鎌倉まつり~静の舞(2019年)~

鎌倉まつり~静の舞(2019年)~

鎌倉まつり初日の4月14日の午後三時からは、鶴岡八幡宮の舞殿で、恒例の「静の舞」が披露されました。今年の演者(立方)は、日本舞踊・泉流名取の泉朱輝(いずみしゅき)さんでした。この「静の舞」は、鎌倉時代の初め、源頼朝に追われた源義経の愛人である静御前が鎌倉に連行され、源頼朝の命により、鶴岡八幡宮の回廊で白拍子の舞を演じた故事に由来します。

◆静御前の白拍子の舞
京で白拍子の舞の名手として知られた静御前は、頼朝に命じられて、鶴岡八幡宮の回廊に上り舞を演じました。その中で義経を想い詠んだ歌が次の二首です。
よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき
しづやしづ しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな
未だ義経を慕う静御前に怒った頼朝ですが、妻の政子に宥められてその場は収まりました。しかし、間もなく静御前が産み落とした義経の子は由比ヶ浜に沈められ、静御前も母の磯禅師と共に京に返されてしまいました。

鎌倉まつりの行事日程

舞殿付近の様子

鎌倉まつり初日一番の見所「静の舞」の開演を待つ参拝客が大石段の上の方まで詰めかけています。さきほどお披露目を終えたばかりのミス鎌倉の皆さんもご着席です(新旧三名づつの計六名)。

静の舞

鎌倉まつりの「静の舞」は、鶴岡八幡宮 の舞殿で演じられますが、静御前が白拍子の舞を演じた文治二年(1186年)の時点では、まだ上宮は造営されておらず、舞殿もありませんでした。そのため実際には、現在の舞殿付近にあった回廊の上で舞ったようです。

地方(じかた)の昇殿

唄、三味線、大鼓、小鼓、琴、笛を奏する地方(じかた)の皆さんが、舞殿の東西に分かれて着席なさいます。

琴奏者の帯のモダンなデザインが目立っていました。

演者(立方)の昇殿

黄金の立烏帽子を被り、鮮やかなオレンジ色の単衣に 、金糸で模様を織り込んだ豪華な水干(袖括の緒は、単衣にあわせたオレンジ系の朱色)、紅の長袴を纏った白拍子が、太刀を佩びて昇殿なさいます。登り口では、介添より、右手に蝙蝠(かわほり)の扇を受け取ります。

静の舞

白拍子が、舞殿に足を踏み入れ一呼吸置くと、早速に唄方が「よしの山 峰の白雪ふみ分けて いりにし人の あとぞこいしき・・・」と入ります。一旦腰を落としていた白拍子も、三味線の演奏と共に立ち上がり、厳かに舞います。

所作の披露

舞い終わった白拍子が、舞殿四方の縁側に立ち、日本舞踊の所作で決めポーズを取ってくれました。

退下

公演を終えた演者の皆さんが退下します。白拍子さんは、方向転換の際の長袴の扱いが大変そうでした。

帰り際、源氏池に目をやりますと、ぼたん園の桜から舞い落ちた花弁が、水面を埋めていました。

静御前の故郷

静御前は、京丹後市・網野町・磯で生まれ、後に母の磯禅師に連れられて京に上り義経と出会うことになります。網野町・磯には、今も静御前が生まれた場所が残っています。現地の言い伝えによると、鎌倉から京に帰された静御前は、故郷のここに帰り余生を過ごしたとのことです。

近くの山の中腹には静神社があり、鶴岡八幡宮で静御前が詠んだ「しづやしづ しづのをだまき くりかえし 昔を今に なすよしもがな」の歌が彫られた石碑もあります。

静神社

この網野町・磯の漁港には、屋島合戦を前に、義経が水軍の派遣を請いにやってきたという伝説もあります。

磯漁港

こちらが弁当岩といい、義経が交渉から戻ってくるまでの間、義経一行が船を繋ぎ弁当を食したと伝えられています。

弁当岩 (べっとういわ)

こちらが、義経一行を見送ったとされる「泣き別れ岩」もしくは「涙岩」です。

泣き別れ岩(涙岩)

最後までご覧いただきありがとうございました。私も大変美しい「白拍子の舞」を拝見できてとても満足しております。