十三年(2011年)無事に落慶を迎えています。

◆松平頼重公と英勝院の関係
松平頼重公は、水戸・德川光圀公の同腹の兄にあたる方で、本来なら水戸徳川家を相続するお立場でしたが、父君・頼房公の兄筋である尾張・紀伊の德川家に嫡男が生まれる前に出生したために危うく水子にされそうになったところを英勝院に救われ、京都のお寺に預けられました。さらには出家が既定路線であったところを英勝院の取り計らいで三代将軍・德川家光公に拝謁を許され大名に取り立てられるといった重恩を英勝院より蒙った方で、英勝寺に山門を寄進するには実に相応しい御立場の方です。

当初、山門に掲げられた扁額の「英勝寺」の文字は後水尾天皇の御宸筆でした。現在山門に掲げられている扁額は、最近発見されたオリジナルの扁額を模造したものです。

山門上層には、阿弥陀三尊と十六羅漢像のうち11体が安置されています。 なお残りの内4体は鎌倉国宝館に収蔵され、1体は行方不明となっています。

十六羅漢像(達磨大師像) 十六羅漢像の内1体

「鎌倉の在銘彫刻」(鎌倉国宝館)より

鐘楼

黒塗の腰板を纏った「袴腰」の鐘楼は、仏殿などと共に、国の重要文化財に指定されています。寛永二十年(1643年)に造られた鐘楼の鐘は、関東大震災後に佐島の福本寺に移されていましたが、昭和三十二年(1957年)に新たに鋳造した鐘と交換に戻されたものです。

仏殿(宝珠殿)

国の重要文化財に指定されている仏殿は、寄棟・銅板葺に、火燈窓が付いた禅宗様の建物で、英勝院の没後、寛永二十年(1643年)に徳川頼房公が改築したものです。

扁額は総門の元の扁額と同じく曼殊院良恕法親王の筆によるもので「寶珠殿」とあります。

裏から見るとこんな感じ。

軒下には十二支の彫刻が刻まれています。

仏殿の正面・中央には、御本尊の阿弥陀三尊像が鎮座します。向かって右奥が浄土教を大成した中国の善導大師、左奥が浄土宗・開祖の法然上人です。

仏殿内部

中庭

仏殿の裏から庫裡にかけての中庭は、こんな感じ。

秋口には、中庭の東側を彼岸花が埋め尽くします。

唐門(祠堂門)

祠堂に続くL字型の階段手前にあるのが、国の重要文化財に指定された唐門(祠堂門)です。様式は唐破風が側面にある平唐門(ひらからもん)で、彩色は施されておらず地味な印象ですが、向背に刻まれた牡丹の透彫はなかなかのものです。

祠堂(鞘堂の中)

重要文化財の祠堂は、昭和37年(1962年)に完成した鞘堂の中に納まっています。

祠堂の中には、英勝院の御位牌が収められています。壁と戸は黒漆、柱は金泥、金具は銅板で仕上げられています。昭和三十七年(1962年)に鞘堂に収まるまで、長年風雨にさらされていたためか、黒漆の部分が剥落しているように見えますが、同時代に建立された日光輪王寺の大猷院(徳川家光公廟所)を彷彿とさせる建立当初の豪華な雰囲気は十分に伝わってきます。

祠堂の裏側が徳川光圀公建立の英勝院の御墓となっています。そして、そのさらに裏手のやぐらには、古くから阿弥陀三尊像が安置されています。何故か向かって右端に阿弥陀如来像、その左手に脇侍像が二体並ぶという珍しい配置になっています。

金毘羅宮

祠堂に向かって右奥のやぐらの中の祠が金毘羅宮です。

太子堂

祠堂の向かって左隣に位置する石段を上がると正面に観音様が祀られています。

観音様の向かって左隣に位置する太子堂は、今は石の祠で、中に聖徳太子像が安置されています。

元々の太子堂はずっと大きな建物で、明治の初めに大船の常楽寺に移築され、現在は文殊堂と呼ばれています。次の写真は、毎年1月25日に執り行われる文殊祭の日の様子です。普段は扉が閉められていますが、この日は内部を拝見できました。

元・英勝寺太子堂(現・常楽寺文殊堂)

三霊社権現

太子堂への石段に向かって左手奥に、洞窟が見えます。こちらが三霊社権現の出入口ですが非常に狭いので、さらに左手にある反対側の出入口の利用をお勧めします。洞窟の中には三霊社権現像が祀られています。

右手出入口
左手出入口
三霊社権現

竹林と書院

通用門正面の道をまっすぐ進むと、簡素な庭門があり、その奥左手が竹林、右手が書院となっています。江戸時代は、竹林と書院に跨ってご住職がお住まいになる大きな方丈がありました。

こちらが書院です。縁側ではお抹茶をいただけます。

春の書院前の藤棚には透き通るような白藤が溢れます。

宝庫

こちらは庫裡の隣にある宝庫です。

通用門

冒頭では、総門をご紹介しましたが、普段の出入りは、この通用門の右脇のくぐり戸から入ります。

通用門の門扉には三つ葉葵に桔梗紋がデザインされています。 三つ葉葵はもちろん徳川家の家紋で、桔梗紋は英勝院の一族・太田氏の家紋となります。

庫裡と受付

通用門を入ってすぐ右の建物が庫裡となっており、その一番手前の角に受付があります。普段はこちらで拝観料をお納めし、ご朱印もこちらで頂きます。

英勝寺と逗子市池子

英勝寺は、寛永十四年十二月に徳川家光公より寺領四百二十石を池子村(現在の逗子市池子)に賜りました。鎮守の池子神明社には、そうした関係から英勝寺より賜った神輿があり、今も現役で担がれています。

英勝寺のお花

英勝寺では、如何にも尼寺らしく、四季折々の花が楽しめます。
⇒英勝寺へ

最後までご覧いただきありがとうございました。ここのところ記事投稿の間隔が開き恐縮です。ペースはゆっくりとなりますが今後も投稿を続けて参りますのでよろしくお付き合いください。